優しい苛虐
前作「NEVER」の番外編。
「NEVER」を読んでいないとわけわかめ状態に陥ります。
大好きなメタファーを使いまくったので、読んでいてもわけわかめかも。
ふと気がつくと、ダイニングテーブルを目の前に座っていた。テーブルの上には、使い慣れたカップがコーヒーを注がれて鎮座している。白い靄のような、柔らかい朝日がカップを縁取っているのが目についた。
ぼんやりとした頭で、なぜこんなところにいるのかと、白羅は考えた。ゆっくりとあたりを見回してみる。自分を取り囲んでいるのは、ごく普通のダイニングキッチンだった。シンプルではあるが趣味のいい机と、椅子と、磨き上げられたポットや鍋が並ぶ。リビング側にはソファやテレビもある。レースのカーテンが春風のようなやわらかな風に、白く波打っている。ローテーブルの上には、無造作に新聞紙がうち捨てられていた。よくよくみると、片付いているのにどこかごちゃごちゃしていて、生活感っていうのはこういうもんか、と白羅は頭の隅で思った。
そして、これは夢なのだろうと、確信を持って思った。
とても居心地がよく、どんなにしゃっきりしようと眉間に力を入れても、頭がぼんやりしてしまう。ふわふわと眠気が体を覆っているような感覚に陥る。こういうときは、大抵夢なのだ。
細く息を吐き、木でできた椅子の背もたれに体を預ける。妙にしっくり収まる。まるで、自分の背中に合わせて、椅子が形を変えたように。
そうした時に、白羅は、ここには来たことがあると感じた。一度ではない。と思う。鼻から深く息を吸うと、その感覚は強くなった。
ここは懐かしい。いつも優しく、ゆっくり時間が流れていた場所だ。何があっても、ここに来れば心が落ち着いた。自分自身に戻れた。たぶん、そういう場所である。
しかし、どこなのか思い出せない。ひどく懐かしくて、故郷のようなところであるのは分かるのに、そこがどこかと問われれば、答えられない。思い出せないが、嫌な感じはしない。
とりあえずコーヒーを飲もうとカップを手にとった。
「砂糖、いらないのか」
突然耳に響いた声に、カップが唇につく前に止まった。
顔を上げて見る。流し台の向こう、何かの舞台のように真っ白に輝くそこに、彼はいた。
「弥生……?」
彼の名を何となく、囁いた。囁いた自分の声がとても掠れていて、驚いた。とても久しぶりに呼んだ名のような気がした。
「何だよ、その顔は」
弥生は難しそうな顔をして首を小さく傾げた。秋の稲穂のような金色の髪に、一番星が輝いた。
「俺がいるのがそんなにおかしいか。俺の家なのに」
彼は細く白い指先でシンクを撫でた。
白羅は、ああそうか、と思った。ここは弥生の家だ。道理で懐かしいわけだ。いや、懐かしいというのは少し違う。つい最近まで、現実にここへは来ていたのだから。ただ、この空間はもう、遠い過去のものとなってしまった。そんな気がしてならなかった。
弥生は、白い絹のブラウスを着ていた。どこからふくのか分からない風に、ゆっくりたゆたう。絹が揺れるたび、気が遠くなるような穏やかさを感じた。
「お前、ここに来るのは初めてだよな」
はたと我に返ると、いつのまにか弥生は、テーブルの向かい側に座っていた。頬杖をついて、風の流れでも読んでいるように宙を眺めている。杖をついていないほうの手で、コーヒーカップに角砂糖を三つ落とし、銀のティースプーンでくるくると回す。しかし、カップにはコーヒーが入っていない。
「初めてじゃねぇよ」
砂糖がからころと転がるカップを眺めながら、独り言のように白羅は呟いた。そんなはずがないのに、なぜそんなことを言うのかと思った。けれども、強く否定する気も起きなかった。
「嘘。お前はここに来たことない」
しかし、弥生はかたくなに認めず、まるで強情な子供をからかうように笑った。
「嘘じゃねぇっての」
正体の分からない隔たりを作られた気がして、白羅は少し声を荒らげた。つもりだったが、上手く声が出ず、寝起きのような声しか出ない。少しだけ苛立った。
「怒るなよ。べつに、悪いことじゃない」
