Crying Flying Sun Shine
白い粉雪の降る灰色の街東京。
ここは、どこなのだろう。品川か。それとも新橋か。僕にはよくわからなかった。
僕が立っているこの道は、東京だというのに、人ゴミはほとんど無い。
そこにいるのは、僕とそしてもう一人、あとは、くすんで錆びている古い瓦斯灯とベンチだけ。
瓦斯灯の下にあるそのベンチ。
そこに座っている少女は、とても綺麗だ。
線の細い左手でギターの柄を掴み、白色のピックをもつ右手は、弦を軽やかに弾いている。
ここは、灰色の街東京だ。
美しさとはかけ離れ、喧騒と欲望が渦巻く日本の首都だ。
だが、瓦斯灯が落とす冷たいコンクリートに広がった暖かい楕円光切り取られ、それに包まれるようにギターを弾く少女は、何にも変えがたい美しさがある。
あぁ、ここは東京ではなく。どこかの幻の場所なのだ。東京がこんなに美しいはずがない。東京はとっても汚い場所だ。
ふと、僕は気がついた。彼女は瓦斯灯の前でギターを弾いている。それはわかっている。
ただ、音が鳴っていないのだ。
確かに彼女のピックはギターの線を弾き、ギターの線もまた微かに震えている。
あぁ、そうか。
そういえばそうそう。ギターというのはそれ単体だと音がとても小さいのだ。アンプという、いわば覚声機みたいな大きなスピーカーが無いと、十分に遠くまで聞こえない。
そこで初めて僕は、自分と彼女の距離がかなり離れていることに気がついた。
ギターの音を聞くために、彼女からおおよそ3メートルの場所まで近づいてみる。
あぁ、やっと聞こえた。それはとても静かな曲だった。それは、いつかあった遠いあの日、母親が歌ってくれた子守唄のような優しさを持っていた。
いつぶりくらいだろう。随分と穏やかな気持ちになる。
僕の地元では東京は、華の都とよばれていた。
東京にいけばどんな仕事にも就ける。裕福な生活を送れる。
そう、思っていた。
実際は、世の中そんなに甘くないわけで。なんとか都内の中小企業に就職したものの、これは不況の煽りと言うのだろうか。10年も働き続けたのにも関わらずあっさりとリストラ。
今は売れない3文小説家だ。一人食べていくのもままならず、当然、家族も養えず、妻は娘をつれて家を出て行った。
あれから、幾度となく冷たい冬を過ごした。
そう、気づけば東京に来て20年。僕は38になっていた。
目の前にいる少女はどうなのだろうか。僕の拙い眼力に頼れば、17歳くらいだろう。
彼女にはまだ、たくさんの可能性が未来に残っている。比べて僕はどうだろう。
彼女のような輝きは、もはや失っているような気がした。
彼女の手が止まった。どうやら曲が終ったようだ。
静かな感動と、やすらぎを与えてくれた彼女に感謝を込めて、ポンポンポンと3回手を叩く。
宴もたけなわか。この場を離れるのがとても寂しいが、もう夜も更けて結構な時間だ。
僕はきびすを返して家に帰ろうとする。
そうだ。家に帰ろ……ん、
なんだろう。少女が私をみて笑っている。あぁ、素敵な笑顔だ。娘は大きくなったかな。できれば、一目会いたいものだが。
あれ、どうしたというのだ。
突発的な眠気が僕を襲う。物凄く眠い。
駄目だ駄目だ。家に帰らなくては。ここで寝てしまっては風邪をひいてしまう。風邪を……。
僕を見る彼女は笑っていた。
彼女の眼の下にある小さな泣き黒子。それが、大きくなって、僕の視界を覆う。
僕の世界は暗転した。
「おじさん」
そう呼ばれて、僕の意識が覚醒する。
「おーじさんっ!」
あぁ、誰だろうこの声は。遠い日に聞いた娘の声か。
いや、違うだろう。この声は娘のものではない。これでも私は父親だ。彼女の声がそうかそうではないかくらい、分かる。
「おーじさんっ! 早くしないと沈んじゃうよ!」
