第十一章 膠着
かほ姐さんとの話を終えて気ままな読書に精を出した翌日のこと、白金雪花なる新顔が僕の教室に迎え入れられて三日を勘定したその日の放課後のことだ。
僕は未着手の課題の山を目の当たりとして無謀な登攀を挑まざるを得なくなった八月末日を先取りしたかのように酷く落ち着きがなかった。
僕の心を不要にざわつかせる震源は、陽が西に傾くに合わせてその力強さを増幅させ、ホームルームが終わりの兆しを見せ始めた辺りになると、いよいよ両の手では包んで抑えきれない程度にまで膨れ上がっていた。
あわよくば教室の掃除が完了するまで陣取っていようかと考えていた自席から、教室の掃除係の一言によって立ち退きを命じられた僕は、破裂を近くに控えた胸中の風船のやり場に困窮しつつ、教室前方の引き戸を正面とした廊下の壁に寄りかかって時間を消化していた。ただ空虚に立ち尽くしているその姿はさて、限りある青春の余暇を慌ただしく歓迎する周囲の者から窺って、いったいどれだけ滑稽に見られたことか。
言わずもがな、僕は件の転校生を本校の文化部へと案内するためにこの場を離れずにいた。
移り来たばかりの者に対する親切心が四割と、身体に不調を抱える同胞に対する親近感が三割と、かつての己の境遇とを重ねたが故の同情が三割によって、僕のお節介は義理人情という観点から見たとして正の方向へと動こうとしていた。
しかし、さながら接した物質間に働く摩擦の力のように、この正の原動力を打ち消す負の方向の力もまた働いており、僕の余計なお世話が手綱から放された荒馬の如く独りでに駆け出さぬよう、丁度打ち消し合う形で機能していた。
故に、僕は動かずにいたのではなく、精神世界に所在する磁場から発せられた力によって物質世界にある僕の足が廊下の表面と癒着されたことにより、前にも後ろにも動き出すことができなくなっていたと言い表した方がより正確であろう。
僕は相手との距離――物理的に測量した距離ではなく、初対面か顔見知りかといった心理的な面における距離の事だ――が遠いほど、胸の奥底に僅かばかり残された積極性の断片を幾ばくか晒しやすい性質であった。
僕の性格が活発からはほど遠いという事実については第七章の中程にて持論と共に述べた次第だが、そこに少しの情報を追加するならば、僕はそのような内向的態度を絶えず周囲に発し続けて、磁極から跳ね除けられる砂鉄のようにあらゆる人間を寄せつけないようにしているというわけではないことを挙げておきたい。
奇妙な特異体質に含まれる脅威が不要に周囲へと飛び火しないようにするために、僕は狭く浅い対人関係を貴んでいるのだが、だからといってそれを理由に今後の生涯におけるあらゆる人との接触を激烈なアレルゲンかのように拒み続けるつもりはなく、それ故に親友や妹、美術部長、図書館司書、その他諸々との散発的な交差についても徹底して阻むこともないまま今日に至っている。以上に関してはかつての諸々の章にて記載した内容如何からお判りいただけることかと存ずる。
だから僕はたとえば、手荷物なりハンカチなりを落としたことに気付かずその場から去ろうとしている誰それの後ろ姿に声をかけることに躊躇せず、身の丈に合わない大荷物に苦心しながら歩道橋を昇降しようとしている年配の方がいたとして――そのような典型的事例が実際問題起こり得るかはともかく――その肩に一言かけて手助けが必要か問うようなこともする。
そうした類の接触は言ってしまえば使い捨ての鼻紙のようなものであり、人生という長い期間をもって取り上げてみれば、誤って自ら踏んだ靴紐を結び直した回数と同じくらいに些細なことでしかない。
そのような些細な接触が折り重なることによって話は変わってくるのである。最初の偶然が点であれば、二度目の偶然は線であり、三度目の偶然は面となる。そして、その頃にはもう互いの関係は偶然ではなく必然と呼ぶに相応しいものになって淡く熟れ始めているに違いない。
僕はそのような段階――柿の実の橙色が表面を染めつつも内部までは浸透していない具合――が人間関係の完熟した状態だと認識している。これより更に踏み込むとなると、再三となるためこれ以上繰り返しはしないが、僕の辞書にある狭く浅い関係を飛び越えて次の段階へと踏み込んでしまうわけだ。
これで、僕にとっては相手との距離が遠いほど接しやすいという意味を理解していただけただろうか。遠いというのは渋柿で、近いというのは熟れた状態であり、それ以上の接近が示す先は地面へと腐り落ちたどろどろとした何かである。腐った果実を最も好ましいとしてわざわざ取り上げる物好きはそうそういないことだろう。
さて、僕が近しい仲よりも、遠い仲に対して、より積極性を発揮できることを把握していただいた上で、今度はその情動とは真逆に働く摩擦もまた生じていることについて説明したい。
