第十章 亀吉かほ
その市立図書館は僕の自宅から目視可能な距離にあった。
自宅の玄関正面を横切る片道一車線の道路を左にして横を向くと、住宅と商店の混在した一直線――かつては小規模な商店街としての一面も見せていたが、今ではものの見事に典型的なシャッター街へと変貌している――が、三百メートルほど続いた先で丁字路に分岐している。その丁の字の交点にエントランスを向けて七美市立図書館は地域住民を常々歓迎していた。この辺りの、お世辞にも発展しているとは言い難い環境や人気を考慮すれば、この図書館はそれなりに手入れもされていて、そこそこの規模を有していると言える。
その図書館の一階、蔵書の棚を背にしてはめ込まれた壁一面の窓、その正面にくっつけて置かれた長机と椅子の一組に腰かけて、僕は読みかけだった文庫本のページをめくっていた。
果てなく続く水平線の静と動……波間を突き抜け漂う帆船の静と動……その一隻を繰る船員たちの静と動……
大洋上で展開される劇を読み進めることに僕は集中していた。原著にも興味はあったが、多少の誇張によって嵩増ししたとしても芳しいとは言い切れない僕の英語の成績を思えば手を出さない方が無難であろう。
前述した通り僕には、特に運動に関しては殊更に強烈な身体的欠点が備わっており、学校生活という限定された状況下に限らず、二十四時間絶え間なく、あらゆる行動に面倒な制限をかけている。
ここで胸中を明かすと僕は――少なくとも数年前までの僕は――これまた前述したように放課後の時間をミニバスに費やし、機会があれば級友連合の催しである野球やサッカーなどにも頻繁に顔を出す程度にはアウトドア派の部類の人物であった。
ところが、身体が砂と化す特異体質が如実に私生活を脅かし始めた以上、僕はそれまでの趣味を軒並み放棄せざるを得ない状況に陥ってしまった。この奇妙奇天烈な理由を理路整然と説明できる自信がなかったがために、ミニバスに関しては「飽きたからやめる」の一点張りで心配性の母親を説得し、級友たちからのスポーツの誘いに関しても徹底的に距離を置いた。そうして僕は今までの趣味嗜好と人間関係を海底へと手放し、その報酬として僅かばかりの健康上の優遇と時間を手にしたのである。
僕はその余暇を読書へ充てるようになった。数ある代替候補の中から読書を選んだこと、それ自体には本章の冒頭で述べた、最寄りの図書館の立地の良さ以外に深い意味はなかった。とにかく、僕は時間を費やせる手段と、その手段を行使できる平穏無事な環境が欲しかっただけであり、閑静が常の図書館は身体を安静にするには最適の居場所であり、際限なく供されている書籍の一群はその場で時間を消化するに最適の手段であったわけだ。
とは言え、今現在の僕は読書をただの手段としてではなく、人生における教養と糧を得るという新たな目的を満たすために好んでいるということも、本文を読み進めるにあたり邪魔にならない程度には付け加えておきたいところだ。
「あっ、それ私も読んだことあるなぁ」
聞いてもいない感想が肩越しに投げかけられ、僕はちらと振り返った。
その動きに合わせて僕の周りの空気が攪拌され、背後に立っていた図書館司書の上着が蓄えていた白檀の香りが微かに僕の鼻孔をくすぐる。線香を彷彿させるこのにおいを苦手とする若者が多いと聞いたことがあるが、僕はこのにおいが――自室で嬉々として焚く機会は今後とも訪れないにしても――存外嫌いではなかった。
「ええっと、確かねぇ、エイジャックスがでっかい鯨と戦うお話だったよね」
「それだと安っぽいモンスターパニック映画みたいに聞こえますね」
「あれぇ、違ったっけ……エクセター?」
「勘弁してください、離れてしまいましたよ」
「思い出した、エイブラハムだったねぇ、うん」
「もう、それでいいです」
僕は今現在の見開きに右手の親指を差し込んで栞代わりとし、文庫本の裏表紙に記載された粗筋がよく見えるように正面に掲げた。その粗筋の中程にこの小説の登場人物の真名を認めた司書は、最後のは結構惜しかったねぇなどと一人納得したため、先ほどまでの自らの勘違いを修正できたように思える。
