第十三章 美的感覚
「――……カンバスというのは絵を描くための板のことではないのですね」
「その通り。カンバスってのは布の事を指してるんだ。帆船に使われる布は帆布ってやつだが、そいつの英語読みだな」
「それでは、この枠はなんでもいいのでしょうか」
「構わないだろうが、カンバスを張るための釘か針を刺すんだから必然的に木製になるだろうな。あるいは都合のいい樹脂でもあれば……でも、湿度が気になるか」
「湿度、ですか」
「あぁ。カンバスは布だからな。ピンと張ったつもりでも湿気って後々たわむんだよ」
「となると、これからの準備は時期が悪いのでしょうか」
「いいや。むしろ梅雨は都合が良い」
「どうしてでしょう」
「初めから湿気ってる状態で組めば、後は乾いて張る一方だからな」
「なるほど……!」
千夏先輩からの有難いご教授に対して雪花はしきりに納得の様子を見せていた。美術部の事情を知らぬ者が見たならば、雪花の様子はこれから画家でも目指すのではあるまいかと映るやもしれぬ。勿論、雪花にそこまでのつもりはなかったであろうし、上記の問答もまた彼女の知的好奇心のもっともな行先のひとつであったに過ぎない。
件の部活動見学を終えて二十四時間も経たない翌日の時分、雪花は入部届をしたためて千夏先輩へと手渡した。その申請自体において問題はなかったものの、彼女が提出に至るまでに少々の手間があったことは否めない。
密かに憧れとしていたであろう部活動へと参加を表明する当日となり、雪花は昨日の僕の内面をそっくりなぞったかのように不安げに、集中力を欠き、落ち着きのない様子で一日を過ごしていたように窺えた。
教室にて右斜め後方に席を持つ彼女の様子に気が付かないほど洞察力に不足しているわけではなかったものの、かといって彼女の不安の根源を掘り起こして捨て去る術も特に思いつかなかった僕もまた、中途半端な気遣いのやり場に困惑しつつ、注意力散漫のまま一日を消化していた。
やがて全ての授業が次回を待つ段階に至り、そこで僕は次の身の振りようを悩んだ。普段と変わらず足早に帰路について図書館にでも寄るべきか、それとも部活動への忠誠心を示すべく連続出席日数を更新すべきか、この時点で決めあぐねていた。
そこで僕は先日と同じように教室前廊下の一角に背をもたれながら最適解を導き出そうと暫し黄昏ていたのだが、そこへ教室掃除を終えた雪花が声をかけてきたのである。
片手には通学鞄を、もう片手には二つ折りにした署名済みの入部届を握る雪花は、さぁ行きましょうと言わんばかりの、いつ頃に踏ん切りがついたのかも知れぬ強い決意を身体に括り付けながらも、それとは相反する一抹の隠しきれない不安もまた二つの真っ黒な瞳の裏に住まわせていたため、僕はろくな返事もできぬまま、ずんずんと進む彼女の背中に引っ張られるようにしてついていく他なかった。
どうにも雪花の中には部活動とは毎日顔を出して然るものという認識があるらしく、特に理由もなくサボるという選択肢は想像し得る範疇のどこにも存在しないようであった。それ故に、今日の僕もまた当前のように美術室へと足を運ぶものだと考えていたらしく、僕が本日の放課後の使い道を模索してふらふらとしている姿は、共に部室へと向かうために彼女の教室掃除当番が終わるのを待っているように捉えられたらしい。
さて、雪花の足取りは堅実であり、乱れることなく西校舎三階まで二人を導いたものの、いざ美術室へと入室するその段階となって途端に内情の均衡が破られたのか、彼女は扉にかけた指をぴたりと止めたまま、後方に控えていた僕の方へと顔を向けた。その状態で彼女は、自分が入部して本当によいのだろうか、迷惑になりはしないだろうか、そのあたりについて僕に確認を取った。
