18話 【それから、】1
蓮の死から一年が経過した頃、息子の優はすくすくと成長し、私を「ママ」と呼べるようになった。私は息子の成長を心の支えに毎日を送っていた。
蓮の死後、私は完全に塞ぎ込んでしまい、周りにも沢山迷惑をかけた。蓮は、生前から私がこうなってしまうことを酷く心配していた。
人は愛する人間の死に直面して初めて本当に失う意味を知る。
私の心は限界だった。
そんな私を支えてくれたのが神谷くん。私が壊れることなく今まで生活してこれたのは彼の支えがあってこそだった。
神谷くんは仕事の合間に時々遊びに来る。優は初めこそ見知らぬ男の人に戸惑っていたが、今では喜んでかけ寄るようになった。
「迷惑をかけて申しわけない」と頭を下げる私に神谷くんは困惑するばかりだった。
* * *
俺、神谷陸は鈴葉海愛ちゃんに恋をしている。
俺は櫻井の死後、落ち込んでいた海愛ちゃんのためになにができるだろうかと考えた。そうして、俺は櫻井との約束を忠実に守ることにした。とは言っても、俺がこうして海愛ちゃんと優の面倒をみているのは自らの意思だ。
生まれたばかりの優は、産声を上げ、精一杯にこの世に誕生した喜びを叫んでいた。
誰かが守らなければ決して生きていくことができない弱い命。本来その役目を担うはずだった、櫻井蓮。しかし奴はもう、この世に存在しない。
海愛ちゃんの元へ通い出した当初は櫻井との約束を、義務的に守ろうとする感情しかなかった。それが、奴を苦しめた俺の責務だと思っていた。
今は違う。俺を占める今の感情は、彼女への愛情だ。櫻井から遺された言葉も責任も、全てを抜きにして俺は海愛ちゃんを愛し、櫻井蓮の息子を海愛ちゃんと共に養っていきたいと考えるようになっていた。
初めて優を見た時、純粋に可愛いと思った。そして同時に可哀相だと思った。この子はこれから父親の存在を知ることなく長い人生を歩むのだ。
俺に初めて抱かれた優は、途端に大きな声で泣いた。あまりに泣くものだから、俺は嫌われているのかもしれないと思った。けれど、優に邪険な気持ちを抱くことはなかった。
優が一歳の誕生日、優は初めて俺に自分から抱っこをせがんだ。そうして芽生えた不思議な気持ち。
この小さな命をこの手で守り、育てたい。
穢れを知らない優の存在は、俺の心に大きな変化をもたらした。
その日、俺はいつものように仕事を終え、海愛ちゃんが現在住んでいるアパートに顔を出した。
仕事帰りにこうして彼女の家に寄る行動は櫻井の遺言が関係している。その事実を彼女は知らない。俺は海愛ちゃんに嘘をついている。
嘘、と一括りにしてみても、その種類は膨大だ。他人のためにつく嘘は、時としてその人を救うことも、守ることもある。俺が櫻井から言い渡された遺言は、きっと後者だ。
アパートに到着し、部屋に入ると、食欲をそそる香りが鼻孔を刺激した。海愛ちゃんはこうして、仕事帰りの俺に夕食を御馳走してくれる。
そんな彼女の優しさに大きな幸福を感じながら、俺は部屋の中へ足を踏み入れた。
今日の夕食は肉じゃが。ほうれん草のおひたし。なめこの味噌汁。優には薄味にした離乳食が用意されていた。
俺は最初に櫻井の遺影に手を合わせる。その後はいつものように食卓についた。
海愛ちゃんが俺のために夕食を作ってくれるようになったのには理由がある。俺が彼女のアパートに通い始めたばかりの頃、料理の苦手な俺の主食はコンビニ弁当だった。俺の荒れきっていた食生活を聞いた彼女は「いつも優の面倒を見てくれるお礼」と、夕食を御馳走してくれるようになった。
そんな毎日を過ごしていたある日、俺は胸に秘めていた想いを海愛ちゃんへと打ち明けた。
「俺と、一緒になってくれないか」
俺の言葉に彼女は驚き、まじまじと俺の顔を見つめた。
「……え?」
「俺と、結婚してほしい。俺がこれから君と優を守っていきたいんだ」
真剣な表情で語る俺に、彼女は視線を逸らしてしまった。海愛ちゃんが唇を噛み締め、左手の薬指にはめられた指輪に触れるのを、俺は見逃さなかった。
「ありがとう、神谷くん。でも……ダメだよ」
「ダメ?」
彼女は優を腕に抱き、櫻井に似た優の柔らかい猫毛を撫でながら苦笑いを浮かべた。
「神谷くんの気持ちは嬉しい。この子にも父親が必要なんだってことは分かってるの。でもね、私……やっぱりまだ蓮を愛してるの。彼を忘れられないの」
そう言って、彼女は目を細め、櫻井と一緒に写った写真を見つめた。
「俺は、いくらでも待つよ。君があいつを忘れられなくても、俺はそれでもいい。写真も指輪も、あいつとの思い出全部持ったままの君でも、俺はかまわない」
俺の言葉に彼女は眉を下げて笑った。
「神谷くん、格好良すぎだよ……ねえ、優」
「俺は本気だよ。海愛ちゃんの決心がつくまで、俺はこれからも君たち親子の力になるから」
カチ、カチと時計の秒針の音が響く。しばらく黙っていた彼女は、俺に向かって苦笑いを浮かべ、言った。
「ありがとう、ごめんね」
* * *
「ママ、ママ」
「優、いい子にしててね」
蓮の死後、私は月に一度、息子の優を連れて蓮の墓参りに訪れていた。新しい水と花に変え、線香を供えたところで、私は溜息をついた。【櫻井家】と刻まれた墓石。故人の横に新しく刻まれた、蓮の名前。
こうして蓮の墓参りに訪れるたび、私は彼と戸籍上の繋がりがなにもないのだという現実を突きつけられる。彼は最後の最期まで、私と入籍してはくれなかった。
肉親でなければ、妻でもない。恋人として止まった彼との時間は、もう二度と戻らない。
「ねえ蓮……私、どうしたらいいの? 私まだ、アナタを愛してるの」
『僕がいなくなっても……ちゃんと、やっていける?』
『うん』
『僕がいなくなったら、もうお前を守ってやることもできなくなるから』
『寂しいけど……頑張る』
そう言って、蓮と約束を交わしたのはいつだっただろう。あの頃は、愛する人を失う悲しみがこんなにも大きいものだと知らなかった。蓮が残してくれた、優がいたからこそ、私は生きる希望を失わず、生きなければと思うことができた。
蓮は私が籍を入れたいと言った時、私の目をまっすぐ見て言った。
『僕の勝手だけれど、それはダメだ』
『どうして?』
『海愛を心の底から愛しているからだよ。だから君には過去に囚われず、前に進んでほしいと思ってる。僕のわがままを許してくれ』
当時の私は蓮の言葉に隠された真意を知らぬまま首を縦に振った。蓮が言っていた「過去に囚われる」という言葉の意味を、私は左手の指輪を見てようやく理解し、苦笑いを浮かべた。
眠気が襲ってきたのか、ぐずり出す優をあやしながら、私は蓮の眠る墓の前で動けず立ち尽くしていた。
「蓮、私……いつになったら前に進めるのかな」
月日は流れ、それから五年の歳月が経過した。




