はじまり
この小説はフィクションです。ですが、そこで語られたものは全くの虚構でしょうか?
今日も帰路につく。つまらない仕事。
つまらない通勤。今日も見慣れた風景を電車の中から眺めた後、
仮の宿りである自宅に向かう。
”大人になるって残酷だ”とつくづく思う。
子供のころは大人になればなんでもできると、
無邪気にそう思っていた。
しかし、今集合住宅に歩を進めているのはただのくたびれたリーマンで、
希望も未来もあったものではない。
……考える時間が失われていくのを感じる。
今日も俺は、メシを食べてシャワーを浴びて、
また考える間もなく仕事に向かうのだろう。
そう感じながら、特別暖かくもない自宅の鍵を回す。
いつもの暗い室内に、なんとはなしに呼びかける。
”ただいま”と。そう、いつもなら応じる声はない。
俺は諦めと一緒にドアをくぐった。その時に声がした。
「おかえりなさいませ」
そいつは俺の家にいた。中にいた。
俺がいつもメシを食べ、くつろぐ洋間にスッと立っていた。
張り付いたような笑みを浮かべた気味の悪い男だ。
全身黒尽くめのスーツに黒い革靴を履いているだ。
これはこれで整った印象を受ける。
だが、俺はこいつに言わなければいけなかった。
「外へ出ろ。靴を脱げ」
この不気味な存在は表情を変えずに素直に従った。
俺の横を通り抜け、声をかけてくる。
「いやいや、この国に寄るには久しぶりでしてね。
ご無礼を。しかし、堪忍願いたいですね」
そう言いながら玄関で靴を脱ぐ。
今度は俺がこいつを洋間で待ち構える形になった。
さて、どうしてくれようか。
「泥棒にしちゃ嫌に冷静じゃないか。
久しぶり? そんなこと知ったこっちゃない。
さ、捕まりたくなければとっととそこから出るんだ。
靴は履き直してもいいぜ」
これ以上余計なことに関わりたくない。
この黒ずくめの男が妙なことをしでかさないよう、
スマホで110番の準備をしながら声をかける。
最後の軽口は虚勢だ。
「これはなんとも酷い。
私はあなたの人生に転機を運んできたというのに」
ひょうひょうとそんなことを言いながらゆっくり歩いてくる。
「俺の言葉が聞こえなかったのか。
すぐに出ていけ。でないと警察を呼ぶぞ」
俺の声は少し緊張していた。
こいつの意図が読めなかった。
いや、読めなかったのは最初からだが。
その様を見てひとしきり不気味に笑った後、
やつは切り出した。
「これは大変な失礼を。名乗りが遅れました。
私は悪魔。あなたにチャンスを与えに参りました」
仰々しくお辞儀をしてみせる。
その動作も声の、どこか胡散臭かった。
だがそれより大事なことがあった。
「悪魔……だって? お前が?」
言われてよくよく目の前の変質者を見直した。
顔が仮面のように”印象を与えない”ことを除けば
なんてことない、平凡な男だ。
こんなことを言うのは狂人に違いない。
余計な手間をかけさせやがって。
「酔っぱらいだってもう少しマシな嘘をつくもんだ。
いいか、俺は警察を呼ぶ」
もう準備済みだったスマホに耳を押し当てる。
コール音が妙に長く感じる。
「つまり、証が必要なのですね?」
粘っこい声が聞こえる。
「ああそうだ。もしお前が悪魔だっていうのなら、
”それらしいこと”でもしてみせろ!」
俺の声を聞くと男は頭を振る。
言葉がなくてもわかる。”やれやれ”と言っているのだ。
「仕方ありませんな。信仰の薄いこの時代、
やはり始まりは奇跡から起こらねばいけないのですね!」
男がそう言うと視界が真っ白になって……
部屋中にお札が舞っていた。
俺は思わずスマホを落とした。
もうコール音は聞こえない。
反射的に諭吉をつかもうとしたが、
風が吹いているようで上手くつかめない。
なんとか何枚かつかんだ所で、金は俺の手から消え失せた。
「なんだこれ……幻覚?」
「いかにも、悪魔らしいでしょう?」
やつは満足そうに俺の様子を笑った。
俺はチラッと足元を見る。
スマホは落としたがまだ壊れてはいないはずだ。
こいつを通報することはできるかもしれない。
だが今の体験はなんだ?
「ああ、ええとまとめるぞ。
お前は悪魔なんだな」
「その通りです」
自信を持って答えられるとこちらがグラつく。
「なにしに来た? いや、なぜ俺の所に来た」
今度は肩を大げさにすくめて見せた。”やれやれ”と言いたいらしい。
「いえ、私は誰が相手でも良かったのですよ。
しかしこれが私の仕事…… 神聖な職務でありますから」
「俺はその目的を聞いているんだ」
強く詰め寄る。こいつは俺と身長もそう変わらない。
そんなに……怖くはない。
「目的? 本当に、本当にそれを聞きたいのですか?