かのような雪花の土壇場における憂いに対して、それは随分と過剰であると慰めの一言を投げかけることもできたが、僕はそのような手段を講じなかった。
何故か。それは、かつての僕自身もまた今の雪花と同じように、中途から部活動に参入しなければならない状況を経験しており、当時の僕の内情もまた今の彼女のそれと特別変わるところがなかったためである。
加えて僕は、常に心配と不安に駆られて忙しない――これはもう、無神経恐怖症とでも呼んだ方がしっくりくる――母親と同居しているがためにそこから感化されたか、他人の心配事に関しては幾らか鋭敏に察知して同情できるという自負を持っていた。
僕が上記の事情を語ると不安の解消の一助にはなったのか、雪花は今度こそ決心がついたらしく美術室の扉を開いた。そして、道中と変わらぬほどの威勢で教室前方中程まで歩み、昨日と変わらぬ姿勢で創作活動にのめり込んでいる千夏部長へと挨拶し、手に握り締めていた入部届をずいと差し出した。
それが三十分ばかり前の話である。
「なぁ、おい。お前はちゃんと聞いてるのか」
全ての机と椅子の組を後方へと押しやって広々とした教室にて、千夏先輩は雪花へと章の冒頭にあったような内容の講釈を語っていた。
僕と雪花は教室内の適当な椅子をそれぞれ拝借し、千夏先輩を合わせた三人で三角形状に向かい合っていた。聴講者の主体は間違いなく雪花であったため、僕は相槌の二、三を時折挟む程度で静かにしていたが、その態度が千夏先輩からすれば暇を持て余して上の空のように映ったらしい。
「えぇ、ばっちりです。去年の六月に同じ話を拝聴しました」
「そりゃ頼もしいな。で、どうだ。その知識を形にしてここに持ってきたことはあったか」
「途中のやつでよければ後ろに置いてありますよ」
僕が美術室後方の一脚を指さすと、千夏先輩は「あんなもん、バラして再利用した方がいくらか役に立つ」などと、無情にも芸術品以下の物体としてその上の一枚を切り捨てた。
人の描いた絵をあんなもん呼ばわりとは心外だが、僕が描いた風景画――正確には、いずれ風景画になる予定だったもの――は実際に作品と呼べる域まで手が加えられておらず、それならば千夏先輩が言ったあんなもんという表現の方がむしろ適しているのではなかろうかと、黙って手のひらを返した。
「宇佐美さんの描いた絵もここにあるんですか」
雪花が興味を示した。
「ん、んん。まだ途中だけど」
まだってことはいつか仕上げる気でいたのかと、千夏先輩が横槍を入れた。
「そりゃあ、まぁ、せっかく張るところまでやったので、いずれは」
「ぜひ、見たいです」
「言った通り、途中だから面白くもなんともないと思うけど」
「ダメ、ですか」
「いや、ダメってわけでもないけど……」
一目で萎んだと分かる雪花の落ち込みようと、おいおいウチの部員を苛めるなよと再び割り込んだ千夏先輩の一言に、僕は完全に押し負けた。
……知り合って日も浅いってのに随分と仲良くなっているじゃないか。
彼女らの挟撃によってこれ以上の逃げ道を塞がれた僕は、仕方なく席から立ち上がって教室後方へと足を運んだ。
目的物は埃を被ったイーゼル群のひとつの上に立てかけられている。十五号――これはセンチメートル換算でおよそ縦横六十五と五十に相当する――の木枠にはカンバスがぴんと張られており、美術部に入るまでは写生会の折にしか画材に触れることのなかった僕の一作目かつ唯一の作品としてはそこそこな状態ではないかと言える。もっとも、木組みの側面には損ねるたびに引き抜いた鋲の痕が幾つも打たれており、さながら傷付いたレーザーディスクを再生するかのように、その準備作業が不慣れであったことを克明に記録してもいた。
その十五号を持ち上げて上部の一辺を息で払うと、薄く積もっていた塵や木屑が白い煙となって周囲の大気に紛れ、代わりにカンバスの天辺が元の質感を取り戻す。僕は一か月ぶりに人の手に触れることになったその一枚を手にして席へと引き返し、椅子の上へ自身の腰の代わりにその絵を下ろした。