僕と雪花との距離が非常に遠いということは、彼女が転校してきて未だ三日目である背景と、会話らしい会話をした回数がそもそも絶対的に少ないという事実から既に承知のことと思われる。故に、第三者の視点からすれば、先の背景を引き合いとして、僕が彼女に対してのお節介を起こすことについて矛盾はなく、いったいどこの何をそんなに躊躇っているのかと指摘するだろう。
疑問に答えよう。この時の僕はこのお節介が、彼女にとって厄介になるのではないかと迷っていたのだ。
思い返せば、僕と雪花が会話というコミュニケーションに至ったのは様々な偶然が混在したがためであり、部活動の案内をするという約束が生じたのも僕の気まぐれが口を継いで漏れ出した結果でしかない。その一連の自由落下の中に、果たして彼女の希望や意見が介在していたのか、そのことが一晩明けた今となって突然不安になったのだ。
そう、この一日という空白もまた大きい。約束をした当日中に目的を済ませるようであればこのような不安を意識する間もないまま事は進行し、いつの間にか完了していたことだろう。しかし、空白期間というものは心の熱を落ち着かせる冷却材の側面もあれば、懸念を沸かす燃料にも成り得たる。昨日から今日にかけての二十四時間という燃料が、大鍋に入って冷え冷えとしていた僕の平常心をふつふつと煮立たせ、内側から沸き立つ無数の気泡によってぐらぐらと、心の上蓋を揺すっていたのだ。
このようにして僕の内面では力の拮抗が生まれたわけだ。力になりたい欲求と、障害になりたくない欲求。平時であれば考慮する必要もないほど小さいはずの後者の力が、何故かこの時ばかりは異様なまでに威勢を増していたことによって、僕は進むことも退くこともできなくなり、掃除の担当が割り振られていない今週の自身の身の振りように毒づきながら独り、教室前の壁に長らく背を貼り付けていた。
その間に、シュウが昨夜のテレビ番組の感想を共有するために話しかけてきたり、部長の不在を頻発させぬよう警戒に努めていた力也が早とちりのまま彼をバスケ部へと引きずって連行したりの有様だったが、そのいずれもが僕の浮つきを鎮めるための差し水足り得なかった。
僕の内心はたまゆらという言葉ではいさささ不足し、どちらかとすれば嵐の波止場にぶつかり砕ける波の高低と表現した方が相応しいまでに穏やかではなかったが、教室の掃除を終えた雪花の声掛けによってようやくその乱れは沈静化に至った。
雪花は掃除が長引いてすみませんと切り出し、昨日の内にある程度の予習をしてきたと言って幾つかの文化部を候補として挙げた。その候補の中に美術部が含まれていたことも一要因ではあるが、彼女が今日の約束を前向きに検討していたという事実の確認ができたことに対して、僕はこれまでの全ての心配が杞憂に終わったことによる強い安堵を感じていた。
「白金さんはその中で、特にこれが気になるって部活はあった?」
雪花が部活動そのものに対して具体的な想像ができないということは既に知ってはいたものの、彼女自身の意向を確認するためにも尋ねてみることにした。
「えぇっと……できれば、落ち着ける場所がいいですね」
「それじゃあ、最初は美術部なんてどうかな。丁度案内もしやすいし」
「静かなところなんでしょうか」
「僕は騒がしくしている様子を見たことがないかな」
「それならとても過ごしやすそうですね」
我ながら大胆かつ見事な誘導であった。文化部を案内するとは言ったものの、そもそも僕自身が部活動に大した関心を寄せておらず、人様に対して偉そうに講釈を繰り広げる資格も技量もないこともまた、先ほどまでの懸念のひとつだった。
僕が美術部を起点として選んだ理由は、幽霊部員と認定されているにしろその他の諸々の部活と比較してなお美術部に関してはまだ案内できるだけの知見があることと、それ以外の文化部に関しては今日も部室にいるであろう千夏先輩に意見を求めることで一定の見聞を得られるのではなかろうかと踏んでのことだった。
今にして思えば、先日の僕がいかに衝動のまま動いていたことか、不思議でならなかった。考えてから動き出すことを良しとする自身の性格とは似つかない刹那的かつ不確定要素の強い行動を約束した昨日の自身について、このときの僕は我が身の事ながら納得しきれていなかった。
同時に、一介の転校生に校内を案内して回るという、人生において些末なことに分類されるイベントに対して、この時の僕は似つかわしくないほどの浮足立った感情を覚えていた。迷い人に目的地までの道程を告げるような、あるいは目の前を歩く者の肩から下げた鞄の口が開いていることをそれとなく指摘するような、その程度の人間同士の交差においては意識することのない何かがあり、それを取りこぼしたくないという願望が強かったのである。
しかしながら、僕はそのような正体不明の何かについてより深く探るほどの好奇心や興味をその時点では持ち合わせていなかったため、自分自身の奥底へと向かう詮索を適当なところで打ち切った。
そして、僕は西校舎にはまだ一度も足を踏み入れたことがないという雪花の半歩前を維持するようにして教室前を後にした。