頬杖をついたまま、弥生はまた笑った。左耳の赤い石のピアスが、優しく光を放った。同じように、彼の赤褐色の瞳も揺れた。
「むしろ、もうずっと、来てくれないほうがよかったのかも」
そう言って、弥生は自分のコーヒーカップから角砂糖をひとつつまみ上げた。白く細い指につままれたそれは、すりつぶした宝石の粒が混ぜ込まれたように、僅かにきらめいた。
「ここは、そっくりだから」
弥生は睫毛を伏せて、角砂糖を白羅のカップへ落とした。角砂糖は熱いコーヒーに抱かれて、じんわり溶け込んでいった。形を失っていくそれを見ていると、まるで、せっかく作った砂山が海の流れに奪われていくように、心細くなった。
「そっくりって、どこにだよ」
砂糖が黒い渦の中にさらわれていくのを見つめながら、白羅は尋ねた。
「さあな」
そう言って、弥生は笑った。伏せられた長い睫毛が、一瞬輝いた。
白羅は、こういう時の弥生の笑顔が嫌いだった。彼の微笑みは、いつでも美しい。細めた目には赤い瞳の光が満ち、淡い色の唇は三日月のように優しく弧を描く。人の心を穏やかにする笑みだ。今、目の前にある笑顔も、それと似ている。ただ、今の彼の笑顔は、これ以上はこっちへ来るなと、拒絶している。俺の中に踏み入って来るなと、白羅を突き放している。白羅にはそれが分かった。
白羅は、弥生が笑っているのが好きだった。美しくなくていい。心から、人形のように整った顔を崩して、白い頬を僅かに赤くして笑う弥生が、好きだった。
「変な笑い方すんじゃねぇよ」
思わず、思っていたことをほとんどそのまま口に出した。相変わらず、靄のかかった声だった。
すると、弥生はほんの少し、目を見開いた。赤い瞳に浮かぶ光が、黒い渦に飲み込まれていった砂糖のようにくるりと回った。そして、白くて節の目立たない手が、弥生の何とも言いがたい表情を隠した。そのまま、弥生は薄い肩を震わせた。
「んっ、ふふ」
指の隙間から、高い声が漏れた。星の欠片が氷のはった湖に落ちたような、澄んだ声だった。
「おい」
「あっはは! 変な笑い方って何だよ、もう」
手を下ろして弥生は笑った。柔らかそうな頬が、赤く染まっていた。
「お前のほうが変だぞ。俺の挙動ひとつに、いちいち」
まだ小さく笑いながら、弥生は椅子の背もたれに体を預けた。
「お前は昔からそうだよな。いつも好き勝手しているように見えて、変なところで察しが良かった。知られたくないと思うと、いつも眉間に皺を寄せて、何かあったんだろって、ぼそっと言う。何でもないって言っても食い下がってきて。俺、遠慮なしに人の心にズカズカ入ってくるお前が、きらいだったよ」
昔話を語るように、静かに弥生は言った。懐かしむような、愛しむような表情だった。
「でも、本当はこわかったんだ。自分の本心を知られるのが。今でもそうだ。お前に本当の俺を見られるのが、こわい。だからお前があの時、俺に迫ってきた時、あんな言葉しか出てこなかった」
あの時、あんな言葉。
白羅は思い出せなかった。弥生が何のことを言っているのか分からなかった。ただ、今弥生の言葉を言葉で遮ってしまっては、後悔すると直感した。白羅は黙って耳を澄ませた。
「……それなのに、本当は白羅に一番分かってほしかった。どんどん俺の奥底に入ってこようとするお前がきらいなのに、一番、そばにいてほしかった。何も言わなくていい。慰めの言葉なんてなくていい。お前が、いつもの仏頂面で隣にいて、時々憎まれ口のひとつでも言っててくれたら、それで良かった。俺はしあわせだった」
まるで幼い子どものような口調だった。いつも物を考えてから話す弥生が、思ったことをそのまま言葉にしているのだと思った。それほど今の弥生の言葉は、ちぐはぐで曖昧で暖かかった。とても静かに血潮が巡っているように。
「そうか」
白羅は不自然なほどゆっくりと息を吐いた。目のふちと首の周りがじんわりと熱をもった。
天井を見上げた。真っ白な天井には、淡い日の光が射していた。
「俺も、しあわせだった」
その言葉は、白い箱の中で小さく響いた気がした。
しかし、白羅はそう言った途端、とてつもなく後悔した。
