第八話
その子が赤毛とお揃いの小さくて丸い靴を揃えたようにレジ前に立ってから、どれだけ経ったろうか。イーサンとダニエルは、すでにお互いの家族の話は終えて、そこだけが四角い額縁の中に入ってしまったように動かなくなったマイケルを待ち続けた。こんなことは初めてじゃない、しかし今度のは、深くて長い時間がかかるような気がした。おまけに、その子もレジの前に立ってから一言も発しないまま固まっってしまっている。あつられた人形のように、柔らかな両の手でしっかりとピーナッツバターの小箱を握りしめたまま、いつか出てくる鼓動が感じられない。固まっている二人の視線はそれぞれに別を向いていたが、廻り廻って同じものを見ている顔をしていた。路は二つあるようなので、イーサンはマイケルを、ダニエルはその子を見つめた。女の子は髪が赤毛のぶん、瞳の青が際立って見えた。イーサンは漂っているマイケルを正面から何か探るように見つめた。まずは、マイケルは白い陶器のような肌に青い瞳が似合っていた。多分、学校に行くのを辞めてから、一度として外に出たことのないマイケルの肌は自分たちと違ってコナなんて吹くことはないんだろうと思い、何も動かず言ってくれないマイケルから、マイケルの一日を連想した。
マイケルの限られたモノとヒトは、すべて店の入り口を通ってマイケルの元へ届けられる。小さなときに絵本で読んでもらったクマのパン屋さんのような几帳面な一日が繰り返される。朝7時にナイトキャップをとってベッドから抜け出ると、マイケルは、昨日店と自分用に仕分けした冷蔵庫から卵とジャガイモを取り出しオムレツを作る。3分の1だけ食べて、あとは夕食用にとっておく。ジャガイモの入ったオムレツは時間をおいて周りの温度と馴染んだほうが美味いからだ。あとは牛乳と薄いトースト2枚にオレンジ。オレンジは半分は食べて、半分は夜用にとっておく。いったん部屋を出たら、店を閉じるまでこの部屋には戻ってこない。だから鍵をかける。マイケルの持っている鍵は部屋の鍵と店の鍵の二つだけだ。いつも綺麗に清潔にを保っているこの店に手のこんだ掃除は必要ないが、朝と夜、開店前と閉店後の日に2回、何処というではないが、全てに於いてきちんと行う。それでも、それぞれ10分とはかからない。綺麗で清潔な小さな店なのだ。朝の掃除が終わるとジョゼッペさんが来てくれる。頼まれたも品物を届けるのとこれから頼まれる品物の注文が一瞬でかわされる。もちろん帽子をとっての「おはよう、マイケル」の挨拶をはさんで。一瞬でかわされる交換は洗練を表しているのだ。ジョゼッペさんにはお得意さんは何人もいるが。マイケルがお客さんとなるのは、このジョゼッペさんだけだ。だから毎日、店のお客とは違う特別の存在を表す特別の表情で迎えるのだ。「ありがとうジョゼッペさん、腰の調子はどうだい」「ごきげんようジョゼッペさん、下のお孫さんは大きくなったかい」マイケルは、そのほかにお天気も仲間に入れた組み合わせを十個まで増やして、注文品に乗せて渡す。ただ、残念なのは、注文品に支払いのお金も混ぜて手渡すときでさえ、ジョゼッペさんは「まいど、ごひいきに」のほか、使う言葉を持たないことだった。マイケルは、それをイタリア訛りがはみ出さないようにしているジョゼッペさんの奥ゆかしさから来るものだと納得した。
ー マイケルの瞳は髪の毛と同じ黒色だったはずだけどー
