カレーライス、アイスクリーム
スプーンですくって口の中に入れると野菜の甘みと後から来るスパイシーな刺激がほんの少しだけ舌をピリつかせた。
涼子さんの作ったカレーは口に入れた瞬間は甘くて易しいのに舌に溶け込むほどピリッとした刺激が舌にまとわりついて僕は噛めば噛むほど訪れるその繰り返しに無意識に嵌っていた。
器の中に入った真っ白な白米と具材が細かく切られた茶色いカレー。白米とカレーの境目が分からなくなるまでスプーンで混ぜると、カレーと白米のクチャクチャとした音が部屋に響き渡った。
「私、カレーとかパスタを混ぜる音も好き。」
僕の前で涼子さんがウットリとした表情で瞳を閉じていた。
僕には分からないな…と思ったが特にそれを口に出さずに黙々とカレーを食べることに集中した。
僕がカレーライスを口に入れて咀嚼すると涼子さんの顔が綻びる。
「自然とニヤけちゃう。」
そう言って口元を緩ませる涼子さんを見ていると僕の心が勝手にキュンとした。
私の言うことを聞いて。
涼子さんが部屋で僕に向かって放った言葉。僕がフラれたあの日。あれから約一か月の月日が経っていた。大学が終わるとほぼ毎日、僕は涼子さんに呼ばれて彼女の家に直行した。
「お前、バイトもしていないのに最近忙しそうだな。」
これは今日、大学で講義が終わった後に涼子さんの呼び出しを食らった僕に向かって学が放った言葉である。そう!僕は忙しいのだ!毎日、やらなければならない勉強を中途半端にして涼子さんのためにご飯を食べているのだ。こんな滑稽な男が他にいるだろうか。きっといないだろう……
しかも彼女は恋人じゃない。彼女にとって僕はただの都合のいい男に過ぎないのだ。利用されているのだ。
「ごちそうさま。」
カレーを食べ終えてスプーンをお皿の上に置くと、カンッと音が鳴った。顔を上げて涼子さんを見ると彼女は満足げな笑みを浮かべて食べ終えたお皿を片付け始める。
僕の存在が彼女にとって単なる一時の利用材料であっても僕は彼女の満足げな笑みを見ると嬉しくなって舞い上がってしまい、マイナスな不安よりも喜びが勝ってしまう。何て恐ろしい麻薬。哀れな男。アーメン。
「デザートだよ。」
お皿を片付けた涼子さんが僕のところに戻ってカップに入ったアイスクリームと銀のスプーンを持ってきた。目の前に置かれたアイスクリームの蓋を開けるとストロベリーの果肉が入ったミルクアイスだった。
「冷凍庫から出したばかりだからもう少し待ってね。」
涼子さんの指示通り僕はアイスクリームが程よく溶けるのを待った。少しでも早く溶けるようにとカップの部分を両手で握って温めていると涼子さんの両手が僕の手を包み込んだ。驚いて涼子さんの顔を見るが、彼女は何も考えていないのか僕と目が合わなかった。
「もう大丈夫だよ。」
そう言って涼子さんの手が離れる。食べごろのアイスクリームに僕の複雑な気持ちも溶け込んだ。
銀のスプーンでアイスクリームを掬うと程よい硬さでスプーンに触れた部分が易しく溶けてミルキーな液体になった。掬ったアイスクリームを口の中に運ぶ。
アイスなどの冷たいデザートを食べている時、僕の咀嚼音は決まって同じ音を鳴らす。冷たさで舌が上あごに当たって口内で溶けたアイスクリームがピチャピチャと鳴る。ご飯を食べている赤ちゃんのような音だ。恥ずかしくて自分が嫌になる。
「アイスクリームもいいね!」
涼子さんが嬉しそうに僕に向かって笑いかけた。僕は思わず、フフッと笑いだす。
自分への嫌悪感で落ちていた僕の気分が涼子さんの笑顔と言葉で喜んでいるのが分かった。その後は涼子さんに見られている緊張とか恥ずかしさで分かっていなかったアイスクリームの味がよく分かった。クリーミーなアイスクリームの中に爽やかなストロベリー果汁の味が入っていること、所々に混ざっているストロベリーの果肉が酸味となって食感にアクセントとなっていること。自分はやっぱり甘いものが好きであること。僕を見つめて満足げな涼子さんも好きであること。涼子さんの前で食べることによって僕は様々なことを知る。
アイスクリームを食べ終えると時刻は夜九時であった。僕はこれから真っ直ぐ家に帰ってあとは勉強とお風呂と歯磨きと寝るだけだ。
「そろそろ帰らないと…」
僕が呟いて立ち上がると座っている涼子さんが僕を見上げた。僕と目が合う。
「泊まっていく?」
「大丈夫です!」
涼子さんの質問に即答してコートを羽織ると逃げるように彼女の家を出た。
何故、そうなるんだ!僕は付き合っていない子とお泊りなんて出来ないのだ。たとえ情けないと誰かに笑われていても……
そう思ってみたが彼女の家を飛び出した僕の心は不安になっている。いつまでこんな関係が続くのだろうか。どちらかが口に出さないと終わりのない関係。曖昧で、複雑で、一方的な気持ち。このモヤモヤした気持ちは涼子さんの家に置き去りで良かったのに僕の家までついてきた。
「近況報告よ!近況報告!!」
次の日の夜、大学の講義が終わった僕は、学と多田さんと新山さんの四人で居酒屋で飲むことになった。
お酒が運ばれた席で新山さんが僕たちに向かって叫んだ。近況報告とは……?