この司書――亀吉かほという名であり、以降は僕が普段から彼女を呼ぶ際に用いる「かほ姐さん」という呼称で記述する――について、僕は遠の昔から知っているし、その振舞いにも慣れている。
彼女は僕の母親の小学生の頃からの友人であり、僕や海月のことについても、それこそ僕たちが赤ん坊だった時から知っているとのことだ。
彼女の家はこの図書館からそう遠くなく、前述したように僕の家もまたこの図書館が目視できる程度の距離にある。即ち、彼女と僕の母親との交流は物理的な要因によって阻害されることなく今日まで密に続いており、それ故に僕自身もまた、彼女と接する機会が十分にあったがために、彼女の事柄についても他人以上には理解しているというわけだ。
そのため、僕が彼女のことを「かほ姐さん」と呼ぶ点に関しては、幼少期から見知った間柄であるためという理由の他はなく、僕と彼女の間に血縁関係などを含めた特別な繋がりがあるわけではないということを先にご理解いただきたい。
かほ姐さんを紹介するにあたり、決して外すことができないのはその悠長な性格であると断言できる。読書と昼寝が至上の幸福であるとして憚らない彼女は、何事に対しても心配を持ち出してはそれを打ち消せるだけの準備を徹底する僕の母親とは対極の精神構造を有していると言える。
のんびりとした性格と、どこか間延びしたような口調と、綿細工の手触りのようなふわふわとした人柄が組み合ってできた彼女は、この図書館を訪れる地元民の多くから慕われているらしく、児童を対象とした不定期に開催される読み聞かせの会における客足の数がその裏付けとなっている。彼女の独特な、へにゃへにゃともふにゃふにゃとも表現できる語り方が、小さい子には特にウケが良いらしいという話は、いつの日か彼女とは別の司書から僕が聞いた次第だ。
それとは別に、かほ姐さんがいついかなる状況下においても乾いたアスファルトに打ち上げられた蝸牛のように鈍重ではないということを知らしめる一件がかつてあったため、本筋からは一旦離れてしまうものの、その件についてここで話しておくことにしたい。
……僕が小学二年だった頃の出来事だ。
その日、僕の両親は双方共に何かしらの用事があって家を長く空けることになっており、まだ幼い僕と海月の面倒を一日見る役を買って出たのがかほ姐さんであった。もっとも、彼女が僕と海月の様子を見に足を運ぶのはこれが全くの初回というわけではなく、これより以前にも、それこそ僕が物心つく以前からもちょくちょくあったらしいが、とにかくその日の僕と海月は家を訪れた彼女と共に両親を見送ったのだ。
居間で絵本を読んだりテレビをながめている内に、不意に海月が「散歩に行きたい」と言い出した。前日の大雨は雨雲と共にとっくに過ぎ去り、絶好の陽気が海月の外出欲を高めてどうにもいられなくさせたらしい。かほ姐さんは海月と僕の手をとって外出を決め、一時間かそこらの散策を終えた、その帰路で事件と出くわしたのだ。
僕たちはとある河川――河川といっても川幅は十メートルにも満たない小さな部類に属する――に架かる名も知れぬ橋の上を歩いていた。
通り過ぎる風が側の木々を揺らしてざわざわと騒ぐ中、かほ姐さんが「鳥の声がするねぇ」と呟いた。次いで海月が「違うよ、犬の声だよ」と反論し、さっさと我が家へ帰りたかった僕は「水の流れる音だよ」などと適当なことを連ねて早々の帰宅を促した。
しかし、僕以外の二人は今まで聞いたことのないような甲高く細い、不規則に耳に届くその異音に興味を奪われ、きょろきょろと音源を探し出すことに夢中になったがために、僕もまた二人の宝探しに協力せざるを得なくなってしまった。
幸運にも探し物はあっという間に見つかった。