イーサンはまだ一人、ありきたりの日常をなぞってる。ふんぱつしてカラー写真を撮ってあげても、服と背景しかカラーにならない白黒の顔、それがマイケルだと・・・座っているスツールが抜けて一瞬だけ「空気椅子」に変わった。イーサンは、「あっ」と声を出しそうになったが、声を漏らすと、転んで、後ろにひっくり返り、背中をしたたか打ってしまう痛さが蘇り ー3年前にも同じような目にあった ー お尻を硬直したらすぐにまた元通りになったので、一瞬の停電と同じくらいの事故として、「そのこと」を奥に追いやろうとした。そんな風に、いまだに目の前に起こっていることを正面から受け入れようとしないイーサンに業を煮やしたダニエルは、先に「そのこと」にたどり着いた先輩風などと揶揄され折角積み上げたお互いの社交関係を壊さないよう気を使いながら、それでも目にした光景をなかったことにして先っきみたいに奥に仕舞い込まないよう、イーサンの顎だけは離さずに釘を刺した。後ろに反り返るだけのことが起きたとき、何もなかった素振りをするよりも、素直に転んで尻でもスネでもしたたか打った方が、身体への負担は少ないってものだ。
「ぼくが説明するよりも、あれを見れば君もいったんは腰が抜ける。でも、抜けた腰は仕方ないって、段々に腰が据わってくるはずさ」
マイケルにはそこまでの不思議はなかった。いつもの、白日夢旅行が少し長いのかなと思わせる程度だった。けれども、無理に向こう側ばかり見て、トラブルの後始末から自分を遠ざけようとしても、すでに交換して今は自分のものになったカッテージチーズが巻き込まれているのは、ガサガサいう亀裂と匂いのせいだと頭ではわかっていた。あんなにも行儀よくマイケルが声を掛けてくれるのを待っていた女の子の赤い靴と刺繍のついた後ろボタンの黒いワンピースは、かつて何色であったのかわからなくなるほどカッテージチーズに顔ごと埋めて食い散らかす飛沫にまみれている。
赤いツインテールは最初の犠牲だ。手を使わずに、カッテージチーズの飛沫だけでここまで白い塊が髪の毛の一本一本に絡みつくものかと感心するほどウエーブが巻かれている。
例えるなら、白塗りの石膏細工。
大掛かりな彫塑のための石膏が溜り落ちる忙しく複数人が働くアトリエではこんな光景は日常なのなにかもしれない。だけど、ツインテールした赤毛の可愛い女の子の彫塑の試作だって、「例えるなら」は、あたまの中では経験しても、現実の生身の肉ではけっして起こり得ない光景だ。「牛の顔を洗うんじゃあるまし」と言って突っ返したあの親方だって、赤毛の可愛い女の子がうなぎが餌にありつくため顔ごと埋めて食らいつくにはぴったりな大きさだったとは想像できまい。
「カッテージチーズが大好きなの」息をつぐため顔を上げた女の子のイーサンに声をかけた第一声が、それだった。
「やっと、目をそらさずに聞いてくれたのね」
「イーサンも腰が据わったのさ、腰が外れたままね」
ダニエルとその女の子はかなり前からの恋人のように見えた。もちろんダニエルがその子の処まで降りていったのじゃなく、その子がダニエルの処まで登ってきたのだ。幾分低く変わった声がなおさらそう感じさせた。
「さぁ、はやく、あなたも来て。待ってたんだから、早く済ませましょう」
それが何に向かっているかの意味はわからなくても、促されている所作に抵抗はなかった。マイケルも含めて三人の男は服を脱ぎ、全裸になって、その布でカッテージチーズまみれの彼女の身体を拭いた。これから始めることは、女の方も最初から裸の方が相応しかったが、すぐにはそれは認められないことのようだった。チーズが繊維の奥の奥までついていた靴とワンピースだったが、チーズは抵抗なく拭い去られた。ワンピースの後ろボタンの穴にも白い片は残らないほど拭き取り作業は丁寧に完璧に遂行された。概ね半分のカッテージチーズがのけられていた。もう半分は、この小さな身体に潜っているとは思えないほど多くが納まっている。それを検分するための裸にしたわけではなく、着ているものが寸断されずにきちんと残して返すため全て剝がされた結果だった。その作業はイーサンとダニエルのふたりのみで行われ、マイケルそれを見届けていた。それは、最後の執行者が彼であることを指示していた。