喪失
ここはどこ?
ふとそんな考えが頭をよぎる。顔を左右に振ろうとしたが、どうにも体が動かなかった。
寒い。体は冷えていた。腹に違和感を覚えて、辛うじて動く右手を腹に当てる。何かが深々と刺さり、液体が流れ出ていることが分かった。
「あ……くっ……!」
気づくとすぐに痛みが追いかけてくる。だけど、私にはやることがある。それは痛みにのたうち回ることじゃない。
でも……私は……。
「……何を……すれば……いいんだっけ?」
やらなきゃいけないことがあったはずだ。
だけど、忘れてしまっている。消えてしまっている。心が私にやるべきことがある、立てと鼓舞している。
左手が軽い。いつもあったはずの感触が、今は何もなかった。
「アオ……? アオ、どこにいるの?」
微かな淡い青い光が見えるだけで、真っ暗な場所だ。おまけにごつごつとした何かが辺り一面に広がっている。そのうちの一つが私のお腹に深々と刺さっていた。
左手を伸ばし、床を撫でるように動かす。触り慣れた感覚はやってこない。間違いない。
アオがいない。
「……寒い。……でも……やらなきゃ……」
体に力が入らなくなっていく。不思議だ。これは二度目な気がする。死にそうになる経験なんて普通ないはずなのに。瞼は閉じていき、私の世界が終わっていく。
「大丈夫ですか? “アネモネ”さん」
瞼は完全に閉じていた。でも、聞いたことのあるような声を耳にして、うっすらと開く。相変わらず、さっきと同じ暗闇の世界だった。だけど、そこには誰かいた。
「誰……?」
「あれ? ボクの名前を忘れてしまいましたか。でも、彼女は覚えていますですよね?」
じゃらり、と鉄が擦れる音を聞く。この音は間違いない。
――アオ……!
駄目だ。口が動くばかりで声が出ない。だけど、何かは分かった。
「アオさん、随分と無茶をしたですね。あなたが護りたかった人は、ボクがわざわざ“生きていたことにした”のに。このままだと死んじゃうですよ。だから、ボクに任せればよかったのに」
自分は一度死んでいた。なるほど、どおりで死をこんなにも懐かしいと感じたのか。
『ねぇ、ナナシ。また協力して未来に行く方法を探すから、アネモネを――』
「それは約束と違うです、アオさん。探す代わりにアネモネを助けるのは、あの時だけです。たまたまボクがこの世界を知らなかったからこそ……やった約束ですよ」
世界を知らなかった?
どうやら、アオは私を助けようとしてくれているらしい。でも、彼女に頼めばなんとかなるの?
「もっと無残で、希望もなく、夢半ばで死んでいった人は沢山いるです。きっと、彼らが生きていれば、素晴らしい未来になったですよ。でも、彼らをいちいち救っても、ボクには得はないんです。何一つ」
赤い火が映る。そこには小盾になったアオと、ナナシと呼ばれた少女の影があった。
夕焼けのような色をした炎が静かに、小盾を中心に発生していた。炎の色は揺れて変わり、赤から橙色へ。そこから紫色へ移っていき、夜を思わせるような深い青色へと変わっていった。
「……そろそろこいつを燃やすです。神しか、ボクの願いを叶えてくれないのに、こいつは探す上で邪魔なのですよ」
あっけらかんとナナシは言った。私はあの炎が何もかもを燃やし尽くすことを知っている。それは当然、私も燃やすだろう。
『……ナナシ、アネモネを救って』
ナナシは小盾を持った左手を前に突き出す。時間が経つにつれてさらに炎が大きくなっていく。
「アオ。何度言っても、それに見合うモノを示さない限り、ボクは何もしないですよ。何より、ボクにはお姉様に会いに行くという願いの方が何よりも大切です」
体は動かない。もう声を出そうとは思わない。彼女が何者であろうと、私は助からないだろうから。
『それに見合うもの……?』
でも、最期に……アオにお礼が言いたかった。一緒にいてくれてありがとうって。
『……だったら、一緒に探してあげるッ! この世界以外でもどこにだって、行ってあげるわッ! だからアネモネを救いなさい! それが対価じゃ不足!?』
大きくなりつつあった炎がフッと消える。世界が再び闇に閉ざされる。
地面が呼吸を始めた。モノがぶつかり合う音が次第に、化け物の声に変わっていく。
「……ボクに着いてくるんだとしたら、アネモネさんにはもう二度と会えないです。それでいいんです? それに、ボクはお姉様のためなら、君も簡単に手放すですよ?」
ナナシの声は克明に事実だけを告げているようだった。
『あなたの力は分かってる。それが事実だっていうことも分かる。だけど、私はアネモネには笑っていて欲しいの! 私の大切な人だからッ!』
アオの……本心だ。
「……アオさんの覚悟は分かったです……。これは“約束”、ですよ」
『うん。約束。私の大切な人を――』
もう、ダメだ。これ以上は……。もう力が入らな……い……。
『――救ってください』
「……“総て識り、全てを歪ませるもの”」
ガクンと、身体が大きく揺れた。意識そのものが宙に浮いたような感覚。
腹部にあった痛みも、見ていた炎の揺らめきは動きを止め、何もかもが白く染まっていく。
ギチギチと何かが擦れ狂う振動。それは歪な力を加えられて悲鳴をあげているようだった。
それから、鈍い音が響き渡る。大きな歯車が組み変わった。そういう感覚だった。この感覚を私は知って――?