「だった」だなんて、どうして言ってしまったのか。あまりにひどい言葉だった。
案の定、弥生は両手で顔を覆ってしまった。
「あー。なんてこった」
俯いて、声を小さくして、弥生は言った。
「……かなしい……」
その一言に、白羅は本気で言うんじゃなかったと思った。弥生が「だった」の言葉に、なぜそこまで言うのかは分からなかった。それでも、何となくこの言葉は弥生を、そして自分をとても優しくてかなしいところへ連れていくのだろうと、ぼんやりと感じた。
「俺とお前は」
俯けた顔をあげて、弥生は言った。
「幼馴染とか、友人とか、ライバルとか、そんなんじゃなかった。たぶん、ひとつの言葉に集約できない関係だった。お互い、分からなくてもいいことを分かったり、分かってほしいことを分かってもらえなかったり……倦怠期の恋人たちより、すれ違ってた。はっきり言って相性は最悪だし、お互いきらいなところだらけだし。……一緒にいないほうが、楽だったかもしれない」
どこからか風が吹き、レースのカーテンが弥生の肩を撫でた。
「ただのクラスメイトで、特に喧嘩することもなくて、目を合わせさえしないで。お前が他校の生徒ぶっ飛ばしていても、俺が校舎裏でひとり猫が来るのを待っていても、そのことを知りもしない。知らないうちにお互いが記憶からも心からも消えていって……そのほうが、よっぽど、苦しくなかった」
角砂糖だけが眠っているコーヒーカップを見つめる瞳が、自虐的に揺らぐ。
「なのに、俺はこの期に及んでお前を選んでしまった。そばにいても、お互いの首を絞めることになるって分かってたのに……分かってて、お前を」
弥生は再び俯いた。透明な光を帯びた金色の前髪が、彼の顔を隠した。
お前を選んだ。やはり白羅には何のことか分からない。普段は気が強く、真っ直ぐこちらを見据えてくる赤褐色の瞳に息が止まりそうになったこともあったのに、今はその目を見せすらしない。
それを寂しいとは思わなかった。悲しいとは思わなかった。ただ、もっと早く彼のこの姿に気がつけたら。何かが違ったのかも知れない。そう思う。
そうしたら、弥生はこんな暖かくて空虚な場所で、誰かの優しさを無碍にした子どものように俯くことはなかったのかも知れない。二人が、幼馴染や友人や、ライバルとか、そんな言葉では象れない関係になったことを苦しいなんて言わなかったかも知れない。
それでも。
白羅はだらりと力の抜けた手を握りしめた。
それでも、出会わなければよかったなんて言うのは、ばかげている。
「……俺は、苦しくても平気だ」
白羅ははっきりと言った。弥生が、ほんの僅かに顔を上げる。
「確かに、お前といんのは楽じゃねえ。お前はものをややこしく考えんのが趣味で、そのわりに拳で何とかしようとする。人を振り回しても平気だって面しときながら、裏では巻き込んだことを後悔してガキみたいに泣いてやがる。言っとくけどな、お前以上にめんどくせー奴はいねえ。今だってかなりめんどくせーぞ」
今まで一言二言しか言えなかった口が、スラスラと雑言を吐き出す。この時だけ、結露した窓を思いきり拭いて、向こうの景色が飛び込んできたかのように、頭がはっきりした気がした。
「それでも、俺は放っとけなかったんだよ。面倒ごとなんざ、一番嫌いなのにな。お前が誰かのためにあっちこっち飛び回ってんの見ると、関わると面倒なことになるって分かってても、首突っ込まずにいられなかった」
ひとりで事を治めようと走り回る弥生を見ていると、いつかだめになってしまうのではないかと思っていた。たったひとりで全てを背負い、溜め込んで、息もできなくなって、孤独に倒れるのではないかと。そう思うと、白羅が苦しくて息ができなくなりそうになった。弥生を見ているのは、つらかった。
しかし、それでも。だからこそ、放っておけなかった。
「楽ってのがイコール幸せってわけじゃねえだろうが。もし、俺が楽しようとしてたら、多分お前の目の前にはもういなかっただろうな。……けど楽して呑気に生きることより、お前の隣で、もがいてるほうが、生きてる気がしたんだよ。苦しかろうが構わねえ。そう思ったから、お前といたんだ」
