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第十二章 撚り糸

 美術室の引き戸の先には昨日の放課後の姿形がそっくりそのまま続いていた。

 昨日の未明には施設管理人の手によって施錠されたはずの窓はビデオテープを巻き戻したかの如く再び完全に開け放たれており、吹き込む風もまた同様にして端に寄せられた遮光カーテンをちらちらと靡かせて教室内の光と影の境界線を揺らめかせている。

 そして、昨日の再現を正面とした一か所にやはり同じくイーゼルが一脚準備されており、その持ち主である千夏先輩もまた変わらぬ様子で、自身の描いた一枚絵の下描きを前に深く考え込んでいた。

 返事がないことは分かりきっていたので無言で美術室の扉を開き、気にせず入るようにと雪花に促した。彼女は教室前方に座る先客を認めたことで若干の戸惑いの色を見せたものの、僕がさっさと教室内に入る様子を見て決心したらしく、蚊の鳴くかのように控えめな声量で挨拶をした後、美術室後方へとさっと歩を進めた。

 掃除用具入れの置かれた位置を美術室後方の手前とするならば、奥側には様々な作品が乾燥を待って佇んでいる。

 壁に貼り付けられた四角い格子状のロッカーの各所には、どこかの教室の授業にて制作されたであろう、握りこぶしをかたどった粘土細工が埋められている。その前方にはこれまたどこぞの美術の授業中に指示されたであろう、美術室内の静物が好き勝手に描かれたA3サイズのスケッチブックと色鉛筆の納められた半透明プラスチックケースが対になって揃えられ、教室後方へと寄せられた机の何脚かに渡って整然と並べられている。

 それらの更に奥、校舎の外を望む窓の側へと押し込まれるようにして、芸術の選択科目として美術を選んだ生徒の作とは区別されて、我らが美術部の作が並んでいる。美術部の活動の成果とも言えるそれらを雪花に紹介しようとして、僕は頭を抱えた。

 完全に水分を失ってなお日光を浴び続けた粘度彫刻――これはなんだ、人の顔を模ったのか、そうでなければこの世の生きづらさに激情を練り込んで具体を形成した悪魔のそれなのか、もはや作成した張本人でなければ解説できない――には容易に修繕できぬ自然の深いクレバスが幾つも走り、滑らかな部分の面積よりも亀裂の谷間の面積の方が遥かに勝っている惨状だ。

 美術部の備品であるイーゼルの上に置きっぱなしにされていた絵画の一群には完成済みと呼べる一枚が見当たらず、どれもが中途半端に油絵の具を塗られた未完成の状態で放置されている。

 それらの中においては完成形に最も近いであろう僕の描いた風景画でさえも、一か月もの時をろくな手入れもされずに過ごしたことで、表面にも天辺にも埃を薄く纏っている有様であり、つまるところこれら美術部の集大成には部活動の宣伝材料となり得る魅力が一片たりとも含まれていないことが、誰から見ても歴然であった。

 雪花は誰がいつ作ったのかもわからない、大地震に襲われて倒壊したビルを彷彿させる異形の物体――これに美術彫刻という識別名を添えることすらおこがましい――のひとつをしげしげとながめて、「何か、こう、趣のようなものがありますね」などと感心していたが、そのような世辞を受けること自体が、幽霊だとはいえ仮にも美術部員である身として恥ずかしくなった僕は、これ以上の美術部の恥部を彼女の目から覆い隠すべく、未だに背後で繰り広げられる部活動紹介に気付いていない様子の千夏先輩へと責任の一切合切を直ちに放り投げることを決めた。

 僕が千夏先輩の肩口まで歩み寄ってから声をかけると、彼女はまたも鉛筆を取りこぼし、今度は振り返ることもなく愚痴を吐いた。

「なぁ、わざとやってるのか」

「まさか、滅相もない」

「知ってるか。加虐嗜好と被虐嗜好は本質的には異としないもの同士なんだとさ。相手を驚かせて悦ぶのか、驚かせた相手に怒鳴られて悦ぶのか、お前はどっちなんだろうな」

「僕は驚かすのはごめんですし、驚かされるのはもっとごめんですね」

「はっ、どうだか。黙って部室に入ることに味でも占めたんじゃないだろうな」

「先輩のご希望通り、昨日と同じ時間に来たんですけどダメでしたか」

「私はこうも言ったよな、『毎日』決まった時間に来いって。一か月もサボっていたやつが偶々フラっとやって来て、その翌日も偶々フラっとやって来ることを心構え万全に予想できると思うか……」

