神祭の壇
魔王エルギスの体が崩れ落ちた。漆黒の炎は跡形もなく消え、赤黒い魔力の奔流は虚空へと吸い込まれていく。
静寂。
まるでこの世界から、全ての音が失われたような錯覚すら覚える。
僕は肩で息をしながら、剣を地面に突き立てた。魂の底から疲れていたけれど、不思議と気持ちは澄んでいた。
「……終わった、のか?」
レオンがぽつりと呟いた。彼の手も震えている。誰よりも強く、誰よりもまっすぐな光を宿していた彼でさえ、あの戦いには限界を感じていたのだろう。
「ああ……完全に封印できた。魔王は、もう二度と戻ってこない」
僕の剣に刻まれていた《黎明刻印》の輝きが、静かに砕ける。それは、力の終わりではなく、使命を果たした証のように思えた。
背後から、駆け寄ってくる足音。
「すごい……あの魔王を、本当に……」
アイリスが呆然としたように呟き、リリアは周囲を見渡す。
「でも……感じる。この空間……まだ、何かが眠ってるわ」
リリアの言葉に、僕ははっとした。
魔王の玉座の背後。かすかに、空間が揺らいでいる。風の流れが変わり、黒曜石の壁が音もなく崩れ落ちた。
現れたのは、古びた扉。
神聖でありながら、どこか禍々しい。光と闇がねじれ、絡まりあうような不思議な気配が漂っていた。
「これって……扉?」
レオンが近づき、扉に手をかける。
その瞬間——
『——よくぞ此処まで辿り着いた、影の勇者よ。そして、光の継承者よ』
頭の奥に、声が響いた。懐かしく、同時に遠くから届くような声。間違いない。これは、あのときの……
「……影神?」
声は僕たちの思考に直接語りかけてきた。冷たくも優しい、神の声。
『魔王の試練は、ただの序章にすぎぬ。汝らが本当に超えるべきは、創造の座を簒奪せし“偽神”』
「偽神……?」
『神々の座に潜み、光と影をも超越せし存在。そやつこそ、この世界の因果を歪めし者』
その言葉に、リリアが息を呑む。
「まさか……光神を操ってた“黒幕”が、まだいるってこと?」
『まあ、そのうちわかることさ。試練の扉は今、開かれん。望むならば進め。だが覚悟せよ。そこは神ですら踏み込むことをためらう領域』
声が消えたあと、扉の中心に刻まれた魔法陣が、静かに輝き出した。金と黒の紋章。それはまるで、世界の始まりと終わりを象徴しているかのようだった。
……僕はその光を見つめながら、そっと拳を握った。
(まだ、終わりじゃない)
確かに、魔王は倒した。でも、あの声が本当なら——
世界を本当に歪めたのは、“偽神”。
影神ですら敵わなかったという、根源にして虚無の存在。
「……レオン」
「行くしかないだろ。ここまで来て、尻込みなんてできるか」
レオンが、ニッと笑って言った。
隣でアイリスが不安そうに顔を上げる。
「でも、それって……神を超えるってことじゃないの? 私たちに、そんなことが……」
リリアが、静かに言葉を返す。
「超えるんじゃないわ。“理解する”の。神という存在の在り方を。そして、選ぶのよ。新しい世界のかたちを」
僕は深く息を吸い、剣を握り直した。
「僕は行くよ。この世界がどうあるべきか……自分の目で見たいから」
そして、扉がゆっくりと開き始めた。
そこに広がっていたのは、星の海と、漂う神々の残滓。空に浮かぶはずのない神殿。宙に溶ける記憶のかけらたち。
——神界。
人知を超えた領域。その先に、すべての謎が眠っている。
僕たちは、静かにその扉をくぐった。
新しい戦いの始まりを、胸に刻みながら。