私が悪魔だと、もうご存知なのでしょう?」
からかうような姿勢がしゃくに触る。
「ああ、聞かせてもらおうじゃないか。
はっきりと」
「では申し上げます。
願いと引き換えにあなたの一番大事なものを頂戴しにあがりました。
すなわち、あなたの魂です」
最後の言葉と共に俺を指差した。
魂というから、胸を指差したのだろうか、いや頭か。
それも違う。こいつは”俺”を指してそう言っている。
だが、俺は茶番に付き合う気はなかった。
「悪いが俺は疲れてる。あんたが本物だろうが偽物だろうが迷惑なことだ。
さっさと出ていけ」
俺はやつを無視して冷蔵庫に向かった。
疲れを癒やしてくれるものが、そこにはある。
「ははぁ、私のことなど考える余裕さえないと」
「いちいちうるさいぞ!」
俺は声を張り上げた。そうだ。俺は本当に疲れてるんだ。
明日のこともある。今は一刻も早く休みたい。
こんなやつの相手をしている余裕なんて……
そう思いながら冷蔵庫を開ける。
「では、作ってあげましょうか。その余裕を。
あなたが手にしているその不細工なものより良いものを差し上げます。
それは”あなたの健康”です」
そいつは俺の手元に収まっているエナジードリンクを指差した。
「それは、俺の疲れを取ってくれるってことか?」
「その通りでございます」
俺は混乱した。俺の手元のなかの飲み物は、
俺を元気にしてくれる。でも、一時しのぎだ。
明日、俺は絶対に倦怠感をいっぱいにして起きる羽目になる。
いや、今日だってそうだ。こいつが去って俺に何が残る?
テレビを見ながら冷凍食品を食べて、
シャワーを浴びて、泥のように眠る。
眠ると朝が来る。朝が来れば仕事が来る。
電車、電車に乗らなくては……
違う。俺はそんなことをしたいんじゃない。
「それは、時間をくれるってことか?」
「そうでしょうなぁ。あなたがたが休息に使っている
”無駄な時間”は有効に使えることでしょう」
俺は一気にぐらついた。そんな話ってあるか?
瞬時に頭をいろんなものが駆け巡る。
見たい映画がある。ータイトルも出てこないけど
読みたい本がある。ー誰が書いた本だった?
みたい動画がある。ーもうどれだけ長い間、あの人の作品を見ていない?
俺は、俺はもっと今日を楽しみたかった。
「できるんならやってみろよ。俺を自由にできるんなら」
言った瞬間に軽率な気がした。
そして、それは間をおかずに現れた。
本当に、俺の中から疲れが消えてしまった。
どんな映画を見たかったのか、誰が書いた本を読みたかったのか、
急に思考が鮮明になる。そして改めて男を見つめる。
印象は全然変わらなかった。だが不気味さは消えていた。
「さ、願いは叶えて差し上げました。
なんでもあなた方の間じゃあ、
私達は三回願いを叶えるそうじゃないですか。
別にそんな決まりはないんですが……
今の願いで魂をいただくのはあんまりですね。
どうでしょう。あと二つ願いを叶えて差し上げますよ。
その頭ならもっとマシな願いを思いつくでしょう?」
悪魔は俺に淡々と語りかける。
だが、俺の動き出した脳は一つのことを考えていた。
俺はやつの”魂”という言葉を聞いた時、小さく震えた。
だから、聞かずにはいられなかった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。
あんたは本物の悪魔で、俺は契約をしちまったのか?
なら、もう俺の魂はあんたのものなのか?」
それを聞くと、悪魔は笑った。長く笑った。
「人間というのは面白い。
みな見た目も声もバラバラなのに、言うことは同じなのですね。
”契約をしたか”ですって?
少々哀れが過ぎますな……」
また大げさにジェスチャーをしてみせる。
体全体でため息をついてみせた。
「よろしい! 救われぬ哀れな魂。
他ならぬあなたのために、
あなたがほしいことを教えて差し上げましょう。
あなたは私から聞いた情報を元に、
魂が助かるかどうかを考えればいいのです。簡単でしょう?」
悪魔は顎で時計を示す。時間は22時を指していた。
「あなたも、もう眠るどころではないでしょう。
さあ、夜を語り明かしましょう。
暇つぶしにはなることでしょう。お互いにとって」
俺にとって、これはそんな気楽な話じゃない。
ついカッとなってムシャクシャして、
事前に計画を緻密に練ってはじめました。
導入としてはこんなものでしょう。
もし悪魔が現れたら?
軽くあしらわれるのはありありと想像ができます。
この小説は不定期に更新されます。
筆者独自の悪魔学、
宗教学をぶち込んだ情熱そのものをご覧ください。