バス停に立つ人たち
車の運転免許を持っていなかったA子さんは、いつも会社までの行き来にはバスを利用していた。
幸い仕事先は都心に近く、また面倒なバスや電車の乗り継ぎなどはない。ただ、自宅が少し離れているため時間が少々かかってしまうのが難点ではあった。
仕事が忙しくなれば最終便に乗ることもあり、そうなると帰りは深夜に近くなったりもする。そんな遅い時間だと利用者も少なく、自宅近くになれば乗客はA子さんだけということもよくあった。
これまではそれほど遅くなることは無かったが、仕事が慣れ始めると任されることが多くなり、ここ最近、最終バスまで残業することが続いた。
何度か最終便に連日続けて乗ったある夜、A子さんはバスが途中の停留所に停まったことに違和感を覚えた。
いつも何となく通路を挟んだ左側の座席に座るので、窓の外を見るとバス停の様子はよく分かる。
なので、今止まったバス停には誰も立っていないのをA子さんは見て知っていた。
なのにバスは停まり、さらに乗車口の扉が開いて――そして閉まった。
誰も乗っていないのに、バスの運転手はいつも通り『発車します、ご注意ください』という案内のあと、バスを発進させる。
(誰も居ないのに……?)
しばし疑問符を浮かべていたA子さんだったが、ふと、ある記憶に行き当たった。
以前、インターネットのどこかのサイトで、似たような話を読んだのを思い出したのだ。
あれは怖い話ではなく、確かバスの運転手のイタズラだったのだと、運転手自身がバラして謝ったという、和むような笑い話だった。
きっと今回も運転手のイタズラだったに違いない。
そう思ったA子さんは、降りるときにあえて運転手と視線を合わせて、いつも言うように「ありがとうございます」と声をかけた。
すると、
「お客さん――」
五十代くらいの男性運転手が、いつもと違いA子さんに声をかけてきた。
やはり先ほどのはイタズラだったんだとA子さんは、運転手の続く言葉を待った。
ところが――
「よく我慢してたね」
苦笑いのようなものを浮かべ、なぜか労わるような言葉をかけられた。
思わずA子さんが「え?」と声を漏らすと、運転手はハッとしたように表情を硬くし、慌てて頭を下げて謝って来た。
思っていたのと違う運転手の言動に、A子さんは首を捻ったが「ご乗車ありがとうございました」と下車を促されたため、そのままバスを降りたのだった。
しばらくの間、その時の出来事が引っかかってはいたものの、仕事の忙しさもあってA子さんは次第に忘れていった。
その後、何度か最終バスに乗ることはあったが、同様の体験をすることもなく日々が過ぎていく。
しかし、すっかり忘れたころにまた、同じバス停で誰も居ないのにバスが停車した。
(まただ!)
