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色欲咀嚼音  作者: 水綺はく
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ミートスパゲッティ

 僕は小さいころから食べることが好きだった。

地元の北海道で父はサラリーマン、母は食品を扱う工場で正社員として働く共働き夫婦だった。一人っ子の僕は鍵っ子で、学校から帰れば家に誰もいないのは日常の当たり前の光景だった。

毎日、忙しい母が作った朝ごはんを食べて学校に行くと昼は給食を食べ、家に帰ると机の上におやつとして置かれた肉まん、あんまん、ピザまんのセットから一つ取ってレンジでチンして食べる日常だった。夜ご飯は工場の仕事を終えた母がスーパーの袋を下げて帰宅してからつくり始めるため、大体夜9時ごろに夕飯が始まる感じだった。

忙しい日々を送る母は僕と父が食事をしている間も何かしら家事をしていて、僕たちが食べ終わる頃になってようやく僕と父の残り物を処理するように食べていた記憶がある。

自分の咀嚼音を気にするようになった切っ掛けがあった。それまで僕は自分の咀嚼音なんて全く気にしていなかった。僕の父も食べる時に咀嚼音を鳴らす人だった。そのため夜ご飯や父がいる時の朝食の時間はテレビの音と共に僕と父の咀嚼音が一体化していた。その間、母は家事で動き回っていたため僕たちの咀嚼音が指摘されたことはなかった。それに母は人の咀嚼音があまり気にならないタイプだった。父は昔から物を食べる時に咀嚼音が鳴っていたみたいだがデートの時に母がそれを気にする素振りを見せたことはないと言っている。

僕が咀嚼音を気にするようになった切っ掛けに話を戻すが、それは僕が中学二年生の時だった。

学校のいつもの給食の時間、その日の献立のメインはミートスパゲッティだった。

お皿に乗ったパスタとソースをフォークで混ぜ合わせると、クチャクチャと音が鳴った。フォークで巻いて勢いよく口に入れて、口の周りにソースがついているのも気にせずに咀嚼する僕はまるでヒマワリの種を口に含んだハムスターのようだった。そんなに可愛くないけど。

口の中でソースとパスタが絡まって、籠った咀嚼音が耳の奥で響く。パスタにしっかりとついた赤いミートソースは噛み締めるたびにクチャクチャという表現が正しいほどの音だった。

僕の学校では給食の時間、机と椅子を移動させて隣の席の子と向かい合わせで食べるようになっていた。一番前の席ならば、後ろの席の子と隣同士になる。

僕が給食を食べている間、向かい側に座っている保坂さんは僕の食べている姿をただ黙ってじっと見ていた。そして僕が食べ終わるのを見届けると、眉をひそめて言った。

「私、広田君が食べている時の音が好きじゃない。聞きたくない。」

僕の中で周囲が真っ暗になった。給食を食べている間のクラスメイト達の雑音が遠くに聞こえて、耳の奥で保坂さんの言葉だけが木霊した。食べ終わった空っぽのお皿がお盆の上に虚しく並んでいる。

僕の咀嚼音を初めて指摘したのはクラスメイトの女子だった。その時の僕は初めて木で頭を殴られたような、そんな衝撃が身体の中まで走った。

ショックを受けている僕の前で保坂さんは淡々と食事を再開した。保坂さんは食べ物を綺麗に食べて咀嚼音なんて一切、聞こえなかった。僕は他の子と違う。その時、瞬間的にそれを思った。

僕の心の奥底で何かがズキズキと痛んだ。痛い。痛い、と心中で呻く。

次の日から保坂さんは耳栓を持ってきた。僕と向かい合わせで給食を食べる時、必ずその耳栓をした。

僕の咀嚼音が他人を不快にする。僕の咀嚼音が他人に迷惑を掛ける。

あの時から頭の片隅でそんな言葉が今でもグルグルと回っている。

中学を卒業して高校に入ると弁当生活になり、僕は人目を避けて食事をするようになった。それは今でも変わらない。人に聞かれたくない音。何故なら僕のそれは他人を嫌な気持ちにするから。

出来ることなら他人にそれを知られたくない。それなのにどうして……



 こんなことになってしまったのか。

「じゃあ、まず初めに自己紹介しますか。」

賑やかな居酒屋の一席で顔を合わせた男女六人。恥ずかさと不安が入り乱れた僕はさっきから一度も顔を上げることが出来なくて、女の子たちの顔を覗くことすらできない。

「じゃあまず俺から。友澤学です。」

学が名前を言って隣の佳也を見る。佳也は何故か肩まで手を上げて、「竜野宮佳也です。」と静かに口を開いた。女子の視線が佳也へと向かっていることが顔を見なくても分かった。

少し顔を上げて学の方を見ると彼が僕に自己紹介を促しているのが表情で分かった。僕が少しだけ顔を上げると正面の女の子と目が合った。黒髪ストレートで清楚な髪型の子が気の強そうな顔でこっちを見ている。