「綺麗、ですね」
絵を前にした雪花が呟いた。
「ついさっきまで埃まみれだったけどね」
「とても綺麗な絵だと思います」
「この絵が? まさか。お世辞でも嬉しいけどさ」
「いえ、本当に素敵な一枚です。麗らかな陽だまりの中のような……温かさがあるような気がします」
雪花はそう強調して僕の絵を再び眺めた。この絵のどこに彼女が惹かれたのか分かりはしなかったが、作品をまじまじと観察されることに慣れていない僕は恥ずかしさの置き所に困り、視線の方向に迷い、自らの作を改めて鑑賞した。
緩やかな土手から見下ろした河川……カンバスの一面を当時の視界と見立て、川の流れが右から左へと一直線に横切り上下を分断する……下には大小入り混じった礫が河原を成し、上は対岸の河原とその奥に生える雑木林が占めているが……定着液によって固められた下描きにおいて、油に溶かした絵具で色を乗せられているのは、川底に沈む石塊のための灰色と、木々の暗がりを表す深緑だけであった。
暗色ばかりが塗られたその中途の一枚からは、悲壮感やそれに類する感情は掻き立てられようとも、雪花が呟いた綺麗などという煌めいた表現には到底結びつかないように思えた。
しかしながら、僕はこの絵に――少なくとも、実際に金獅子川へと足を運んで下描き用のスケッチを終えた時点においては――絶叫や慟哭などといった無情なるものを前面に押し出してはおらず、それこそ雪花が先に述べた通り、明るさと温度を持った一枚として描いたつもりであった。
そのような経緯について話さずとも、彼女がこの描きかけの絵に未だ実装されていない体温を感じ取ったことに対し、僕は密かに、驚くと同時に喜んだ。
「まぁ確かに、下描きはなかなかのもんだ」
「珍しいですね、千夏先輩が感心するだなんて」
この評には隠すことなく驚いた。
「素人だって言うわりには上出来って意味だ。絶賛まではしないぞ」
「それはどうも」
「構図はありがちだが悪くないし、パースもまぁ滅茶苦茶ってほどでもない」
「やっぱり珍しいですね。僕が褒められると伸びるタイプだってことに勘付きでもしましたか」
「だから、期待してたんだがな」
千夏先輩は表情を変えずに溜息をついた。
期待と聞いて二つの候補が頭を過った。
ひとつは、僕の画力がめきめきと向上することだが、それについてはまずないだろうと即座に否定した。千夏先輩が他人の画力や作風などに特別な興味や関心を抱く性格だとは思えず、それは彼女が専ら自身の作品の追求にのみ熱心であることから容易に想像できたためだ。
故に、千夏先輩の期待とは、僕が制作の醍醐味というものに開眼し、美術部に一層の興味を持って属するということに疑いようがなかった。
考えてみれば当然のことと言える。僕は部長を除けば事実上唯一残った美術部員であり、その最後の一人が離れれば必然的に部としての体は維持できなくなり、来年度には休部か廃部に陥る可能性が飛躍的に高まることだろう。
自らが入れ込んだ居場所がなくなる……それがいかに寂しいものか……
身体が砂と化すがためにバスケットボールを含めた運動の一切を手放す他なかった過去の僕と、高校三年間の大半を費やしたであろう美術部をそう遠くない内に失うことになる現状にいる千夏先輩とは、どこか近しいところがあったと言える。
しかしながら、避けようのない問題に抗うすべもなく呑み込まれて流されるままの僕とは異なり、千夏先輩の憂いる問題には解決の命綱が結ばれていることは確かであった。何故ならばこの美術部にはつい先刻、新たに部員が一名加入し、そのやる気も並々ならぬものであったがため、総人口の絶対的な少なさには目を瞑るとして、存続という一点に限ればある一定の保証が成立したと言えるためだ。