A子さんは窓の外に見えるバス停を凝視し、その周辺に至るまで人の姿がないことを確認する。
なのに、乗車口の扉が開き、少し間を置いて扉が閉まるとまたバスはいつも通り発車した。
(イタズラ? にしても二度も繰り返すなんて……)
A子さんは不快感に顔をしかめた。
一言文句を言ってやらなければと、降りるときに運転手を見れば、やはり相手は前回と同じ五十代くらいの男性だった。
「あの、さっき誰もいないバス停で停まったのは――」
声を低くして苦情を口にするA子さんだったが、それに被せるように運転手が頭を下げて、また謝って来た。
「すみません!」
「いや、謝るくらいなら、なんであんなイタズラするんですか?」
運転手の顔色が心なしか悪い。
そんなに恐縮して謝るくらいなら、なぜあんなイタズラをするのかと不可解だった。
ところが、運転手は言い難そうにしつつもイタズラではないと言い出した。
「その、自分にも、“あれ”が生きた人間かそうじゃないかの見分けがつかないというか……」
運転手が言うには、彼には確かにバス停に人が立っているのが見えるらしい。
乗車口の扉を開ければ、その人物は重い足取りでバスに乗ってくる。だからいつものように扉を閉めてバスを発進させた。
ところが乗って来た人物はなぜか、一人残っていた乗客――つまりA子さんの座る座席の横に立って、俯き加減でずっとA子さんを見ているようだった。
鏡越しにそれを見た運転手は、ようやく人ならざるものを乗せてしまったことに気づいたのだという。
だから、前回彼はA子さんに『よく我慢してたね』と言ったのだそうだ。A子さんはそれに気づいていて、ずっと我慢していたと思ったらしい。
だが、A子さんの反応から彼女は気づいていないのだと知って、慌てて謝って話をうやむやにしたのだと言う。
「……じゃあ、なんで今日また停まったんですか?」
「別人、だったからです」
バス停に立っていた人物は、前回は男性だったが今回は女性だったのだと言う。
同じ見た目ならば「あれは人ならざる者だ」と分かっただろうが、前回と別人だったために見分けがつかなかった運転手は、また停車してしまったらしい。
そして前回も今日も、その人ならざる者はいつの間にか消えていたのだそうだ。
「本当にすみません」
呆然とするA子さんに、運転手は体を小さくして謝罪するので、それ以上文句も言えずA子さんは下車して帰路についた。
家に帰ったA子さんはそのことが頭から離れず、パソコンを開くと件のバス停の周辺で何かがあったのではと調べてみた。
事件事故、あるいは大昔から言い伝えられる伝承などないかと広く検索していく。
だが、周辺にお墓があるわけでもなく、事故が多発するような場所でもない。検索に引っかかるような事件もなく、A子さんが求めるような答えは見つからなかった。
もやもやとしたものを抱えつつも、最終便に乗らなければ同じことは起こらないはずと結論付けて、A子さんは以後時間に気を付けて仕事をすることにしたのだった。
長時間の残業はしない、と決めたとはいえ、繁忙期になればそうも言っていられない。
最終便に乗らないよう気を付けていたA子さんだったが、一ヶ月もすればバスでの不可解な出来事など記憶の片隅に追いやられ、また最終便に乗ることが増えた。
ただ、最終便に乗ったからといって必ず不可解な出来事が起こるわけではない。
そのためますますA子さんは警戒を怠り、帰宅時間を気にすることもなくなった。
そしてある日の晩、常となってしまった残業を終えてバスに乗ったA子さんは、つい眠気に襲われてうつらうつらとしてしまった。
夢うつつのなかでバスが幾つかの停留所を通り過ぎ、人が乗り降りを繰り返して行くのをおぼろげに感じていた。
完全に眠っていなかったA子さんは、とある停留所を過ぎたことを案内放送で知った。それを聞いて、いつもと変わりなければ車内には自分一人だなと何気なく思う。
またしばらくバスは進み、次の停留所で停車する。珍しい、誰か乗って来たんだろうかと思いつつ、乗車口の扉が開いて閉まる音を聞いた。
だが、ハタと気づく。
(今のバス停って、あの……)
目は閉じたままだったが、それに思い至ったA子さんの意識がはっきりしてくる。
さらに――
(人が、いる……いっぱい……)
A子さんは周囲に人の気配がするのを感じた。それも一人ではなく、もっとたくさんの人の気配がする。
早鐘を打つ心臓の鼓動を感じながら、A子さんは俯いたまま恐る恐る目を開けてみた。
「っ――」