沈む? 何がだ。僕は何か沈んじゃいけない大切なものを持っていただろうか。
突然、僕が背中の下に感じていた冷たい床がぐらっと揺れる。そう、まるで沈むかのように。
「う、うわぁ」
柄でもない声をあげて、僕は飛び起きる。ピチャンと水が跳ねるような音が鳴った。
「アハハハ、だから言ったのに。沈んじゃうよって」
少女がニコニコ笑いながら僕を見る。それは、あぁ。昨日の少女だ。
そして僕は奇妙なことに気がついた。
それは、彼女が立っている場所だ。
それは、空の上。だった。
当然、僕が立っているのも彼女と同じ空の上。僕が見上げても空。見下げても空。四方を見ても空だった。太陽の光がぼくらをまぶしく照り付けている。
どの空にも、必ず雲が存在する。それは、僕が住んでいた場所でもそうだった。そして、ここの空もそれは例外じゃない。
私の下には、大きな入道雲が流れていた。
ここはどこだろう。僕はなんで、こんな場所にいるのだ。
後ろを振り返る。そこにはひとつの古びた、明かりの消えた瓦斯灯。そして、下の空には、傾いたベンチが沈みこんでいる。
昨日の夜。僕は、東京のどこかで少女のギターの演奏を聞いていたはずだ。そして、演奏の終了とともにその場で寝てしまったことを思い出した。
どうやら冷たい床と感じていたのはあのベンチのことだったらしい。
「よかったねっ! 全部沈まなくて!」
僕の目の前に立っているのは、まぎれもなく昨日のギター少女だ。
「あ、あぁ」
「もしねっ、あのまま沈んじゃうと。おじさんはずっと帰ってこれない人になっちゃってたんだよっ!」
僕は自分が置かれている状況についていけてなかった。自分はなんて場所にいるんだ。あまりにも非現実的だ、この場所は。疲れて変な夢でも見ているのか。
「なぁ、君。ここはどこなんだ」
「えっとねぇー。ここはね、どこでもないよっ!」
「そうか」
少女の答えはちっとも要領を得ていなかったが、なぜか自分はそれを受け入れた。
「君は、誰なんだ」
「んとねぇー。私はね、きっとおじさんの大切な人だと思うよっ!」
私の大切な人は、遠くへ行ってしまって、僕の手には届かない場所へ行ってしまった。彼女が私の大切な人ではないのは明白だ。彼女は私の娘でもないし、妻でもない。
私の娘には、彼女のような印象的な泣き黒子は無かったし、妻にしては年齢が違いすぎる。
「君はその、ずっとここに住んでいるのか」
「うんっ! こうやって明るいときは空の上にいて、暗くなったら下に降りてギターを弾くんだっ!」
そうか。僕は、君がギターを弾いているところにたまたま出くわしたのか。
「おじさんっ! 安心してっ! あのベンチは今は沈んじゃってるけど、夜になればまた元通りになるから。今はね、空が少しだけ悪戯しているのっ!」
少女は、ぴょんと飛んで私の前に着地する。彼女の靴が、下の空に小さな波紋を広げて、水が跳ねた。
「また、明日もずっと一緒にいられるねっ! この世界は永遠だから、何にも心配ないんだっ。」
「そうか。そうだな。それもいいかもな」
東京にいるときの僕はただひたすら疲れていた。いつまでたっても光の見えない毎日。ただ生きることだけに自分の限りある時間を燃焼していた。
この場所が、そして昨日の場所が永遠なら、それはとても好都合だ。ずっと、安らかな気持ちでいられる。何かに対して恨むこともなく、誰かを憎むこともなく、きっと僕はもうこれ以上疲れないでいいんだと思うと、とても嬉しくて涙がこぼれた。
「おじさん。なんで泣いているの? 大丈夫?」
「いや、嬉しいんだよ。こんな気持ちはいつぶりだろう。とても嬉しいんだ」
「そうなんだ。おじさんが嬉しくて、私も嬉しいよっ」
彼女は無邪気に僕のまわりを走り回る。いろんな大きさの波紋が、僕の下にまで広がった。