新山さんが僕の方を指した。
「駆、彼女が出来たのなら私たちに言ってくれてもいいじゃない。あんな可愛い子と一緒にいて……」
「!?」という表情を真っ先にしたのは僕ではなく、学だった。
「おい、駆!聞いてないぞ!!」
学の叱咤に僕は頭が上がらない。嘘!?と声を上げたのは多田さんだった。
「可愛い子……涼子ちゃんか!?涼子ちゃんなのか!?」
学がさらに僕を責め立てる。僕は、ううっと声を上げて何も返せない。その間にも三人の質問が矢継ぎ早に四方八方へ飛んでくる。
「どこまで進んでいるの!?」多田さんがまるで自分の息子を心配するような声で叫んだ。
「涼子ちゃんなんだな…やっぱり涼子ちゃんなんだな……」学が僕に恨むような目を向けて呟いている。
「涼子ちゃんって誰!?例の合コンの子!?写真はないの!?」新山さんは兎に角うるさい。
一斉に質問してくる三人に向かって僕が最初に放った言葉は、「とりあえず落ち着いて一人ずつ!!」だった。そしてその後、静かになった三人に僕は正直に話した。
「一緒にいた女の子は涼子さんだと思う。最近、一緒に歩いた女の子なんて多田さんと新山さん以外には涼子さんしかいないから。ただ、僕と涼子さんは付き合っていません。僕は正直に言うと涼子さんのことが好きだけど、涼子さんは僕のことを好きじゃないみたいです。つまり僕はフラれました。」
僕の言葉に三人は静寂なままで何かを考えているのような表情だった。一方の僕は全てを吐き出したことによって今までの後ろめたい気持ちが払拭されて一人とてもスッキリした面持ちだった。グラスを掴んで飲みかけのビールを最後の一滴まで飲み干す。
「みんな静かになっちゃったけれど僕は平気だよ。そうなんだ、で流してくれていいんだよ。」
僕は笑顔で言うと三人が控えめに、「そうなんだ…」と呟いた。全然そう思っていないような声だった。
「佳也は今頃、英梨ちゃんとデートかな…。」
学の呟きに全員がハッとする。そうなのだ。今日、佳也は小西さんに誘われて今頃、デートで東京の神社に行っているはずだ。何故、初デートで神社なのかというと、それは小西さんの趣味がパワースポット巡りなのだ。佳也は今頃、小西さんと神社で一緒に手を合わせて甘い雰囲気になっているのだろうか。
「ぶっちゃけさ、真由子はどう思っているの!?佳也と新しい女のこと!!」
新山さんが多田さんに向かって意を決したように尋ねた。それを聞くのか!僕は新山さんが勇者に見えた。みんなが(というより僕が)触れてはいけないと勝手に思っていた疑問を新山さんがぶつけてくれた。
新山さんの思い切った質問(と僕が勝手に思い込んでいる)に多田さんが、うーん…と唸った。
「興味はあるけど…みんなが佳也と新しい女に対して持っている興味とさほど変わらないかな。私と佳也は付き合っていたけど性格が合わなかったから私以外の別の女と幸せになってほしいと思っている。」
笑顔で答える多田さんの言葉に僕は二人の関係性に敏感になりすぎていたことに気づかされた。僕は一人、勝手な思い込みで多田さんと佳也の間に断ち切れない何かがあると思い込んでいたのだ。しかし二人の間ではもうキッチリとした終わりを迎えていて、互いにそれを理解した関係だった。
「さてと…明日も大学だし、帰るか。」
二杯目のビールが飲み終わったころ学の言葉で皆がコートを羽織り始める。外は冬の始まりで厳しい寒さが襲ってくるだろう。
「お会計、私がしていい?」
真っ赤な長財布を握った新山さんに全員が頷く。僕たちはいつも誰かが代表でお金を払った後にキッチリと割り勘にする。
レジ前で金額を提示する店員さんの前で新山さんが財布を開いた。僕たちはいつものようにお金を払う代表者を置いて外に出て待とうとしていた。しかしレジ前で……
「駆!!」
外に出ようとする僕たちに向かって突如新山さんが叫んだ。何事かと僕が新山さんの元へ行くと多田さんと学も後をついてきた。新山さんはお会計を終えて店員さんから丁度レシートを受け取っているところだった。するとその後ろに友達といる涼子さんが立っていた。
何という偶然!僕の胸が高鳴った。そして思わぬタイミングの緊張で心臓が口から飛び出してしまいそうだった。
「涼子さん!」
驚いた僕が声を上げると多田さんが、え?嘘でしょ?と声を上げた。
「すごい偶然じゃん!」と学も驚いた声を出す。
涼子さんは驚いた顔で目をぱちくりさせて僕たちの顔を見渡した。
「何これ。」
それが涼子さんの第一声だった。何これって……どういう意味だ?