だからであろうか、程度はともかくとして千夏先輩は、僕に対して変わらずの憂いは抱えているものの、それ以上の希望がもたらされたことによって、平時よりは確実に上機嫌でもあったのだ。
「まぁ、あれこれ見たり聞いたりするよりも、だ。とりあえず一発、手を動かしてみるのが一番手っ取り早い」
「筆は習字の時にしか使ったことがないのですが、私にも描けるでしょうか」
「そう気構えなくてもなんとかなるもんだ。ただまぁ、最初はとりあえず鉛筆で何か描いてみるか」
千夏先輩はイーゼルに立て掛けていたスケッチブックの一番後ろを剥がそうとしたがそのままでは都合が悪かろうとみたかその操作を取り止めて、白紙の一枚が最前面へとなるようにページをめくってから、同じく彼女の持ち物である鉛筆と共に雪花へと手渡した。
そのまま席を立った千夏先輩は美術室に隣接する用具室へと潜り込んだ。画材や備品がぶつかり合い、がしゃがしゃと無作法な音が何度か響いた後、彼女はその奥から幾つかを手にして戻ってきた。
ラタンの丸かごに詰め込まれたプラスチック製のリンゴ、バナナ、ブドウ……
まさにデッサンにうってつけのそれらに乗っていた白い埃を払いながら、千夏先輩は教室後方から適当に引っ張ってきた机の上に一式を安置し、さぁお手並み拝見とばかりに雪花を煽った。
「よし、新入りの力を見せてくれ。全部描くのが難しければ一部分だけでもいいぞ」
「あっ、あの……私、こういった感じで絵を描いたことが本当に全くないんですけども」
「とりあえず描いてみることが大事なんだよ。出来栄えなんて二どころか三と四の次だ。なんならある程度やらかした方が修正部分が早めに分かって後々のためになるしな」
「そういうものなんですか」
「そういうものなんだよ」
「そ、それじゃあ……頑張ります」
雪花は椅子を机へと向けると、うんと気合を込めて鉛筆を握りなおした。
静電気に引き寄せられる風船のように、僕の視線は彼女の手元を自然と意識した。
手にした鉛筆と同じくらいに細い指には関節が刻む皮膚の折り目以外に、跡や傷といった一切が目立たない。その指先には余分がほとんど見えぬよう短く綺麗に整えられた爪が乗っていて、血色のよい薄桃色が半月爪を除いた全体へと一様に広がっている。
秋桜の輪の如き可憐さをどこか思い起こさせるそれら五本の指をたどたどしく繰りながら、雪花は千夏先輩から与えられた美術部最初の課題へと着手しだした。
……へぇ、左で絵を描くのか。
僕がそのような感想を持ったのは、記憶の片隅に残っていた過去の光景と、眼前で起きた光景との間に、僅かなずれが生じていたためであった。
雪花が転校してきた初日……クラスメイトに背を向けながら自らの名を黒板に刻むその姿……そのときは右手に白墨を取っていたような気がしたが……
僕がはっきりと記憶に留めていたのは雪花を目にしたまさにその一瞬のみであり、それ以降の諸々は水に溶かした水性塗料の如く淡い印象でしかない。よって、先の違和感もまた、溶けて対流した塗料が作る靄による思い違いかもしれなかった。
それに、仮に記憶の光景が正しかったとして何か問題でもあるのだろうか。右と左のどちらかが、あるいは両方が利き腕だったとして、それぞれが分業することはそう珍しいことでもない。字を書くのが右で、絵を描くのが左、そういうこともあるだろう。
そのような思考を経て、僕は喉の奥に刺さった小骨を自らの手で取り除くに至った。
「さぁて、どんなのが出来上がるかな、楽しみだ」
「随分とまぁ、ご機嫌ですね」
「この歳までまともに絵を描いたことがない、って言ったんだぞ。どれだけレアケースだと思ってんだ」
「僕も美術部に入るまではまともに絵を描いたことはなかったですけどね」