年甲斐もなく、泣いてしまった自分がとても恥ずかしく、目頭を手でぬぐった。
僕の頬から手に雫となって伝う涙は、やがて下に落ちて空に吸い込まれていった。
「でもね。」
それは唐突に始まった。
「おじさん。私ね、おじさんにひとつだけ言わなくちゃいけないことがあるの」
「ん。なにかな。」
少女は少しだけ微笑む。でも、ちょっとだけ寂しそうだった。
「ここにはね、あのね、ここには、本当はね。何もないんだっ」
「ど、どういう意味だい?」
「おじさんがね、本当に探しているものは、ここにはないんだっ。あるのはね、ベンチと瓦斯灯、私とギターだけなんだっ」
それは分かっている。でも、僕はそれだけの世界がたまらなく魅力的に思えた。何にもないってことは、それだけでとても自由なことに思えた。そしてそれは、とても素晴らしいことだ。
「私はおじさんの大切な人だよ? でもねっ、私じゃない。もちろん、ここにある物たちでもないんだっ」
「私には、探しものなんてないよ。大切なものは全部遠いところへ行ってしまった。どうしようもないことなんだ、それは。」
「あのねっ、大切なものは遠くへ行ってしまったけれど、大切なものに限りはないんだよっ。だからねっ、別の大切なものを探さなくちゃいけないんだよっ」
「別の大切なもの?」
「うんっ。残念だけど、私はここまでだなぁ」
少女はうつむいて、私から一歩後ろへ下がってしまった。
「おじさん。またきっといつか会えると思うよっ。そしたら、そのときは、私の歌も聴いてねっ! おじさん知ってた? 私、昨日の夜、歌ってたんだよっ」
それは、知らなかった。昨日私が聞いていたのは彼女のギターの旋律だけだった。
「私の歌が聞こえてないってことは、おじさんは多分、まだ違うと思うんだっ! ほら、私、歌ってみるから聴いてみてっ。」
そういうと、彼女はどこから出したのか、昨日弾いていたギターを持ち出す。それは、真っ白なギターだった。
同じく、白のピックで弦を弾き、彼女は演奏を始める。
彼女は歌っていると言った。でも、いつまでたっても彼女の歌は聞こえてこなかった。
「君の歌は、聞こえないよ」
彼女の歌が聞こえないと気づいたとき、
ここには、本当に何もないんだなぁ。と
そう思った。
彼女がリズムをとりながら踏んでいる空の床。水がピチョンピチョンと跳ねていた。
そしてそれが、この世界での、僕の最後の記憶だった。
強い光線を感じて、僕は目を覚ました。ベッドの右の中窓から、太陽の光が入ってくる。寝る前にどうやらカーテンを閉め忘れたらしい。
動物は太陽の光を浴びると自然と起きるように、本能で決められているのだそうだ。
憂鬱な朝だ。
今日もまた、代わり映えの無い、きっと辛い一日なのだろう。
右手には何本も細い傷が走っている。リストカットっていうやつだ。
昨日つけた新しい傷から血がまだ出ている。ベッドの白いシーツもところどころ朱に染まっていた。
不意に、「おじさんっ!」と声が聞こえる。
そして、いつのまにか、涙が止まらなく、溢れ出ていた。
Fin
皆さんはじめまして。瓦斯灯と言います。
さて、私事で大変恐縮なのですが、この間、友人のお兄さんに私の書いた小説を読んでもらいました。
まぁ、そこでボロボロに言われてしまったわけで(笑)一言で言えば、才能が無いと。
このまま、終るのも悔しいので、お兄さんを見返すために、原稿用紙10枚と限定して、小説を上げていこうと思います。練習のために。
お目汚し、醜い点等、多々あると思いますが、なんとか皆様の貴重な時間を拝借し、読んでいただけたらなぁと思います。
厳しいご意見、優しいご感想など募集しております。
では、これからよろしくお願い致します。