信用できない、から
巨大な空間にこれでもかと詰まっていた靄は払われていた。
複合した道具の塊により出来た胴体と六つの脚。その体躯より一回り大きい顔だと思われる部分には、牙を思わせる部位の多数ついた上顎と下顎があった。まるでワニのような顔つきだ。
外の建物と比較できないほどの巨大な体を持ったエニグマを倒すには……。
「……核となっている道具を壊すしかない」
ボソリとつぶやいた言葉に、茶髪の子が答える。
「……でも、それはどこにあるんでしょう? 体の中央に核があるのだとすれば、胴体を突き破る力が必要です。今の私達には……」
現実なアイデアじゃないことは理解している。アオの炎で燃やし尽くす方法を行うには、記憶の残量的に心もとないことも。
ふと、蒼と白の髪の少女の左手の人差し指がピンと伸びる。その方向にはエニグマの巨大な口に当たる部分があった。
「お姉さま、ラフレシアさん。やつの核となっている道具があるのは“口の中”です」
妙に自信ありげな話し方だ。
『どうして、そんなことが分かるの?』
「あそこに神の力が集中しているからです。他のエニグマも大体そうだったので、間違いはないです」
随分と確信があるような言い方……いや、まさか。
そう考えてすぐに気付いた。このエニグマが何をしていたか、を。
「……映像の中で、あのエニグマは他のエニグマを食べて……いた。それも壊れていない道具を……! どこかに壊れていない道具が集中するというのであれば、口の中である可能性が高い!」
それなら、広範囲を燃やせる私とアオが、口の中に侵入できれば何とかできる。
正面の空気が震え始める。足元の揺れに思わず両手を地面に付けてしまった。
手元の振動から、このエニグマが体を動かし始めていることに気づく。
奴に意志があるかは分からないけど、もしもあるのであれば、奴の脚を切り裂いた私に敵意を向けるのは、火を見るよりも明らかだ。
「うろろぉぉぉろろろろっ!」
世界が壊れてしまう。それが現実になってしまうのかのような恐怖が全身に響く。だけど、その揺れ動く口を思わせる部位に目を向ける。
「顔に当たる部分が肥大化しているのは……取り込んだ道具を消化できる器官なんてこいつにはないから、ね……!」
「先輩! まさか、あいつの口の中に入って燃やそうだなんて考えていないですよね?」
後輩ちゃんはどうやら私の考えていることが分かるらしい。だけど、これは私が行うべきことだ。
「まずは時間を稼ぎましょう先輩! ここで、私達だけで決着をつけるのは……!」
しばらくすると、揺れが収まる。
それからぎょっとした。足元のガラクタの脚から道具が組み合わさり、こちらに向かって伸びてくるのだ。まるで、獲物を捕まえんとする頭足類の触手だ。
足を動かしていないと、捕まってしまいそうになる。
「先輩!」
声に気づいて左手を空に向かって思い切り伸ばすと、その手を掴まれる。そして、身体を空中に浮いた。傍には、もこもこの毛糸の毛皮を持つクマのぬいぐるみがいる。
「先輩、ナナシちゃんが! ナナシちゃんが見つからないんです!」
空間を埋め尽くそうとせんばかりの触手。その空間の隙間に、あの青と白の髪の少女の姿が見当たらない。
「大丈夫よ。あの子がこんなもんで死ぬもんですか! それより、“後輩ちゃん”!」
後輩ちゃんの顔は見ていない。物が蠢き、巨大なゴミ処理場のような音の激しいこの空間の中で、一瞬だけ無音になった。
あなたの名前を忘れてしまったことには私だって、罪悪感があるけど、今は……。
「私を……私をあのエニグマの口の中に放り投げて」
出来るだけ冷静を装いながら言う。苦しそうに息を吐いてから後輩ちゃんは叫ぶ。
「……先輩っ! 皆を……応援を呼びますから! だから、自分を捨てるような方法はやめてください! せめて、もう少し……このエニグマの様子を見てから……!」
触手のような道具の塊が伸びてくる。伸びるスピードこそ早くはないものの、途中でいくつも枝分かれして空間を覆い尽くさんとしている。このままだと、口に向かうための隙間がなくなってしまう。
「……急がないと攻撃の手立てがなくなるわ」
『アネモネ! ここはナナシに任せて逃げましょう!』
「アオ」
私が何をしようとしているのか流石に分かるらしい。
「他に方法はないわ。なにより、あの子は信用できないの。だから……」