「お前のは格別上手くもなければどん底まで下手でもない、どこから見ても普通の作だったからな……コメントに一番困るやつだ」
「おや、さっきは褒めてくれませんでしたっけ」
「だから、素人にしてはって言っただろ。上手と、普通と、下手。三つのどこかに入れるとしたら、お前の絵は迷うことなく普通の仲間入りだ」
「一番下じゃないだけありがたく受け取っておきます」
「良い心掛けだぞ。さて……私は画家の作品集を観るとき、晩年の作よりも早年の作を楽しみにしてるんだ。何故かわかるか」
「見当も付きませんね、性癖か何かですか」
「私にもわからん。ただ無性に、下ろす直前の筆だとか、床に敷く前のカーペットだとか、誰それの描いた最初の一作だとかに惹かれるんだよ。お前にはそういう経験はないのか」
「千夏先輩が持ってる電化製品って、買ったときの保護フィルムを剥がしてないでしょう」
「はぁ、よくわかったな。その通りだよ」
「多分、それを剥がすか剥がさないかくらいどうでもいいことなんで生涯気にしなくていいと思いますよ」
そこまで話してちらと視線を横へずらすと、その先では雪花がうんうんと唸ってデッサンに精を出している最中であった。
肩に遮られているため手元のスケッチブックの状態は判断しかねるものの、進捗が芳しくないことは間違いなかった。雪花の手はふらふらと空を漂うばかりであり、握られた鉛筆の先端も身を削るあてが見つからずに軌跡のみを漠然と残すだけであった。
……ただの静物デッサンで何をそこまで迷うことがあるのだろうか。
こちらの意図を慮ることもせずに本能の赴くままに走り回る子どもや動物を対象とするならいざ知らず、自発的に動くことのない置物――それも一風変わった奇天烈な物体ではなく、ありきたりな果物の模型――を描くにあたり、筆を彷徨わせる場所はどこにあるのだろうか。
無論、これが本気のデッサンであれば悩む箇所は幾つも見つかるであろう。遠近、陰影、光沢、濃淡……取り上げれば際限がない。
とは言え、素の画力がどれほどのものか少しばかり確かめるだけの気楽な模写において、それも自らが全くの素人であるということを公言している段階にあって、そこまで思い悩まなくてもよかろうではないか。
一体何に手こずっているのか気になった僕は、楽しみは最後まで取っておくと宣言した千夏先輩から離れて、雪花の背中へと声をかけた。
「何か、問題でもあった感じかな」
雪花はびくっと肩を跳ね上げると同時に、顔だけを僕の方へと振り返った。
「いえ、全然、なんでもない、です」
スケッチブックは内側をしっかと胸に抱かれていてやはり現状がわからない。
「鉛筆の芯が折れたとか? 鉛筆削りがないからデザインナイフで削るんだけど、やったことはある?」
「何か壊れたとか、問題があるとか、そういうのではないんですけども……しいて言うなら……」
「言うなら?」
「その……出来が良くないと言いますか、とても見せられるものでは……」
僕は作品をまじまじと鑑賞されて気恥ずかしさに襲われていた先ほどの自身を棚に上げながら、なんだそんなことかと心中で呟いた。
千夏先輩が絵を描かせた真意は、絵に対する雪花の理解がどの程度の高さにあるのかを確認したいというところにあって、提示された一品に対して上手いだの下手だのラベルを貼りたいわけではない。
そもそもの本質が異なる以上、雪花が手元の一枚に過度な心配を託す必要などないわけだが、そうは言ってもどうあれ作品を提示するにあたってどこか物怖じするところがあっても、それはそれで仕方のないところではあった。
「そんなに気負う必要なんてないと思うよ」
「ですが、私が言うのもどうかと思いますが、あんまりな出来ですよ」
「白金さんにはさっきの僕の絵が、百年後に家を買えるような値段で取引されるような逸品に見えた?」
「いえ、大変申し訳ないですけど、そこまでとは」