「あ……広田駆です……。」

正面の女性の視線に勝手に威圧された感じになって臆病な喋り方になってしまった。同い年の女の子にビビるなんて我ながら情けない。

「はい。じゃあ、女の子たちも…」

学の言葉で女子たちが互いの視線を絡ませる。

「じゃあ、私から。小西英梨です。」

女子の中で自ら率先して自己紹介したのは僕の正面にいる子だった。喋ると見た目通りの明るくて積極的に思えるよく通った声だった。

女子たちはこのまま一人ずつ自己紹介をするのかと思ったがそうではなく、僕の前にいる小西さんが横にいる二人の名前を順番に言って紹介した。

「この子が渡辺茉莉花。」

色白で女性らしい丸みを帯びた子が遠慮がちに頷いた。可愛いなと素直に思えた。

「それでこの子が芦田涼子。」

芦田さんの名前を聞いて僕はようやく視線を一番に端に置いた。

「あ。」

思わず声が漏れた。僕の視線の先では大学近くの蕎麦屋さんで見かけるアルバイトの彼女が、相変わらず眩しい笑顔を向けている。

「初めまして。」

彼女がそう言った後、僕と目が合った。僕は驚いた顔をしていて、口をポカンと開けている。彼女はクスッと笑って、そのまま何事もないように視線を逸らした。視線を逸らされた僕はまだ驚いていて彼女から目線を外すことが出来ていない。

僕が呆然としている間に頼んでいたお酒が来た。

「あ、来たよ~」

陽気な声で目の前にいる小西さんがみんなのお酒を少しずつ店員さんから受け取って卓上に置く。

「三人ともビールだもんね。」

小西さんはそう言って僕たち三人の前にビールを置いた。

「ありがとう。」

僕は控えめに礼を言った。不愛想に見えていないだろうか。不安だ。

「英梨ちゃん優しいね。」

喋りの上手な学の声はよく通る。学と小西さんはどこか似たような存在に思えた。積極的で明るい。

その横で佳也は何も言わない。礼すら言わずに芦田さんに向かって、「あ、俺もメニュー見たい。」と手を伸ばした。芦田さんが佳也と目を合わせてメニューを渡した。

「すみません。ポテトフライとから揚げと、チーズ揚げ、あとたこ焼きください。」

店員さんに向かってマイペースに注文する佳也を見て、皆が頼みたいものを口々に言う。

「私、シーザーサラダとミートスパゲッティ!」

え!?

小西さんの注文に内心、激しく動揺した。ミートスパゲッティ……僕が食べるたびにトラウマの記憶を思い出させる因縁の料理。何故、初っ端から炭水化物を頼むのですか?初めはおつまみ系からじゃないのですか?

それ僕も食べないと駄目ですか?嫌です、食べたくありません!

「駆は?何か食べたいものある?」

佳也が気に掛けるように僕の方を見てメニューを見せた。僕はハッとしてメニューを見るが、本当は食べたくないのだ。お腹は空いていても食べたくないのだ。皆の前では……

「じゃあ……アサリの酒蒸しを……」

僕が控えめに言うと学と小西さんが、「アサリの酒蒸し…渋っ!」とハモった。僕は頼りなく笑って返す。斜め前にいる芦田さんがクスクスと笑っている。恥ずかしさで顔が火照るのが自分でも分かった。お酒が来てまだそんなに時間が経っていない。酔いのせいにするにはまだ早かった。


「料理来たよー。」

店員さんが運んできた料理が次々と卓上に置かれていく。アサリの酒蒸しが僕の目の前に置かれた。ベストポジションだ。本当はこれも食べたくないのだけれど…

「わー来た来た。」

大きめのお皿にモリモリと乗ったミートスパゲッティを小西さんが嬉しそうに受け取って真ん中に置いた。

ついに来てしまった……僕の嫌な記憶がまた頭の片隅でムクムクと起き上がっていくのが分かった。

みんなが食べたいものを好きなようにつまみながら会話を交わす。

「三人とも実家は大学の近くなの?」

会話を先導するのはいつだって学だ。今日の学も喋りは絶好調だった。

「違うよ。私は宮城で茉莉花と涼子は東京。」

女子三人で積極的に話を進めるのは僕の前にいる小西さんだった。

「じゃあ一人暮らし?」

「うん、そうだよ。」

「まあ、でも三人ともお嬢様学校だから俺らと違って育ちが良さそうだね。」

「えーそんなことないよ!」

小西さんが笑いながら、「私たちなんて普通だよ!」と答えた。彼女は本当に一般家庭の普通を分かっているのだろうか……

話題は学と小西さん先導でどんどんと進んでいった。喋りが進むほどお酒も食べ物も減っていき、追加注文が行われる。

「何か食べたいものある?」

学が女の子たちに聞く。小西さんと渡辺さんはいらないと言ったが、芦田さんがメニューを開いて、「枝豆と韓国風冷奴ください。」と頼んだ。店員さんが去った後、芦田さんが僕の方を見て、「駆君は食べないの?」と笑顔でチーズフライを指す。

