2話 【痛みと甘さ】 2
継続的に、間隔を空けずにやってくる痛み。
「痛っ……はぁ、はぁっ」
発作というものは、本当に厄介だ。時間も、体調も、全てのことを無視してある日突然襲われる。個人差はあるだろうが、僕の発作はいつも突発的だった。
まず、胸の辺りに違和感が生じる。その後徐々に違和感が確かな痛みに変わる。痛みの度合いもその時によって微妙に違うが、大抵の場合は針でチクチクと突かれているような痛みで終わる。痛みが心臓を抉られるような、握り潰されるようなものになった時は、本当に重症だ。すぐにでも救急車を呼ばなければ、命に関わる。今回の発作は前者だ。
少しでも危ないと感じたら、すぐに救急車を呼ぶこと。
それは僕が定期健診に訪れるたびに医師から言われる決まり文句だった。
「うっ……」
長時間の発作が徐々に落ち着いてくる頃には大量の汗、頭痛、そして吐き気が僕を襲っていた。
全ての症状が、タイムリミットが近づいているという変えようのない事実を示している。
苦しい。心と体が。
僕にとっての「生きる」とは、ツラく苦しいだけの虚しい行為なのだ。
誰にもこの苦しみを理解してもらえないまま、ある日突然この世から姿を消す。これほど寂しいことはない。
考え出すと途端に恐ろしくなり、僕は流れる汗を気にすることもなく、頭を抱えた。
許されるなら、大声を上げて泣き叫びたい。
怖いと訴え、死にたくないと叫びたい。
仮に今ここで涙を流せば、堪えているものが一気に崩れ去ってしまいそうだった。
発作が治まった頃、薄暗くなった窓の外をぼんやり眺めていると、ベッドの上に放置した携帯電話が鳴った。
その音でハッと我に返った僕は、おもむろに携帯電話に手を伸ばす。メールの着信を見ると、そこには先日アドレスを交換したばかりの鈴葉の名前が表示されていた。
【海愛です。突然ごめんね。蓮くん頭いいって聞いたからお願いなんだけど、そろそろ夏休みに入るでしょ? 勉強、教えてもらえないかな?】
僕は迷わず返信した。
【いいよ。夏休みに僕の家で勉強しよう】
しばらく返信が途絶え、僕は首を傾げながら携帯電話を再びベッドに放り投げた。
翌朝、鈴葉から「お願いします」と返信が届いていた。
後日、那音にこの話をすると、溜息をつかれた。どうして那音が溜息をついたのか、僕には分からなかった。
* * *
長かった一学期が終わり、終業式を迎えた。
それから一週間後、僕の携帯電話に鈴葉からメールが届いていた。
【海愛です! 前言ってた夏休みの約束って覚えてる? 勉強教えてほしいなって……今日の午後って空いてる?】
時刻は午前十時。僕はすぐに返信した。
【空いてる。十二時に、いつもの公園で待ってる】
鈴葉に返信すると、身支度を始める。
僕は十一時三十分を過ぎた頃、家を出た。携帯電話をポケットに詰め込み、彼女の元へと走った。
約束の場所で待っていると数分後、彼女が姿を現した。淡い水色のワンピースが眩しい。
「鈴葉、こっち」
僕の姿を探す鈴葉。声をかけると、彼女は満面の笑みを浮かべてかけ寄ってきた。
「蓮くん、久しぶり!」
綺麗な栗色の髪が風に揺れる。彼女の姿に僕はしばらく見とれていた。
「どうしたの?」
「なんでもない。い、行こうか」
「うん!」
不思議な緊張感。女の子と二人きりでいること自体が僕にとっては十分に不思議なことだったが、まして自宅に招き入れるなど、想像がつかなかった。
自宅に向かう途中、僕たちの間には沈黙が続いた。お互いなにか言おうとするものの、何度も不発に終わる。ぎこちない雰囲気は自宅に着くまで続いた。
「ここが蓮くんの家? 大きい!」
そう言って、彼女は笑った。僕の表情筋は相変わらず彼女の前で仕事を放棄し、眉を下げることしかできなかった。
嫌な気分にさせてしまったか、と心配しながら彼女に視線を向ける。鈴葉は変わらず笑顔だ。僕はホッと胸を撫で下ろした。