その鳴き声の主は生後間もない仔猫であった。まだ目も開ききっていない鼠のようなその仔猫は、家電の梱包という役目を終えた段ボールの空き箱の中にタオルに包まれて放り込まれており、その粗末な一戸建ては目下に広がる川岸の一端に、橋を屋根代わりとして雑に居を構えていた。
それを僕たちが橋から見下ろして認めた次の瞬間、まるでタイミングを計ったかのように、その段ボール箱は岸からはみ出した水の飛沫にさらわれ、長辺を押し流されるような形で地面と平行に半回転し、重心を水流の上へと移行させたと同時に、ずんずんと川を下り始めたのだ。
そこから先の数分のことは、申し訳ないが正直に言うとうろ覚えである。僕と海月は目の前で起きたドラマティックなアクシデントに思考回路を焼き切られ、最寄りの大人――つまりは、かほ姐さんのことだ――になんとかしてほしいと無責任な懇願をぶつけていたのだろう。
直後、かほ姐さんは巻き取り軸の緩んだコードを手で押し戻すかのようなゆるゆるとした今までの雰囲気の一切を払拭し、決してこの場を動かないようにと、僕と海月に強く言いつけた。
彼女は駆けだして橋を渡り切った後、雨粒を被ってぬらぬらと光る雑草が生い茂る土手の斜面へと、潰れた組織片から溢れだす緑色の汁がズボンを汚すことも構わず、腰を擦らせるようにして川岸まで滑り降りた。滑り降りる勢いのまま、彼女は川の中へざんぶと足を突っ込み、あと一歩か二歩で水流の最も急な部分に至ろうかという場所まで身体を踏み込み、そこで上流から流れてきた箱入り猫を両手で抱え上げたのだ。
僕はわんわんと泣く海月の手を取って、かほ姐さんは毛も疎らな仔猫を胸に抱えて、三人して這う這うの体で帰宅するはめになった。後日、その黒猫はかほ姐さんが家族として迎え入れることを決め、イオナと名付けられて今日に至る。
幼い時分だった僕はその一件の後、彼女に対して――本人に面と向かっては言えず、言うつもりもないが――日曜の朝にテレビの中で困難に立ち向かうヒーローに向けるような、あるいは魔法で難事件を解決するヒロインに向けるような、そうした類の尊敬を胸の奥の方に持った。彼女の、日常と非日常における身の振る舞いを的確に切り分けること――つまりは、ギャップとでも表現すべきか――のできるその姿に、変な話だが、恋の熱に当てられたかのような高揚を覚えていたのかもしれない。
だが、そのような純粋かつ清廉なる感情は、僕が齢を重ねる毎に指数関数的に急速に薄れていった現実についても話しておかなければなるまい。
前述した通り、かほ姐さんは基本的に虚無の中に満足して生きるかのような性格であり、普通の人間を実数で表すとするならば、彼女は小数点くらいの値で表現できそうなものである。そのような日頃の生き様が水平線のようにずうっと穏やかに続いて再び乱れることがなかったがために、今日日の僕は彼女がかつて見せた、山脈よりも強大な巨人族に対して島々を担ぎ上げて応戦せんとすアテーナの如き凛としたその勇姿を、極めて残念なことにほとんど想像できなくなってしまっている。
加えて、長く付き合うが故に知り得た様々な情報のことごとくが、少なくとも一般的な観点からして、おそらく彼女に対してプラスではないであろう方向へと働きかけることもまた拍車をかけていた。
たとえば、件の黒猫に対してイオナと名付けるそのセンス。当時はどうとも思わなかったものの、今にして思えば川に呑まれつつあった者に対してそのように名付けるのは皮肉か無知か、あるいは一周回って別の考えでもあったのか……
話が長くなってしまったので、無人の貸出カウンターに座り続けることにむず痒さを覚えた「変わり者の」かほ姐さんに話しかけられ、僕が親指を栞代わりにしながら背後へと向き直ったところまで場面を戻すことにしようか。
「はーちゃんはどう、元気にしてる?」
かほ姐さんはそう言って話題を切り替えながら、近くの椅子を引き寄せて僕の右後方に座った。長話を期待しているであろうその動きから、僕が今現在座っている位置からでは数多くの本棚が林立しているがために全体を把握できないものの、熱心に読書に耽っている来客がこの図書館にほとんどいないことが間接的に判明し、僕もまた椅子の向きを少しだけ時計回りにずらすことで互いの身体の正面が自然と向き合うように調整した。