視界の端に、通路に立っている人の下半身が見えた。それもA子さんの座る座席の真横に立って、なぜかこちらを向いている。
さらに、頭を動かさず可能な限り視線を巡らせば、その人物の背後や隣にも誰かが立って、A子さんの方を向いているように見えた。
こんな遅い時間、座席はいくらでも空いているのに、通路に皆立っているだけでも異様だったが、その者たちは一様にA子さんを囲うように立っているようだった。
この人たちは“人ならざる者”だと思ったA子さんは、悪寒と冷や汗が止まらず震えが全身に広がっていった。
以前、運転手が話していたことには、いつの間にか消えていたらしいが、A子さんは必死に声を押し殺して、ひたすら彼らが消えてくれるのを待った。
ところが、A子さんの真横に立つ人物が――恐らく男性と思われるその人物が、身動きするのを視界の端で捉えてゾッとする。
どうやら身を屈めてA子さんの顔を覗き込もうとしているようだった。
あまりの恐ろしさにA子さんは目をギュッとつむる。
衣擦れの音がしているわけでもないのに、その男性がゆっくりと身を屈めてくるのがA子さんには分かる気がした。
そして、A子さんは額あたりに男性の鼻息が当たるのを感じ――
「ひっ!!」
唐突に肩を叩かれて飛び上がった。
思わず悲鳴を上げて隣を見れば、そこには困惑顔の運転手がいた。
いつの間にかバスは停まっていて、そこはいつもA子さんが下りる停留所だった。
降りようとしないA子さんを心配して、運転手が起こしに来たらしい。
それでA子さんは、自分がずっと眠っていたのだと気づく。だとしたら、あれは夢だったのかとも思ったが――。
「もしかして、またあのバス停で停まりましたか?」
恐る恐る聞けば、運転手は申し訳なさそうに頷いた。
「何か見たの?」と聞かれたので、夢か現実かは分からないが自分が見たものを話して聞かせた。
さすがに、一人ではなく複数人に囲まれたという話をすると、運転手も顔色を悪くしてしばし押し黙った。
だが、ずっとバスを停車させておくわけにもいかない。A子さんは降りる準備をして出口へ向かった。
降りる際、運転手がA子さんの気を紛らわせるためか、こう言った。
「今度から、あのバス停に人が立っていたら、お姉さんに開けていいかどうか聞くよ」
確かにそれが手っ取り早いかも知れないと、A子さんは頷いたのだった。
ところがそれ以後、何度か最終便のバスに乗ってもA子さんは同様の体験をすることが無くなった。
しばし、件の停留所に近づくと目を凝らし、停車するとそこに本当に人がいるか、人が居たとしても“人ならざる者”でないかと注意深く観察した。
だが、立っている人物は常に生きた人間だったし、誰も立っていないのにバスが停まるということはなかった。
不思議に思ったA子さんは、ある時から最終便のバスを利用したとき、降りる際に運転手をそれとなく確認したところ、いつも別の男性が運転していることに気づいた。
あの五十代の男性運転手は居なくなったらしいことに気づく。
彼も彼なりに怖い思いをしたから辞めてしまったのだろうか。
そう思っていたA子さんだったが、ある日の晩、また最終便のバスを乗ったときのこと。
件の停留所を通り過ぎたとき、A子さんは見てしまった。
運転手の制服と帽子を被った男性が、俯き加減で停留所に立っているのを。しかも、その男性を囲むように複数の人物が、男性の方を向いて立っている。
驚いたA子さんは思わず声を漏らし、慌てて振り返ったがもう、そこには誰の姿もなかった。
ほんの一瞬しか見えなかったものの、A子さんにはあの男性が五十代の運転手と同一人物に思えてならなかった。
気になったA子さんは降りる際、若い運転手に尋ねてみた。
「以前、運転手さんで五十代くらいの方が居たと思うんですが、辞められたんですか?」
「ああ……亡くなったんですよ、あの人」
彼が言うには、ある日突然来なくなったと思ったら連絡も取れず、心配になった上司が見に行くと自宅で一人亡くなっていたのだと言う。
「お客さん、知り合いですか?」
「いえ、少し話したことがあるだけで……」
A子さんは慌てて礼を言ってバスを降りた。
やはりあの停留所で見た男性は以前の運転手だったのだと思いながら、A子さんはもう少し早く帰ることができる仕事に転職しようと決意するのだった。
読んでいただき、ありがとうございました。
初めて企画に参加できて嬉しいです^^
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