「その程度で十分なんだよ」
「そう……ですか。ではお見せしますけど、その、本当に酷いですよ」
「実際に見るまでは僕には判断付けられないかな」
「引かないでくださいね」
「分かったわかった」
雪花は僕の方へと完全に正面を向け、もう二、三度ほど躊躇った後、いよいよ踏ん切りが付いたのかスケッチブックの面をひっくり返して見せた。
描かれていたのは丸かごの中央と、その上端から覗くリンゴの上半分らしきものだった。
らしきもの、と僕が述べたのは、雪花が模写した候補が正面の机に乗せられた静物以外に想定できず、従って、黒炭の跡によってスケッチブックに転写されたそれが表そうとしているものもまた、机の上の静物一式と同じであろうという前提があるからに過ぎない。
紙面の中央にはラタンの丸かごが描かれているが……正面から見れば半月を描く形状のそれは、机と水平の一辺を基準に三等分したとして、左と右の部分が描かれておらず……底の丸み以外の三辺を直線にて区切られたことで、拳銃の9mm弾頭を下向きにしたかのような形状をしている。
その9mm弾の雷管に相当する部分からはリンゴの上半分が姿を覗かせているように見えるが……その輪郭は滑らかな曲線でも、鋭利な直線でもなく、さながら真夏の夜に漂う蒸した外気の如き不定形を成しており……コンクリートにしこたま全身を打ち付けられてべこべこに窪んだ卓球玉と表現した方が的を射ている。
そうして部分ではなく全体に着目してみると、なるほど、その原因は難しくない。
輪郭線がことごとくぼやけて実体を維持できずにいるのは、描こうとした対象物の位置決めを描き出す前の時点で確定しきれておらず……加えて、描き出した後は消しゴムがないために――もっとも、修正手段を渡さなかったのは千夏先輩が敢えて講じたことだと明らかだが――失敗した跡をなかったことにすることもできず……積み重ねられた軌道修正の履歴が、描きたい静物と背景とを切り離す境界線を著しくぶれさせていたためである。
かのような一応の分析を走らせたが、それにしても、である。
斜め上方から見下ろした構図が如何にしてこのような真横から見たような図に転化したのか……どうして一か所たりとも円滑に続いた線が存在しないのか……凝視していると原型の方が想像できなくなるような認識崩壊を誘発するのは何故か……上手く説明ができなかった。
正気と狂気の狭間に置かれたようなこの絵を、あの可憐な指先から召喚された生産物だと、誰がどうして予想できるであろうか。
「どうでしょうか」
「……うんっ?」
「この絵について、です」
「あぁ……そうだね」
僕は迷った。先の分析を一字一句違えることなく正確に雪花へと伝えてもよかったが、スケッチブックの後ろから見上げる彼女の瞳は、もっと簡潔な評価を希望しているようにも見えたためである。
故に、僕は迷った。目の前の一枚を評するに最適な単語がひとつ浮かんでいて、それが喉元まで出かかっているのだが、そのあまりに率直かつ端的な一言を口にすることは――自分で言うのは憚られるものの、どこか根の優しい僕にとっては――食卓に残された宅配ピザの最後の一切れに手を付けるよりもなお勇気が必要とされる大変な苦行であった。
僕は評価を練るふりをしながら暫し黙った。両手をズボンのポケットに突っ込み、今まさに考えていますといった素振りをアピールしながら、ううんと声ばかりの迫真を見せた。
押し黙った時間が続くほど、僕は切り出しにくくなり、雪花の不安は積もるだろう。
絵を晒した雪花が見せたように、僕も踏ん切りを付けなければならない。
強い言葉を放つ勇気を持たなくてはならない。