ひとり走り回っている弥生の傍へ行き、その手を取ると、不思議と呼吸ができた。弥生が手を握り返してくると、胸にひっかかった生々しい何かが、暖かい風に溶かされていくように感じた。それは、きっと弥生も同じだった。白羅が傍へ行くと、弥生はいつでもゆっくりと息を吐いて、静かに深く、吸った。そして口の端を吊り上げて、ふんと笑った。それだけで、どんなに苦しくても傍にいようと思えた。
「お前、俺といて、しあわせだったんだろ。んで、俺もそうだった。それ以上に、お前と俺のあいだに何かいるのかよ」
白羅は尋ねた。
「わからない」
弥生は小さく首を振った。
「だって、俺とお前が一緒にいて、そこに何があったのかわからないんだ。なのに、そんなことわからない。お前、意外と難しいことを言うな」
そう言って、静かに笑った。
「でも、そうだな。今は、もう何もいらない。もう、これ以上はない。ここへ来て、お前が来てくれて、良かった。ほんとに」
目を伏せ、まるで世界の最果てにいるような口ぶりでそう言った。痛々しいほど赤い瞳を縁取る睫毛が、白んだ光を揺らした。
「だけど、めんどくせー奴ってのは気にくわないな」
靄のような光をはらうように、弥生は明瞭に言った。鼻先からもれた甘い笑いが、風にさらわれた。
「そうだ」
すると、急に弥生が思い出したように手を叩いた。
「気にくわないついでに、ちょっとした土産をやろう」
そう言うと、弥生はブラウスの左胸のポケットに手を突っ込んだ。柔らかい絹がしなってしまいそうなほど不躾な手つきでしばらく探っていると、するりと銀色が顔を出した。小さなポケットに魔法のように隠れていたのは、銀色の蓋を被った、掌くらいの大きさの瓶だった。透明なガラスの向こうにちりちりと光を反射する赤い液体のようなものが閉じ込められている。
「なんだ、それ」
「ナナカマドのジャム。ちょっと味見するか」
「ナナカマド?」
聞いたことがあるようなないような名前に、白羅は瓶の中身に目を凝らした。赤く見えたそれは、よく見ると茶色がかった朱色で、あまり甘そうなジャムには見えなかった。その複雑な色は、小瓶の蓋をひねる彼の瞳の色に似ていた。
「なんで苺とか林檎じゃねぇんだよ」
銀色の蓋が回され、きゅるきゅると金切り声のような音をたてるのを見ながら呟く。
「いいだろ。これくらいしか、今の俺にはないんだ」
弥生は鼻の先で笑いながら、蓋を静かに机の上に置いた。
「ナナカマドはな、生のままだと苦くて食べられない。けど、ジャムにすると意外といける」
弥生はそう言いながら、いつの間にか手にしていたティースプーンで朱色のかたまりを一匙すくった。スプーンからこぼれたジャムが、砂時計の星砂のようにちりちりと光って瓶の中へ落ちていった。
「あまりたくさん食べるのは良くないんだ。毒になる」
さらりと言い、弥生はその生々しく煌めくものを、白羅のコーヒーのなかにぽたりと落とした。
「おい、砂糖いれただろ」
「大丈夫。甘さ控えめだし。むしろちょっと苦いから」
「んなもん入れんなよ」
白羅の言葉に、弥生はまた黙って笑った。そしてジャムの瓶の蓋を強く閉めた。もう二度と開くことがないようにと、念を込めるように、強く強く閉めた。
「いいんだ。形見分けだと思え」
弥生は言った。少し中身の減った小瓶は、弥生の左胸のポケットに戻された。胸の中に帰っていった。
「形見分けって……」
小瓶がやはり魔法のように消えゆく様を見ながら、白羅は小さく繰り返した。
「……誰のだよ、バカヤロー」
そして独り言のように罵り、コーヒーを啜った。コーヒーは、顔をしかめたくなるほど苦く、最後にほんのりと甘かった。ゆっくりと緩慢に舌に染みついた。
「にっげぇ」
白羅は俯いて笑った。ぼんやりする感覚のなかで、頬が引きつったのだけが、妙にはっきりと分かった。
柔らかな風が髪を優しく撫でる。くすりと、甘い笑い声が聞こえた。
「無理して笑うな」
弥生が柔らかな声で言う。
「あ? 無理なんかしてねぇよ」
白羅は顔をあげた。
弥生は僅かに笑っていた。
赤い瞳がじんわりと光っていた。