*
「――アネモネ先輩! 大丈夫です! ナナシちゃんはしっかりやりますよ!」
ラフリーの甲高い声が耳に飛び込んでくる。このフワフワの手触りと浮遊感には覚えがある。目を開けると、白い光に辺りを照らされた空間にいた。巨大なエニグマがいるあの空間だ。そこで私は巨大なクマのぬいぐるみにしがみついている。
ただ、ラフリーの言葉は何について言っているのか分からない。私はあの巨大なワニを思わせる口の中にいたはずだ。
「ラフリー、一体何を――?」
そこまで言葉を口にして自分がラフリーの名前を呼んでいることに気づいた。ラフリーの名前を思い出した?
さらに、左手が軽い。視線をゆっくりと自分の手のある方に向ける。
アオが……いない。
「先輩! 何を言っているんですか? ナナシちゃんは先輩のロケットペンダントを受け取って、あのエニグマの中に行ったじゃないですか!?」
知っている。
そうだ。ついさっきまでやり取りを……だけど、これは。
「うろろろろろろぉおぉぉぉ!」
熊のぬいぐるみの毛を掴むのを止めて、両耳で防ぎたくなる音が轟いた。音の発生源である巨大なエニグマを見やると、口から炎を噴いて暴れていた。私がよく知る青い炎だ。
アオとナナシちゃんがあの口の中で暴れているんだ。
その様子を見ていたとき、体勢が反転する。壁に開けられた穴の一つにラフリーとこの大きな熊のぬいぐるみが向かっていく。
「ちょっと、ラフリー。どこに行くつもり?」
「さっき、ナナシちゃん達が言っていた通りですよ! ここに残るのは危ないので、撤退するんです!」
「まだ二人がいるのよ!」
「分かっていますよ! だから、撤退するんです! 彼女達は約束をしてくれましたから! 必ず帰るって!」
「それは“知っている”けど!」
違うそうじゃなくて!
でも、違和感を言葉に出来ない。
壁に空いた穴の一つに到着する。そして、着地したあと、そのままナナシちゃんらがいる空間を背にして瓦礫の上を駆けていく。
二つ存在している記憶の中を整理する。
……きっとナナシちゃんは力を使った。
アオのお願いを聞いて、運命を変えて見せた。だから、私の腹に穴は空いていないし、記憶が消えていない状態に戻った。
「……アオがこっちの世界を望んだの? 私が生きている世界を……?」
異臭が背中から押し寄せる。思わずむせ返った。酷い臭いだ。
だけど、よく嗅いだことのある臭いでもあった。アオと炎で戦っていたのだから、記憶になくとも体が覚えている。ゴミが、道具が、何もかもが焼ける臭いだ。
走っていると、ダッシュ達らが各々、思い出武装を使い、エニグマ達と戦っている空間に出た。建物の中で戦う彼らに向かって叫ぶ。「逃げて」と。
最初こそ、彼らの表情は驚きを隠せていなかった。だが、切り替えの早さは流石だった。
「撤退――!」
一人がそういうと、他の隊員が同じように声を上げた。そして、その足は唯一の出口である大穴へ向かう。
「先輩! しっかり掴まってださい!」
自分の正面からラフリーの声が聞こえる。クマの毛を掴む力を強くする。
その先にはチェーンソーのようなものを腕に付けたエニグマがいた。狭い天井に頭がぶつかり、首を傾げていている。回転する刃は地面や周囲の壁や柱に激しい音と粉を振りまきながら、何度も力任せにぶつけられている。
しかし、その意志は私達を殺すためであった。何度が振り回されるチェーンソーの目標は間違いなく、近づいている私達だ。
「倒して! クマさん!」
四足で掛ける形から、二本の足で立ち上がり、ファイティングポーズの姿勢を取る。左から襲い来るチェーンソーの刃を左手で払いのけ、その勢いをまま右腕のストレートをお見舞いしようとする。
しっかりと掴む手を緩めないことでギリギリではあったが、勢いで吹っ飛ばされることはなかった。
しかし、その強烈な右腕が命中したことを告げる感覚がない。
「え?」
ラフリーの声が聞こえる。周りの撤退の声に急いでいた隊員達の足も止まっていた。
何かが崩れる音がした。石で作った像が砂になって消えていくような音。
クマから手を放して周りを見た。ヒビが入った床や壁は変わらずここにある。だが、さっきまでいたエニグマ達がいなくなっている。
隊員の一人が口にすることで理解できた。
「エニグマが……砂になって消えました」
クマの前に足を進める。灰色の砂の山があるだけで、チェーンソーなどの部位がなくなっている。結果が物語るものは一つ。
ナナシ達がやったんだ。最後のエニグマを……倒したんだ。




