18話 【それから、】2
今年の春は花粉の飛沫量が多く、来院する患者の多くが花粉症に苦しめられていた。
「今日の患者さんの八割はアレルギー検査で花粉症と出たな。最近の子は大変だ」
「本当ですね。神谷先生も気をつけてくださいね」
「そうだな」
櫻井の死から六年。俺は小児科の医師として開業するまでになった。海愛ちゃんに告白をしてから五年。優は今年で六歳になる。来年はランドセルを背負った小学生だ。
今日もまた、仕事を終えた俺は自宅ではなく、そのまま海愛ちゃんの待つ部屋へ向かった。慣れたように玄関の戸を開けると、待ち構えていたのか優が飛びついてきた。
「おじさん! おかえり!」
「ただいま。いい子にしてたか?」
「うん! 今日ね、優、ママのお手伝いしたんだよ」
「そうか、優はえらいな」
「えへへ」
大袈裟に褒めてやると、優は満面の笑みを浮かべた。
最近の俺は、海愛ちゃんと一緒に櫻井の墓参りに行くことが増えた。優は、実の父親が亡くなったという事実が分かっているのか、いつも真剣な表情で墓前に手を合わせている。
子供は時として、大人でも気がつかないようなことを口にする。行動をする。子供は大人より、よほど敏感なのだ。
「おいで、優」
俺は足にへばりつく優をそのまま抱き上げ、台所に向かう。
「神谷くん、お仕事お疲れさま。おかえり」
「ただいま」
海愛ちゃんは台所で夕食を作っている最中だった。今日はカレーのようだ。
海愛ちゃんの後ろ姿をしばらく見つめていた俺は、抱き上げていた優を下ろし、エプロン姿の彼女に声をかけた。
「今日はカレー?」
「そうだよ! カレーと、あとはサラダ。手抜きかな」
「そんなことないよ。絶対美味しい」
「そうかな」
「うん。海愛ちゃんの料理はなんでも美味しいから」
そう言って、俺は背後から海愛ちゃんを抱き締めた。彼女の体が驚きで強張る。
「ちょっと、神谷くん!」
「はー、今日も疲れた」
「苦しいよ、神谷くん」
「ごめん。でも……少し、このままでいさせて」
海愛ちゃんが未だ櫻井蓮を忘れられないと知っていてこんなことをするのだから、俺は本当にズルい人間だと思う。
海愛ちゃんは、弱った人を放っておくことのできない優しい人間。俺はそんな彼女の性格を利用するズルい男。
彼女は俺の言葉に抵抗を止め、鍋の火を消した。
少しの沈黙。俺が口火をきる瞬間、腰の辺りに衝撃があり、咄嗟に視線をそちらに向けた。
「俺も、ぎゅってする!」
優だった。俺はその行動に思わず吹き出し、彼女も笑った。そして、優を高く抱き上げた。
「じゃあ、おじさんは優を高い高いしてやろう! 大きくなったなあ、来年からは小学生だもんな」
「うん!」
じゃれる優の楽しそうな姿を見つめながら、海愛ちゃんは寂しそうに笑って呟いた。
「私も……そろそろ決めなきゃね」
* * *
雲一つない青空が広がったその日、私は優の小さな手を引き、来年、優が歩く通学路を歩いていた。
天気のいい日はこうして散歩をするのが日課だった。優は日に日にたくましく成長している。その姿が今は亡き恋人に似てきている現実は、私の心を揺さぶる。ふとした瞬間の顏、仕草が私の中にいる彼を呼び起こす。
私は決断を迫られていた。それは、神谷くんとの関係。神谷くんは私を責めることなく長い間待ってくれていた。彼に告白されて五年、私は未だ答えを出せずにいた。この世を去った恋人のことが忘れられないと言った私に、神谷くんは「それでもいい」と言ってくれた。優のことを一番に考えれば、選ぶべき答えは決まっているというのに。
結局は自分のことを一番に考えている。私はそんな自分自身が大嫌いだった。
「ねえ、優」
「なあに?」
優は散歩の途中で買ってあげたアイスを食べながら首を傾げた。
「今日ね、神谷おじさん、お仕事で遅くなるから来れないんだって」
「えー、おじさんとゲームするって約束してたのに!」
「おじさん、ごめんねって言ってたよ」
「しょうがないなあ」
優はわざとらしく溜息をつき、残りのアイスを一口で食べた。
「優」
私はそんな優に意を決して聞いた。
「優は、神谷おじさんがお父さんになったら嬉しい?」