泣きそうなのだと、思った。
「ばか」
彼は言った。子どものように。大人のように。優しく、切なく。
風のような声で人を罵っておきながら、その顔の輪郭や、肩口や、髪先は、白く淡い光をまとっていた。
そんな彼が、とても、愛しく思えた。
「やよい」
頼りない声が、口をついて出た。まるで、幼い頃に戻ったようだった。守られていてばかりいた、あの遠い日に。
あの時は、何も知らなかった。自分がこんな想いを抱くようになることも、目の前の彼を懐かしいと思い出すことしかできなくなることも。磨き上げたガラス玉に映り込んだような夜に、たった一人で見上げる三日月が、苦しくなるほど白いこと。ガラスの花瓶に反射した光が、とても冷たいこと。何度も訪れる空白の朝に、おいて行かれること。
幼馴染の伏せられた睫毛が、あんなにも切なく輝くこと。
何も、知らなかった。
きっとそれは、誰もがいつか気づくことで、自分はそれに気づかされるのが少し早かっただけなのだと、白羅は思った。
その時、急に部屋に低い唸り声のような音が響いた。思わず振り向くと、部屋の影になるところに縮こまっている大きな冷蔵庫が唸っていた。今まで沈黙していたはずなのに、何かを知らせるようにブーンと重低音を響かせている。その音は白羅の頭の中で鳴っているような、思考を邪魔する音だった。その音はだんだん大きくなる。白羅は何となく、こんなことに気を取られていてはいけないと思った。
早く、早く何かしなければ。
目の前で今にも微笑みながら涙をこぼしそうな彼に、何か伝えなければ。
そう思うのに、声がもう出なかった。
「白羅」
すると、冷蔵庫の唸り声の間をぬうようにして、弥生の声が飛び込んできた。
振り返ると、弥生は笑っていた。
涙など一粒も見せずに、肘をついて笑っていた。
「 」
薄い色の唇が、音のない言葉を囁いた。
そして弥生は、手を振った。
弥生が囁いたたった四文字を、白羅はすくいとれなかった。
冷蔵庫の獣のような呻き声が、全ての音をかき消した。
目を覚ますと、青白い天井が目に入った。
冷たい月明かりが、閉め忘れたカーテンから漏れている。おそろしく静かな夜だ。
まだ覚醒しきっていないまま、ゆっくりと起き上がる。ダイニングのソファで無理矢理寝てしまったせいで、体がきしむ。家鳴りすら聞こえない静寂の中で、部屋の隅にある背の低い冷蔵庫が、小さく低く、唸っている。
その音を聞きながら、白羅は全てを思い出した。
弥生が死んでしまったことを。
数週間、幽霊となって帰ってきた彼と過ごした日々を。
そして、今はもう弥生と逢うことすら、叶わないことを。
白羅は頭をかかえた。なんて夢を見るのだと、眠っていた自分を恨んだ。しかし、そうは思うのに、体は痛むのに、頭の中は妙に澄んでいた。
みしりと音を立てそうな足をソファからおろし、立ち上がる。そして、薄ら青い部屋の隅で呻く冷蔵庫の傍へ座ってもたれた。
窓から夜空を見上げる。歪な月が浮かぶ空は明るく白み、驚くほどたくさんの星が見えた。
もう遠く手の届かない彼の、髪と同じ色だと感じていた星の光は、思っていたよりも冷たくて、やっぱりあの優しい髪色とは違うと思った。
じんわりと滲んだ彼の赤い瞳が、最後に手を振った彼が、頭の中でリピートされる。口の中に、ナナカマドの苦味が残っている気がする。あの大きな冷蔵庫の重低音が、恋しくなった。
白羅は、このまま眠ってしまおうと、目を閉じた。立てた片膝に顔を埋め、長い旅に疲弊した旅人のように、眠った。
窓の外、天井のさらに上に広がる星空は、どこまでも深い藍色で、途方もなく果てしない。きっとあの音のない世界は、ひどく寂しい。
その星空の下に一人でいるのは、とても、寒かった。
あの残酷なまでに優しい空間へは、もう二度と、行けないだろうと、深く項垂れた。
瞼の裏に、白い光をまとう彼を思い出しながら。
ご精読ありがとうございました。
あまりにもわけわかめだった方は、感想からご連絡いただければ解説させていただきます。
解説読んでも分からないと思います。
わけわかめ自己満足小説を読んでいただき、ありがとうございました。