学は隣にいるお友達に、どうも~と声をかける。
多田さんと新山さんは涼子さんの顔をじっと見ながら、「初めまして~駆と学から聞いていたんですよ~。」「噂通り可愛いわ。スタイル良い!」と好き放題言っていてうるさかった。一方の涼子さんはというと、新山さんや多田さんに向かって愛想笑いを浮かべている。時折、学の顔を見て笑顔だが僕とは一切、目が合わなかった。
「駆って頼りないから二人でいる時、大変じゃないですか?」
新山さんがそう言って僕の肩を叩いた。痛い……そして強い。
「優柔不断だしウジウジしているから苛つくかもしれないですけど、これからも仲良くしてあげてくださいね!」
それを言ってしまったら僕はただの良いところなしの男ではないか……そう心中で呟くが、あながち間違っていないから情けない、落ち込む。
笑う新山さんに涼子さんが眩しい笑顔を向けて言った。
「大丈夫ですよ、決定権は私のものなので。」
わずかな時間、その場が静まり返る。僕と涼子さん以外の三人はキョトンとした表情で、「はあ…そうですか……?」とだけ返してまた静かになる。みんな分かっていないのだ、僕と涼子さんの関係性を。
「じゃあ、また……」
僕が声を出すと、ようやく涼子さんと目が合った。僕に向けた彼女の瞳が明らかに怒っている。彼女が怒っているのに気付いているのは僕だけだった。でもどうして?怒っている理由は僕にも分からない。
店を出た僕たち四人はその場で解散することにした。僕はこれから家まで三十分の道のりを歩いて帰らなければならない…。
「また明日、大学で。」「遅刻するなよ!」「単位無くなっちゃう!」
ほろ酔いの僕たちは他愛もない冗談を言ってからそれぞれの帰路へと歩いた。帰り道、僕の頭の中を支配したのはみんなと喋った話の内容ではなく、最後に店内で偶然会った涼子さんの顔だった。
涼子さん、何故怒っているのだろうか。モヤモヤする僕の気持ち。確かめたい。そして僕の勘違いだったと分かればいいのだ、涼子さんは何も怒っていないと。
僕は振り返って、さっきまでの道のりを再び戻った。涼子さんに会いたい。気持ちを確かめたい。何故こんなにも気持ちが駆り立てられるのだろうか。
早歩きで黙々とビルやお店を通り抜けると僕の目の前にさっきまでの見覚えのある姿が映し出された。
嗚呼、また胸が高鳴る。ドキドキする。目の前を歩いていた涼子さんが顔を上げて、僕と目が合った。涼子さんの側にはさっきまでいたお友達はもういなくて一人だった。
目が合った瞬間、僕の心に火が点いて熱くなっていくのが分かった。体の隅々まで熱くなって、冬が始まっていることなど忘れてしまうように。
「あ……。」とだけ言って僕は口をパクパクさせる。エサを求めている鯉でもないのに言葉が上手く発せない。涼子さんは僕の顔を黙って見つめていた。情けないほど声が出ない僕を見ていた涼子さんはやがて見飽きたとでも言いたいような表情で言葉を発した。
「苛々する。」
僕の身体が凍りつく。思わぬ涼子さんの言葉に心が傷つくのが分かった。そうやって離れていく、みんな。
「どうして怒っているの?」
的確な質問をしたつもりだったのに涼子さんはますます苛ついた表情になった。
「人前で食べるの嫌なんじゃないの?」
「嫌だよ。だからほとんど食べてないよ。」
???
涼子さんはますます怒った顔になった。そして僕の目を見て怒りをぶつける。
「全員ムカつく。」
一体何なのだ。今まで涼子さんの表情、言葉、全てに僕は振り回されてきた。そして今、気まぐれな猫に顔を引っ掻かれたようなヒリヒリとした痛みが僕の中にじんわりと広がっている。
僕と涼子さんの間には成人した人間が三人ほど入れるスペースがあってその隙間を冬の冷たい風がピューピューと吹いている。冷たくて寒い風。僕の中を熱くさせるさっきまでの熱はなくなっていて一転、外の空気以上に冷え込んだものが僕の奥深くまで浸み込んできた。寒くて冷たい、僕の心、涼子さんの瞳。
ムカつく。
それは僕の心に傷跡として残された言葉。僕はいつだって誰かから否定されるのが恐い。
現在、目の前で僕の一番好きな人が僕を否定した。全員……。いや僕だけではなく、僕の友人さえも否定された。僕はなんて返せばいいのだろうか。
苛々する。それは僕のセリフだ。そう言いたくてもそれは言えなかった。彼女が傷つく顔は一番見たくない。でも僕にだって言いたいことはあるのだ。
書くペースが遅すぎて……