『分かってる! ……分かってる、けど! 私はアネモネに生きていて欲しいの!』
何でもすると言って願うくらいだもの。どのくらいの思いかは分かる。だけど。
「……私だって、みんなに生きて欲しいと思っているのよ。でも、私達の後に続く人がいないと、私達がここまで来た意味なんてなくなっちゃうから」
それだけは絶対にしたくない。
「……先輩!」
後輩ちゃんの声が涙交じりに聞こえてきた。
「絶対に助けに行きますから! だから、生きていてください! 約束です!」
……約束。
後輩ちゃんの顔を見たとき、なんだか久しぶりに顔を見た気がする。ツーサイドアップの金髪に、少し涙で目を腫らした顔。それでも必死に笑顔を作っている。
「アオ? 準備は良い?」
出来るだけ優しい口調で問いかける。
左手に込められた暖かい炎が彼女の返事だった。
思い出はもう残り少ない。さっきの一撃でかなり使ってしまっていたみたいだ。だから、あのエニグマを燃やすには、私の全てを賭けなくちゃいけない。
空間を覆うようにして、増えていく触手の枝。この先に奴の口がある。まずはあの枝の隙間を突破しなきゃ。
空中に向かって飛びあがっていたクマのぬいぐるみも、徐々に高度を下げ始めていた。そして、何もない地面に着地する。
それから、すぐに体に振動が加わり、再び体が引っ張られて宙に向かう。そして、もこもこの手に腰を掴まれる。
触手の隙間はまだありそうだが、時間はなさそうだ。
「……後輩ちゃん。……ありがとう! 行ってくるね!」
名前が言えない。こんなに心が痛いなんて、もう忘れてしまいたい。
「……っ! 行ってらっしゃい。アネモネ先輩!」
私の体は空中から放り投げられる。そのスピードに些か驚いたけど、このスピードなら、多少触手の枝があっても問題はない。
何度も道具の塊に体をぶつけるが、触手の枝の隙間を通り抜け、あるいはぶち壊して一直線にエニグマに向かって飛んでいく。
数十の道具の枝を抜け、巨大なエニグマの体が目の前に現れる。口は……開いている!
「うろろろろろろろぉろろろ!」
思わず耳を塞いでなお、強烈な振動音。だけど、残念ながら、私はもう止まれない。
私の存在に気づいたらしいエニグマは道具の触手を私に向けて伸ばす。さっきまで見ていたゆっくりとしたスピードはなんだったのか、私に向けて触手を伸ばすスピードはまさに殺意の塊を思わせる。
『アネモネ、私が護って……!』
「アオーっ! 出来るだけ力は使わないで! サポートをお願い!」
向かってきた尖った触手に左手の小盾を押し付ける。そして、その反動で触手をかわしつつ、空中で一回転してみせた。
足元を通り過ぎようとしている触手に脚を乗せ、全力で蹴っ飛ばして先に進む。
「アネモネ! こっちよ!」
左腕が引っ張られる。それに合わせて腕や腰を捻る。左手に加わった力を受け流しつつ、今度は体を半時計周りに回転させる。回転しながら、伸びてきていた触手を蹴り進む。
あと数十秒であのエニグマの口の中に到達できる! でも、その時間がここまで長く感じるなんて!
「ああ……!」
右腕に激痛が走る。足の肉が深く、筋が見えるほどに、そぎ落とされていた。
けど、スピードが落ちない限りは知ったものか。アオの心配する声が風を切る音の中に混じっていたが、それよりも目先の障害の突破をしなければ。
道具で出来た触手の数は増え、さらに枝分かれして襲ってくる。まるで回遊魚を捕まえんとする網のようだ。さっきまでのように隙間を縫って突破は不可能。
ならば。
「アオ! ここで!」
『アネモネ! 行くよ!』
声が揃う。
私達の周りに現れた蒼い炎は身体を包み込むようにして広がっていく。もっとだ。私達は星に落ちる流星にならなくてはならない。そうしなければ、あの道具の壁を突き破り、口に到達することは出来ない。
蒼い炎は一層火力を増す。
抉られた傷跡から漏れた血が焦げる。もっと!
「突き破れぇぇぇぇ!」
体に鈍い衝撃が加わり、そして抜ける。左腕に力が入らなくなってしまったが、エニグマの口の中が見えた。
巨大な口が閉じようとしている様子が蒼い炎の中から見える。だが、残念ながら、もう遅い。もう遅いんだよ。
――でも、なにがもう遅いんだっけ?
それから数秒と立たないうちに、全身に鋭い衝撃と鈍い痛みが同時に襲うことになった。思わず声を上げようとしたが、それよりも早く世界は暗黒へと落ちていった。