右中指の先端がポケットの底の縫い目をざらりと擦った。中指の爪を親指の腹でなぞるとテープカッターの金属部のようにざらざらとした感触が伝わる。爪の先端が砂となって欠けたらしい。耳を澄ますと鼓動が平時よりも忙しなく、とくとくと血液を送り出しているのが分かる。
……おい、嘘だろ。こんなことでどれだけ緊張してるんだ、僕は。
僕は思慮に耽る真似事のために床へと向けていた顔を上げた。
そうして正面にて待つ雪花を視界の中心に収めた後、僕は……
「千夏先輩はどう思いますかね」
「なんで私に聞くんだ」
「僕の語彙力だと尽くしきれなかったので」
「完成したら見るってさっき言っただろうが」
「是非、今、お願いします」
「一体、なんだってんだ……」
……あぁ、千夏先輩、僕の代弁者としてお手を煩わせることをお許しください。
僕はとんだ臆病者であった。
ただ一言、そう、ただの一言の感想がどうしても喉より外へと押し出せず、後方で座っていた美術部の大先輩を、呆れたことに生贄として差し出したのである。
いや、この行為を生贄だの高尚な呼び方で取り扱うのは間違っていることだろう。僕は向き合うべきはずの現状に背を突きつけ、美術部の大先輩を殿に置き、脱兎の如く問題から距離を置いたのだ。
さて、僕の代役として立った千夏先輩は雪花の手元を見つめながら、悩ましい呻き声を幾つか残したかと思うと、仕舞いにはぴたりと身動きを止めてしまった。
沈黙に耐えきれなくなった僕が感想を促すと、千夏先輩は一言、「こいつはたまげた逸材だ」と述べた。
「と、言うと」僕は真意を尋ねた。
「直しどころしかないってのは凄いことだぞ。二者択一の期末試験で全教科零点を取るようなもんだ」
「なるほど、そういう意味ですか」
「お前はこの絵をどう見る」
「描かんとしていることはなんとなく理解できるので……目で見た光景を紙へと移し取る間のどこかに不慣れがあるんじゃないかと」
「なかなか上出来なコメントだな、私を呼ぶ前にそう答えてやれば良かっただろうに。よし、ちょっと代われ」
千夏先輩は先ほどまで座っていた椅子を雪花の隣まで動かし、スケッチブックと鉛筆を受け取ってから腰かけた。
ページをめくり、まっさらな一面を前にすると、千夏先輩はさらさらと鉛筆を走らせ始め、三分と経たぬ間に新たな一枚を描き上げた。わざわざ説明を受けずとも、そこに描かれたものが先ほど雪花が描いたものと同一であると一目で判断できる。
全体を構成する線の数は雪花のそれと比べると明らかに少なく、紙上に擦られた黒炭の嵩で言えば五分の一にも満たないであろう。スケッチブック本来の色である白が占める割合も圧倒的に多い。
にもかかわらず、その絵が何を示しているのか、どのような状態にあるのか、どのような構図で描かれているのか、判然としているのはどう見ても千夏先輩の描いた一枚の方であった。誰がどう評価してもこの絵は、右から差し込む陽に照らされたラタンの丸かごに積まれたリンゴを表していると、十人が十人ともそう答えるであろう。
「結局のところ、どこまで手を抜けるかってところが重要なんだ」
「手を抜くこと……ですか」
雪花が意外気に問うた。
「そうだ。デッサンが主目的なら好きなだけ追求して構わないが、どうせこれは本番前の下描きだ。凝ったところで最後は全部、油の下だ」
千夏先輩はリンゴの縁周りに少しばかり影を付け足し、表皮の艶を相対的に引き立たせた。その運びで一段落したのか、これ以上の加筆を蛇足と見たか、あるいは単に興味を失ったのか、彼女はスケッチブックを机の上に置き、表紙の上に鉛筆を転がした。
「だから、然るべきところを、然るべき形で描き移すだけでいい。比率と、輪郭と、奥行だ。そこら辺を常識的な範囲に収めさえすれば下描きとしては上等な部類になるって寸法さ」
「では、その部分を鍛えるにはどのようにするのが一番なのでしょうか」
「そりゃあ、数を描くしかあるまいよ」