自宅に到着すると緊張しながら彼女を招き入れた。
「どうぞ」
「おじゃまします」
女の子が僕の家にいる。何度考えても不思議な違和感があった。
「ここが蓮くんの部屋? 大きい!」
「鈴葉……それさっきと同じ台詞」
僕の言葉に彼女は微笑んだ。
「いいの!」
愛くるしい笑顔。彼女の笑顔に僕の胸がざわつく。
本当は初めから気づいていた。認めたくないという思いが無意識に僕の気持ちを否定していた。
だが、もうこれ以上、誤魔化すことはできない。進んだ先に待っているのは、暗い未来だというのに。それでも。
僕は、君が好きだ。
彼女を見るだけで胸が高鳴り、苦しくなる。笑顔を見つめると、どうしようもなく心がざわついて、目が合わせられなくなる。このままずっと彼女の隣にいられたら、どんなに幸せなのだろうか。これが、恋なのか。
浮かれた気持ちのまま、明るい未来ばかりが浮かんでくる。
この恋を成就させること。それは僕にとってプラスでも、彼女にとってはマイナスになるだけだというのに。
好きだから一緒にいたい。そんな考えは、僕のエゴでしかないというのに。
好きになってはいけない。この気持ちを肯定してはいけない。僕は彼女よりずっと早く死を迎える。これは変わらない未来。僕が彼女を好きになっても、悲しませる結果にしかならないのだ。
僕には鈴葉を幸せにすることはできない。
彼女のために珈琲を注ぎながら、僕はそんなことを考えていた。
部屋に戻り、彼女に珈琲を渡すと、声をかけられた。
「ねぇ蓮くん」
「なに?」
「蓮くん、好きな人いる?」
彼女の言葉に僕は口に含んだ珈琲を吹き出しそうになった。
熱々の珈琲が喉を通り胃に染み渡る。
僕は一呼吸置き、穏やかな声で言った。
「いないよ」
それは彼女にとっては他愛のない質問だったのかもしれない。それでも今の僕にとってはなにより衝撃的な質問だった。
「私、蓮くんが好きだよ」
それより衝撃的な言葉がすぐに彼女の口から発せられるとは、夢にも思ってみなかったけれど。
「え……え!」
驚いて大きな声を上げたことを許してほしい。僕は先ほど好きだと気持ちを肯定した相手に、突然好きだと言われてしまったのだから。
「私ね、今日それを言おうと思って来たの。嘘ついてごめん。改めて言うね。櫻井蓮くんが好きです」
強気に言葉を紡いでいるが、よく見ると彼女は耳まで赤く染まっていた。体も震えている。
しばらくの沈黙の後、僕の口は言ってはならない言葉を紡いだ。
「僕も……好きです」
しまった、と慌てて口を塞いだ時には、手遅れだった。
僕は頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしてしまった。その言葉に嘘はなかったが、絶対に伝えてはならない気持ちを伝えてしまった。
鈴葉を見ると、状況がのみ込めていないような表情をしていた。今さら撤回などできない。
僕は意を決し、鈴葉に全てを打ち明けることを決めた。その行いがたとえこの場で彼女を傷つける結果になったとしても、僕は考えを変えるつもりはなかった。
彼女がこの後の人生を僕と一緒に歩むより、よほどいいと考えたからだ。
「でも、ごめんなさい。つき合うとかは、できません」
泣き出したい気分だった。
僕の言葉を聞いた瞬間、彼女の長い髪が揺れた。チリン、と携帯電話につけたキーホルダーが足に当たり、音を立てる。
「どうして?」
君が好きだから。
喉元まで出かかった本音を今度はのみ込み、僕は汗ばむ拳を握り締めた。
好きだから、生きる希望を与えてくれた、大切な人だから。本当に幸せになってほしい。
「僕ね、もうすぐ死ぬんだ」
「し……ぬ?」
僕の言葉に彼女は顔を強張らせた。
「言うつもりはなかったけど、僕は健康な人が本当は憎くてたまらない」
僕は大袈裟に溜息をつく。