 千夏先輩は拾い上げた鉛筆を削り直すために椅子の横に置いていた用具入れへと手を伸ばしたが、その拍子に背後の床の上に想像していた倍の本数の足が立っていることに気が付いたらしい。

 彼女は拾い上げる動作を止めずに慣性だけで僕とその隣に立っている雪花を目視した後、手にしたデザインナイフと鉛筆をイーゼル手前の縁に置き、そこでようやっと本格的に身体の正面を僕たちの方へと向けるに至った。

「や、これは悪かった。そいつの存在感が薄いことには慣れてたが、君も負けず劣らず、その、なんだ、静かなんだな」

「あの、すみません、集中していたようですので……」

「なに、気にすることはない。それで……すまん、誰だったかな。ヒントをくれ。君が最後に美術室に来たのはいつ頃だ」

「今日が初めてです。部活動の見学でお邪魔しています」

「……なんだって? もう一回言ってくれ」

「先日転校してきた二年の白金雪花です。見学のために、こちらの宇佐美さんに……」

「待て待てまて。見学だって? なあ? この、美術部に?」

 美術部に、ではなく文化部に、とするべきだったが、雪花の代わりにその情報を訂正しようと口を開きかけた僕を千夏先輩が制止した。

 まぁここは任せておけと、そう言わんばかりの自信に満ちた千夏先輩の圧の強さに、僕は本来の職務であった文化部紹介を一旦停止せざるを得ず、彼女の勧誘行為がひとしきり満足するまで余計な口出しをせずに傍観することになった。

 新入部員の獲得機会を目の当たりにしてあれこれ画策する魔女から白雪姫を保護することは造作もないことではあった。

 人のことは言えないが、どうにも積極性に欠くように思える雪花の代わりに僕がただ一言、……他の文化部も回ってからゆっくり考えばよろしいと、彼女たちの間に一寸ばかり割り込んで述べれば、多少惜しむところはあったとしても千夏先輩は、今まさに競争へと繰り出そうとしている馬の尾のようにはりきるポニーテールをそっと鎮めたことだろう。

 であるならば、初対面の先輩に哀れにも振り回されている級友を救い出してやることがものの道理のように聞こえるかもしれないが、僕は次の二つの理由によって傍観者である自身の立場を崩せずに、いや、崩さずにいたのである。

 ひとつは、僕の物言い方が片一方に贔屓していたため読者諸君を勘違いさせたかもしれないが、美術の素晴らしさについてとくと語る千夏先輩に対して、辟易のひとつも見せずにこれまた熱心に――それも、表ばかりの態度ではなくどうやら本心から――雪花が耳を傾けており、彼女たちの会話が坂を下る大岩のように一方向にではなく、バランスの適したシーソーのように実に軽快に継続してコミュニケーションとして成り立っていたためである。

 もうひとつは、これは僕由来の理由となるのだが、率直に述べるとこの時、身勝手ながら僕は雪花の部活動見学がここで終わってほしいと――つまり、彼女が美術部を気に入ってほしいと――どこか望んでいたのである。

 それは、退屈や面倒から生まれた理由ではなく、次のような経緯をたどる。


 現時点において僕と雪花の関係性は、蚕の繭からはみ出したばかりの一本の糸でのみ繋がっていた。そしてこの一本は、彼女が自身の納まるべき場所を認めたその瞬間にぷつりと途切れることもまた明白であった。

 僕は雪花との関係性をこのような一本の糸ではなく、撚り糸のようにしたいと望んでいたのである。

 この心情は先に述べた僕の一般的精神構造からかけ離れたものではないかと、聡明な読者は指摘するであろう。そして、そのような心情が成果を残した暁にはお前が愛して止まぬ狭くて浅い関係性から逸脱してしまうのではないかと、そう思われるかもしれない。