「いや、僕はこれで大丈夫だから…」

遠慮がちに笑ってあさりの殻を取ると彼女からすぐに視線を外した。

目まぐるしく変わる話題は子供時代の習い事の話になっていた。

「習い事か…俺は小学校の時からサッカーを習ってたな……あと習字!」

学が習字と言うと女の子たちは、「えー?習字?そんな風に見えなーい!」と笑った。学も笑顔で、「だろ?ただこれでも字は綺麗だから!書き順とか完璧だし!」と返した。何を言われても気にしない学に僕は流石だと感心することしか出来ない。

「え、じゃあ竜野宮君は何か習っていたの?」

小西さんが目を輝かせて佳也のことを見ている。その横で渡辺さんも佳也を気にしているのが分かった。やはり予想通りだった。合コンで皆、初めに佳也を気に掛ける。

「別に…特に何も。」

佳也が手短に答えた。それなのに小西さんと渡辺さんはその話題をいつまでも引きずって会話を持ち込んだ。顔が良い者に会話の質は関係ないことを学んだ。

「ねえ、涼子ちゃんは何か習っていたの?」

学が芦田さんを見て興味津々に聞いた。学の視線で芦田さんはお酒を飲んだまま何も応えない。

「涼子は三歳からピアノとバレエを習っていたの。バレエなんて高校生で辞めるまでコンクールで入選したこともあるんだから。」

芦田さんの代わりに渡辺さんがまるで自分のことのように嬉しそうに話した。

「へえーバレエか!確かに細いし、色白でバレリーナみたいだわ。顔も可愛いし、似合ってる!」

顔は関係ないだろ。学の言葉に内心、突っ込まずにはいられなかった。学は芦田さんにメロメロか……

想像通りの自分だけ入り込めない空気に僕は卓上のコップに注がれたビールを飲み干そうと掴んだ。

するとそのタイミングで小西さんが、「駆君も食べなよ。」と大皿に乗ったミートスパゲッティを小皿に取り分け出した。僕は焦ってコップを置くと思わず立ち上がった。

「だ、大丈夫だから。」

慌てて遠慮する僕に小西さんは気にする素振りも見せずに、「全然食べてないじゃん。私が装うから。」と小皿を持ったままパスタをトングで掴んだ。

僕は思わず小西さんの腕を掴んで、「いらない!」と声を張った。和やかだった場の雰囲気が一瞬でシーンとなるのが分かった。僕はハッとして小西さんの腕を離す。

「ごめん…」情けない僕の声が居酒屋の騒音の中で浮いた。

「こいつ小食なんだよ。」

気にしない様子で学が言うと小西さんは、「あ、そうなんだ!ごめん、ごめん!」とパスタを取り分けるのを止めた。

僕の行動で静かになったのはほんの一瞬で、みんなはもう別の話題で盛り上がっていた。しかし僕の心はまだ因縁のミートスパゲッティのまま時が止まっていて、みんなで食べる食事はやっぱり美味しくないと思った。

人とする食事とは最悪な記憶を生むのだ。

これだから独りで好きなものを食べていたいのだ。

身を全部食い尽くされたアサリの殻たちが虚しく疎らに置かれている。身は全部、僕の胃の中に入ったのだ。申し訳なさと遣る瀬無さが心の中で広がった。

「じゃあ、そろそろ解散しますか。」

食事もお酒もほとんどがなくなった頃、学が口火を切って合コンは一気に解散モードへと突入した。

会計を済まして店を出た僕たちはまた会う保証などどこにもないのに、またね。とか、今度あそこに行きたいとか呟いている女子たちを眺めていた。学はそれに乗って楽しそうに会話を交わしているが、もう二度と会うことはないだろうと思っている僕は例え上辺だけであってもその会話に参加することが出来なかった。

来るんじゃなかった。仮病で大学ごと休んでしまえば、こんなことにはならなかったのに。

落ち込みで下のコンクリートを見つめながら歩いていた。

「じゃあ、私たちこっちだから。」

小西さんがそう言って僕たちに手を振る。

「Ok!じゃあね!」

明るく手を振る学を見て、佳也も手を振った。小西さんと渡辺さんのテンションが上がっているのが目で見て分かる。

「駆君、またね。」

芦田さんがそう言って笑顔で手を振った。

僕に向けた笑顔ではない。男三人に向けた笑顔なのだ。そう心の中で言い聞かせても胸がキュンとなった。

またね。

芦田さんはそう言ったがまた会うことなどもう二度とないだろう。僕だけは。

後悔と落ち込み。入り交ざったマイナスな心が空気にも伝染したのか、肌寒さで身震いした。

「涼子ちゃん可愛いなー」

僕の横で学がそう呟いたのを聞き逃さなかった。

モヤモヤする。やっぱり合コンなんて参加するべきではなかったのだ。



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