それは、賭けだった。優が望むなら、私は自分の感情に囚われず決断できる。蓮が生前望んだように、私は過去に囚われず、前に進む。それがきっと、進むべき正しい道なのだから。
私の質問に、優は即答した。
「うん!」
「嬉しいの?」
「うん、嬉しいよ! おじさんはいつも優と遊んでくれるし、ママにも優しいし、おじさん大好きだよ! ママは?」
満面の笑みを浮かべる息子に、私は同じように笑ってみせた。
「うん……ママも」
私は噛み締めるように言いながら、かつて蓮にもらった胸に揺れるネックレスを握り締めた。
蓮の死から六年が経過した現在も、私は彼からもらった思い出の品を外せないままでいた。
* * *
桜が散り、長かった梅雨が明け、季節は夏を迎えた。額に汗を浮かべながら、優は屋台で買ってあげたラムネをのむ。私は優のずれた野球帽を直しながら、優の手を握り直す。
左手に冷えたジュースを持ちながら、私たちはとある場所を目指していた。
「優、転ばないでよー」
「大丈夫!」
元気に走っていく優の後ろ姿を見つめながら、私はその後を追う。通い慣れた家のインターフォンを押す。中から現れたのは蓮のお母さん。
「あら! 久しぶりね、海愛ちゃん。優くん先に来てるわよ」
「すみません……あ、これさっき屋台で買ったんですけど、お義母さんこれ好きでしたよね? よかったらどうぞ」
「あーそっか、今日は夏祭りだもんね。ありがとう。さ、あがって! 暑かったでしょう」
「お邪魔します」
お義母さんはこの六年で白髪が目立つようになった。それは息子を失った悲しみからくる多大なストレスが原因だと思われた。
私は蓮の死後も、時々こうして孫の優を見せにこの家に遊びに来ていた。私を本当の娘のように可愛がってくれる優しいお義母さんに、私はどうしても伝えなくてはいけないことがあった。
隣の部屋で優を遊ばせながら、私はお義母さんに本題を持ち出した。
「お義母さん、お話があります」
「話って? アナタが私に相談なんて、なにかあったの?」
「実は……あの」
「なに?」
「私、ある人と結婚しようか、迷ってるんです。お義母さんにこんな話をするのはお門違いだって分かってます。でも……私の愛した人は櫻井蓮だから……お義母さんに聞いてもらいたくて」
机の上の麦茶に浮かんだ氷が溶け、音が鳴る。
私はお義母さんの返答を待った。お義母さんからしてみれば、なんて図々しい話なのだろうと思う。最低な子だと罵られても仕方ない。身構える私に、お義母さんは言った。
「それを……海愛ちゃんは今までずっと悩んでたのね」
「はい……彼はとてもいい人で、優も懐いています。あの子に父親を与えてあげたいんです。来年、小学生になる前に」
お義母さんは真剣な表情で私を見ていた。ピアノ線のように張り詰めた空気の中、夏の暑さが体を蝕む。背中に汗が伝った。
「ねえ、海愛ちゃん」
「はい」
なにを言われても、私は受け入れる覚悟だ。
どんなに都合のいい言葉を使っても、私は櫻井家の嫁ではない。お義母さんの本当の娘でもない。
大切な一人息子を失ったお義母さんから血の繋がった孫まで取り上げることは、私にはできない。
「どうして一人で抱え込んでたの? すぐに私に言ってくれたらよかったのに」
「え?」
予想していなかったお義母さんの言葉に私はうつむいていた顔を上げた。
「昔、言ったことがあるでしょう? アナタはもう、私の娘だって。子供の幸せを願わない親はいないわ」
涙で視界が霞む。
「優くんにも父親が必要だってことは本当だしね。女手一つで子供を育てるって、本当に大変だから、私は応援する。海愛ちゃんが選んだ人なら、きっと大丈夫よ」
あふれ出す涙を拭き、私はお義母さんに深く頭を下げた。
「ありがとう……ございます」
「なにかあったらいつでもいらっしゃいね。ここはアナタの家なんだから」
「はい」
「あまり一人で抱え込んではダメよ」
「はい」
「今度、私にも彼を紹介してね」
「はい!」
お義母さんとの会話に堪えきれなくなり、私は大粒の涙を流した。その場で指輪を外した私はそれをネックレスに通し、お義母さんに再び深く頭を下げた。