どうせなら嫌われてしまった方がいい。もう二度と会わないように、未練が残らないように。
「蓮くん、私のことが嫌いなら正直に言って。私、そういう冗談は嫌い」
彼女の充血した瞳が僕を捉える。目を、逸らせなかった。
「嘘なんてついてない。君は僕みたいな男を好きになっちゃいけない」
鼻の奥がツンとする。呼吸が苦しくなって、やるせない気持ちが襲う。今にも流れ出しそうな涙を堪える。
「それでも、一緒にいたいの」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「このまま僕と一緒にいても、ツラい思いをするだけだよ」
「そんなことない!」
振り絞るような声で彼女は叫んだ。掠れた音が、無音の室内に響き渡る。
「鈴葉……」
彼女はしばらく顔を両手で覆い、声を堪えて泣いた。
僕はどうすることもできず、肩を震わせる鈴葉を見守ることしかできなかった。
落ち着きを取り戻した彼女が顔を上げた時、眼差しは力強いものへと変わっていた。
「蓮くん……私ね、本当は少しだけ気づいてたの」
「え?」
彼女の言葉に、僕は首を傾げた。
「なにか隠してるんじゃないかって。でもそれが、こんな重大なことだとは思わなかったけど」
鈴葉は寂しそうに笑う。笑顔と共に再び流れ出す彼女の涙を拭うことさえ、今の僕にはできなかった。
「ごめん」
「謝らないでよ。余計に悲しくなっちゃう」
「……ごめん」
僕は謝ることしかできない。
「じゃあ、私のお願い聞いてくれる?」
少しでも償いになるのなら、そんな思いで僕は彼女の言葉に耳を傾けた。
「なに?」
「最期まで、蓮くんの隣にいさせてほしい」
彼女は笑顔だった。泣きながら、笑っていた。
「鈴葉、だからそれは……おい!」
突然、クラリと反転する視界。
発作か、と慌てたが、やがて分かった原因に溜息をつくしかなかった。
「鈴葉……」
彼女が僕の腹部に抱き着いていた。
やわらかい、女の子の感触。花のような香り。全て、体験したことのないものだった。
そんな状況に僕は困り果て、一層深い溜息をついた。
「近い未来、僕は必ず君を置いて逝く。そうしたら必ずツラい思いをするだろ」
「蓮くんのツラさに比べたら、へっちゃらよ」
どうして彼女はこんなにも強いのだろう。この先待っている未来が暗いものだと知りつつも、臆することをせず、立ち向かおうとする。
眩しい光に、思わず目を背けたくなった。
「僕で、いいのか」
彼女のことが不思議でならなかった。
この優しさも、全てが嘘なのではないだろうか。現実が信じられない。
「私は蓮くんがいいの」
鈴葉は笑っていた。
今なら那音に共感できる。恋って、いいな。守りたいものができるって、こんな気持ちなんだな。
「私をアナタの彼女にしてくれる?」
鈴葉は僕に問いかけながら、抱き着いていた腕を放した。
彼女の言葉に僕はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと首を縦に振った。
「うん」
僕は笑った。とても満ち足りた気分だった。
欲しがっていたものを与えられた子供のような満足感。反面、心にぽっかりと穴が開いてしまったかのような虚しさが僕の心を埋めていた。
「やっと笑ったね」
僕は初めて彼女の前で本物の笑顔を見せることができた。
「君の前で笑ったのは初めてだ」
「そうだね」
「うん。ようやく笑えた」
彼女の涙は乾いていた。
僕は鈴葉に何度も勇気づけられ、励まされてきた。今度は、僕が彼女を励まし、精一杯の愛情を注いでいこう。
それが、今の僕にできる精一杯のことだから。
僕は一人で生きる孤独に堪えられなかった。
それだけ。
ただ、一人で死んでいくのが怖かっただけだ。
「これから、よろしく」
「私こそ、よろしくお願いします」
お互い笑顔で笑い合えたのは、これが初めてだった。
次回の更新は夕方の予定です。