4話 【幸福の在処】 2
目を覚ますと、真っ白な世界が僕の視界に広がった。
鼻にまとわりつく薬品の臭い。体中で感じる懐かしさに、朦朧としていた意識が一気に覚醒する。
「……蓮、分かる? お母さんよ!」
認識できたのは、ここが病院だということ。母の顏。鈴葉の顏。え、鈴葉?
僕は彼女の存在に反射的に飛び起きる。
カシャンと点滴の管がベッドの枠に触れ、無機質な音を立てた。
鈴葉はこちらを心配そうに見つめていた。
「ちょっと! 大丈夫なの?」
「……どうして、鈴葉が」
クラリと貧血のような眩暈に頭を抱えながら、僕は横目でチラリと彼女を見る。母は未だ生気のない青白い顔色の僕を心配そうに見つめていた。
「急に起きちゃダメ!」
「僕ならもう、大丈夫」
「大丈夫じゃないわよ」
そうやって、何度母の涙を見てきただろう。同じ失敗をして、心配をかけてきただろう。
「母さん……ごめん。でも本当に、大丈夫だから」
思えば、最後に母の笑顔を見たのはいつだっただろう。必死に記憶を遡るが、笑顔の記憶は見つからない。出てくるのは、泣いている姿ばかりだった。
当然なのかもしれない。母を追い詰めているのは、いつも僕なのだから。
「でも、もう体が限界なんじゃ……」
「分かってるよ。自分のことだから」
母の姿に僕は困ったように微笑む。
ごめんね母さん。こんな体で生まれてきてしまって。親不孝者の息子で、ごめんなさい。
「蓮……」
「母さん、少し、鈴葉と二人にしてくれる?」
僕の言葉に彼女はピクリと反応する。母は鈴葉に一礼し、入院するために必要な僕の着替えを取りに一度帰宅していった。
残された僕ら。僕は自分の体に取りつけられた無数の管に溜息をついた。血管と骨ばかりが浮き出る細く青白い腕。血管に突き刺さる点滴の管。胸に貼りつけられた心電図がむず痒い。
典型的な病人の体を持つ自分の姿を彼女に見られ、情けなくなった。
「鈴葉、どうして来たの。僕は別れようって言ったはずだけど」
冷たい声色。確実に彼女を傷つける言葉だということは分かっていた。
「どうしてなにも言ってくれなかったの」
彼女はうつむいていた。
「それはお前が心配すると思って……」
「私、心配もさせてもらえないの?」
「いや、そうじゃなくて……」
「私、言ったよね。最期までずっと蓮くんの隣にいるって。忘れたの?」
彼女の瞳はまっすぐに、僕だけを見つめていた。
返す言葉が見つからず、僕は言葉を詰まらせる。苦し紛れに紡がれた言葉。
「それじゃあ……鈴葉、お前が幸せになれない」
「私は蓮くんの隣にいる瞬間が一番幸せなの」
「……」
彼女は思っていた以上に心の強い人だった。
「……僕が悪かった」
僕はこれから何度も迷い続けるだろう。そのたびに彼女は僕を奮い立たせてくれる。
それがどんなに幸せなことなのか身を持って味わった。
それからしばらく談笑した後、彼女が席を立った。
「私、そろそろ帰るね。もうあんな馬鹿なこと言わないでよ? 私の気持ちは変わらないから」
「ごめんな」
「蓮くん、大好きだよ」
彼女は僕に向かって微笑んだ。
彼女の姿が遠ざかっていく。まるでスローモーションの世界だった。気がつけば、僕は鈴葉の腕を掴み、引き寄せていた。奪うように重ねられた唇。自分でも、理解しがたい行動だった。彼女は僕の突然の行動に目を丸くする。当然の反応だ。
直後、お互い顔を真っ赤に染めながら、しばらく目を合わせることができなかった。
「……気をつけて帰れよ、海愛」
「……うん」
僕らの会話はそこで途切れた。
太陽が沈む頃、母が着替えを持って病室に戻ってきた。夕日のおかげで赤く染まった頬を母に気づかれなかったことが唯一の救いだった。
母は病室の花瓶に花を挿しながら辺りを見渡した。
「蓮、海愛ちゃん帰ったの?」
「うん」
「あら、そう」
母は納得し、それ以上の追及を止めた。
「そういえば、田辺先生なにか言ってた?」
母の顔が曇った。些細な変化を僕は見逃さなかった。
「特になにも」
母は笑っていたが、目を合わせようとしない。なにかを隠している。
「嘘つかなくていいよ」
人間が嘘をつく時は必ずいつもと違う行動を取る。目を合わせず、ニコニコと歪んだ笑顔を見せる母。
じっと母を見つめると、その笑顔は容易く剥がれていく。
沈黙が続く。無機質な心電図の規則正しい機械音だけが、虚しく響いていた。
「体が、限界に近いって」
母は無表情のまま言った。
僕は意外にも冷静だった。いつか受け入れなければいけない現実が目の前にある。
「まぁ、そうだよな。薄々分かってはいた」
「そっか……」
母は力なく僕の言葉に相槌を打ち、肩を落としてうつむいてしまった。
「僕、死ぬのは怖くないよ」
「……え?」
穏やかな口調で母に語りかける。
「僕は、生きる希望を見つけたから」
鈴葉はその小さな体で全てを受け入れてくれた。喜びも、苦しみも、悲しみも、全てを共有しようとしてくれた。鈴葉こそが、紛れもなく僕にとって生きる希望となっていた。
僕の告白を母は無言で聞いていた。そしてゆっくりと頷き、口を開いた。
「それが彼女なのね……あの子ね、蓮が目を覚ます直前まで泣いてたのよ……救急車であんたが運ばれた時も、何度も名前を呼びながら、『蓮くんは死なないですよね!?』って。私、びっくりしたわよ」
「鈴葉が……」
途端に、僕の中でなにかが壊れた。塞ぎ止めていた感情があふれ出す。感情は涙となり流れようとする。僕は涙を必死に堪え、天井を見上げた。
「少し、一人にしてくれないか」
「え?」
「頼むから……一人にさせてくれ」
僕は天井を見上げたまま、母に懇願する。
母は僕のただならぬ気配を感じ取ったのか、無言で病室を後にした。
母が去った後、病室に残された僕。両目からは大粒の涙があふれ出した。
「……っ!」
止まらない感情。個室中に静かに響く泣き声。
「……ううっ」
脳裏に浮かぶ彼女の笑顔。
ねぇ鈴葉。どうして君はそんなに僕を想うことができるの?
涙が止まらない。こんなにも感情が剥き出しになるのは初めてだ。
死にたくない。もう、彼女を苦しめたくない。花のように笑う君だけを見ていたい。
神様、どうして僕を選んだのですか? 他にも人間は沢山いるはずなのに、どうして。
「……どうしてなんだよ」
僕はその場で泣き崩れた。
「ふざけんな!」
拳に行き場のない怒りをぶつける。
「……くっ……生きてぇよ……死にたくねぇよ……」
痛い。拳が、胸が、心が。
死ぬことは、想像もつかない痛みを伴うのだろう。途方もない苦しみと悲しみが襲うのだろう。この先、果たして僕に幸せは訪れるのだろうか。僕が不幸になる分、彼女が幸せになってくれたらそれでいい。同じ時間を共有し、愛を分かち合う。それだけで十分だ。
僕はそのまま泣き疲れ、眠りについた。
夢を見ることもなく、眠り続けた。