 しかしながらその点に関しては心配しないでいただきたい。僕は一時の気の迷いでかねての持論を崩したわけでもなければ、そもそもこの心情の向かう先が僕の持論と相反するものではなかったためである。

 僕は狭く浅い関係性を望んでいる……これについては既に十分過ぎるほど理解を得られていることだろう。

 僕の心情は彼女との関係性の糸を切り離したくないと望んでいる……だからこそただの一本の糸ではなく、より千切れ難い撚り糸を望んでいる……この点についても先に述べた通りだ。

 故に、この二つの両立に際して矛盾はない。僕は「彼女とより深い関係になりたい」のではなく、「彼女と無関係になりたくない」と望んでいたのである。

 ではその源泉はどこか。なぜ赤の他人へとなりたくなかったのか。こちらについてはとんと分からなかった。

 身体に不都合がある者に対するシンパシー……

 寂れて不活性化した美術部を動かすきっかけ欲しさ……

 その美術部に足を運ぶモチベーション……

 どれもが当てはまるかと思えば、やはり不足するようにも思えたので、他に適切な節はないかと脳内で探ったが、この時の僕の思考は先行き不透明なハイウェイをいたずらに錯綜するのみであり、最終的に正解へとたどり着くことはなかった。


「宇佐美さん」

 僕を呼ぶ声がした。

 関係性の糸を補強したがる理由を探る旅に集中していたのか、教室前方に掲げられた時計の長針はいつの間にか十か十五ほど先に進んでいた。

 話は済んだのかと聞き返すと、雪花はきらきらとした丸い眼で続けた。

「はい。とっても楽しそうな部活だなぁ、って」

「とっても、楽しそう……ね」

「私は絵については詳しくないですけど、部員が少ないぶんしっかり教えてもらえるみたいですし」

「まぁ、部員は今のところ実質部長だけだからね」

「親切で優しい方ですし、ここなら落ち着いて部活動に励むことができそうです」

 彼女の用いる親切と優しいの二語が、僕の認識にある同音語と等しい意味で使われているのか確認すべきところではあったが、後半部分の方が重要であったため今回は聞き取れなかったことにした。

「ってことは、白金さんは美術部に?」

「はい。明日、入部届を書いて持ってきます」

「それはまた、思い切ったというか。他の部は見てこなくても大丈夫かな」

 僕の親切心が形となった後半部分は千夏先輩の咳払いによって上書きされ、雪花の耳には届かなかったらしい。

「宇佐美さんも美術部なんですよね。これからよろしくお願いします!」

「ひとつ聞きたいんだけど、白金さんは訪問販売の対応とかしたことあるかな」

「いいえ、ありませんけど……」

「そっか。いや、なんでもない」

 こちらこそよろしくと返すと雪花は、千夏先輩の手によってどれほどまでに加工されたか知れぬ美術部の素晴らしさを反芻して再び感動でもしたのか、口角を持ち上げた満面の笑みを向けた。

 かくして、僕と雪花の間を繋ぐ単糸は撚り糸となった。

 ただ教室を同じくするだけの関係から成る一本の糸に、部活動を共とする関係から伸びるもう一本の糸が巻き付いたことによって、見かけこそ大して変わらずともその強度は何倍にも膨れ上がり、二人の関係性を他人の階層から知り合いの階層まで引き上げるだけの耐久性を得るに至ったのである。

 明日から始まる人生初の部活動への期待を胸にした雪花と、他の誰よりも意欲に満ちているであろう新入部員を手に入れた歓びを隠そうともせずに舞い上がる千夏先輩を横目に、僕は自身を取り巻く環境が相変化する際に生じる、ある種の熱らしき存在を確かに感じていた。

 常々安定を望む僕からすれば、この熱は決して心地の良い類ではないはずであった。

 ところがこの時ばかりは、「何をにやにやしてんだ、気色悪いやつだな」という心無い罵倒を部長から叩きつけられるまで、僕は出所不明の微笑みをたたえずにはいられなかったのである。

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