そこで千夏先輩は何か思いついたらしい。美術室の黒板横に吊られたカレンダーに目を凝らし、次のように切り出した。
「なぁ、お二人さん。土曜日の都合はどうだ」
「私は、今のところ特には」
僕も同じくと続けると、千夏先輩は実に満足そうに続けた。
「よし、決まりだ。明後日の土曜は陽の下での部活としようじゃないか」
「わざわざ外に出て描く必要ってありますかね」
僕の野暮な突っ込みには耳を貸さず、千夏先輩は上着の内ポケットからスマートフォンを取り出して適当に画面を操作した。画面全体に企業のロゴが一瞬表示された後、誰もが知る有名なメッセージアプリのメインページが操作可能の状態となって現れる。
「こいつはダウンロードしているか」
千夏先輩が雪花に確認した。
「あんまり使ったことはありませんが、一応入っています」
「なら都合が良い。美術部のグループがあったんだが、えっと……どうするんだっけか」
千夏先輩も雪花もこういったアプリケーションには熱心がないらしく、僕もまたスマートフォンを見つめる時間よりかは図書館で読書に費やす時間の方が幾らか長い生活様式であったため、この美術室には不名誉にも機械音痴が三人集っていたことになる。
美術部のグループからはメンバーがいつしか散発的に抜け落ちて空中分解していたこと、そのような存在を美術部部長が忘れていた程度にはグループが前々から機能していなかったこと、もう一度各幽霊部員を呼集して美術部全体の集合場所を作り直すこと自体が不毛であること、それぞれを鑑みた結果、千夏先輩は過疎化した美術部のグループに雪花を加え入れることよりも、単に互いのIDを交換して個別の連絡を入れるほうが手っ取り早いとの判断を下した。
千夏先輩は雪花と連絡先を交換し、次いで僕と雪花にも交換しておいた方が便が良いと言って促した。
「よかったな。これで寂しい連絡先が少し華やかになったぞ」
「千夏先輩も僕とそう代わり映えしないでしょう」
「まぁな。だが私の友達欄にも一人増えたんだ。差は縮まっていないぞ」
「僕と張り合ってどうするんですか……」
「哀しいよな。交友関係が少ないと、こんなことでもマウントを取りたくなるんだからな」
自虐する千夏先輩から雪花の方へと視線を移すと、彼女は手元の画面をじっと見つめるように下を向いていた。
その拍子に彼女の画面に映る情報の一部も目に入った。連絡先を示すアイコンの数は僕や千夏先輩のそれと比べて幾らか多い。その各行の片隅には最後の交信記録が薄い灰色の文字でそれぞれ表示されている。
『それじゃあ、またいつか』『いつでも連絡してね!』『バイバイ』……
「何か送ってみたらどうだ」
そのような提案が投げかけられ、僕ははっとして面を上げた。
千夏先輩は跳ねるような僕の動きに驚いたのか、怪訝そうな表情を一瞬浮かべた後、僕が呆けていて先の一言を聞きそびれたのではないかと心配したのであろう、「ちゃんと送信できるかどうか確かめておいた方がよくないか」と改めて提案した。
僕は雪花の連絡先を開き、『これからよろしく』とだけ書いて送信ボタンをタップした。
少し遅れて雪花のスマートフォンが振動し、次に僕の手元も揺さぶられた。
熊だか猫だかわからないデフォルメされた白いキャラクターがにっこりと笑みをたたえた可愛らしいスタンプが、僕の送信したメッセージの下に続くようにして画面に表示されている。
正面にはそのスタンプとそっくりな表情の雪花が立っていて、僕は思わずつられて笑ったが、それと同時に寂しさらしきものも彼女から少しばかり透けて見えたような気がした。
追記。
面と向かった言葉ではなく、紙面に綴る今だからこそ正直に書こう。
この機を逃せば次がいつになるか知れぬため、逃げた過去と決別するためにも述べたい。
大変申し上げにくいが、雪花、あの時の君の絵は驚愕する他ないまでに下手であった。