ちなみに、この「はーちゃん」というのは僕の母親のことだ。宇佐美葉月だからはーちゃん、らしい。母親のあだ名や呼ばれ方なんぞに興味はないものの、それくらいの背景は僕の頭にも入っていた。
「最近は会ってないんですか」
「いぃや、昨日はスーパーマーケットで一時間ほどお話したよ」
「それじゃあ、僕より詳しいでしょう」
「私が知りたいのは、家でのはーちゃんの様子のこと」
「別に、変わりはしないと思いますけどね」
「わかんないよぉ。ケージの内と外じゃあ全然違う、ってのはよくある話だからね」
さながら小動物か何かを想起させるかほ姐さんの物言いに、僕の頭には母親の旧姓である兎渡――これでトワタリと読む――という文字列がさっと横切り、その苗字に含まれる一羽が無意識に主語の代役として浮上した。
乾湿入り混じった大平原の一角……背筋を伸ばしておどおどと起立し……耳介と鼻孔をせわしなく役立たせつつ……吹き抜ける風の中に外敵の気配を感じようと躍起になる小さな存在……
奇しくも、僕の母親の性格はストレスに過剰なまでに反応する野生の兎のそれとよく似ていた。
「この一週間で会話した時間を足しても一時間に満たないんで、僕にはなんとも」
「ありゃあ、それはいけないね。もっとコミュニケーションとっていかなきゃ」
「心配されるのも度が過ぎれば嫌になりますよ」
「親は子に関することなら何でも心配するものじゃあないかな」
かほ姐さんは既婚だが子供はいない。彼女と夫のどちらに原因があったのか、聞き出すほど無神経ではないため定かではないが、短くはない不妊治療をいつからか止めたという話を、僕は何かの機会で彼女自身の口から耳にしたことがある。
そういった過去が関係しているのだろうか、かほ姐さんは親友の子という位置にある僕や海月に対して格別に良くしてくれている。同時に、僕たちの親という位置にある母に対しても常々気にかけている。
余計な心労を独りでに拵えてはその解消に頻繁に追われている慌ただしい親友に対しての気遣いかもしれないし、自らの子を成せなかった者が求める先の代替行為かもしれない。
ただ、かほ姐さんがイオナを新たな家族として迎え入れたあの日から、その黒猫のことを我が子のように可愛がっていることは僕も深く承知している。だからこそ、彼女が親のような振る舞いで僕に接していることに対して疑問を抱くことはいつしかなくなっていた。
かほ姐さんが席を立ち、椅子をもとの位置に戻した。
視界の端に注意を向けると、どこの陰にいたのかわからない来客の一人が、何冊かの本を小脇に抱えて中央通路をカウンターの方へと歩いている様子が見て取れた。その初老の男性は歴史書の収められた棚のひとつの前に寄り道したが、そのどれかに未練を残すような素振りを見せずに一定の速度で背表紙を右から左へ流していることから、そう遠くないうちに彼がカウンターへとたどり着くであろうことは僕にも予想できた。
よく気付いたものだと感心した。図書館の中央通路が視界の隅にあった僕よりもなお早く、眼の付いていない方角で起きている変化を悟るとは。かほ姐さんはぽわぽわしている割にはその辺りについて抜かりはない。
ごく稀に窺えるそういった鋭敏な一面があるがために、僕は彼女に対しておざなりな態度で接しようとは未だに思わずにいた。
「まぁ、もう少しくらいは円満な家庭を意識しますよ。あぁ、あとそれと……」
今度イオナを撫でに行ってもいいかとかほ姐さんに問うと、彼女は親指をぐっと立てて、いつでも我が子に会いに来てくれと歓迎した。
彼女が棚の角を曲がって見えなくなった後、僕は栞代わりとしていた親指をその任から解放し、集中していなければ到底読み進める気の起きない難解な小説の続きを追う作業へと戻った。