17話 【タイムリミット】2
僕が入院してから、海愛は毎日のように病室を訪れるようになった。
「蓮といる時間を一分一秒でも無駄にしたくない」
そう言った海愛の願いを聞き入れ、僕は無理をしないという約束を海愛と交わしていた。
日に日に大きくなっていく海愛のお腹。妊娠七か月にはお腹の子が男の子だと判明し、それから二人で子供の名前を考えたりもした。
幸せな時間はあっという間に過ぎていく。
海愛が出産のために入院した後、僕は病室に神谷を呼んだ。久しぶりに見た神谷は少し痩せたように思えた。
「よう」
僕が声をかけると、神谷は軽く頭を下げた。
目が泳ぎ、こちらを見ようとしない。そんな奴の様子に僕は溜息をつき、重たい体を起こした。
「神谷、今日は頼みごとがあってお前を呼んだんだ」
「俺に?」
神谷は首を傾げた。
僕は真剣な表情で言う。
「僕が死んだ後、海愛を頼む」
「え……なに言って……」
僕は本気だった。神谷の過去を知り、それから長い間、奴を見てきて分かったことがある。神谷は海愛に恋をしていた。だからこそ、奴の背中を押してやれるのは今しかない。
僕がいなくなった世界で、海愛を支えるのは、こいつかもしれないのだから。
僕の言葉に神谷は青ざめた。
「海愛のこと、好きなんじゃないのか?」
「それは……」
「一緒になってくれ。なんて、お前の人生を縛るつもりはない。ただ、時々でいいから、海愛のことを気にかけてやってほしいんだ。頼む、神谷」
僕は神谷に深々と頭を下げた。
もうプライドなんていらない。海愛のためにできることはなんだってする。それが、僕に残された最期の時間の使い方。
頭を下げる僕に、神谷はさらに青くなった。
「お前が望むなら、俺は従う。だから、頭を上げてくれよ。頼むから」
「決めるのは神谷、お前だ。僕に遠慮なんていらないから……とにかく、僕の気持ちは伝えたぞ」
「……」
黙り込んでしまった神谷。僕はベッドの横にある戸棚から一枚のDVDを取り出し、神谷に手渡した。
「これ、お前に預けておく」
「なにこれ」
「ビデオレター、かな。お前が海愛を選んでくれたら、あいつに見せてやってほしい」
「櫻井……」
神谷は手渡されたDVDを抱えてうつむいてしまった。
点滴の管。心電図のパッチ。栄養補給のためのチューブなど、無数の管が僕の体に伸びていた。痩せ細った僕を、神谷は決して見ようとはしなかった。
「頼んだぞ」
「……分かった」
神谷の返答に、僕は苦笑した。
* * *
澄み切った青空が広がり、猛暑を記録した八月十日。午前九時五十八分。この世界に新たな命が誕生した。大きな産声を上げ、この世に生まれてきた男の子。僕の息子。
海愛は酸欠で意識が朦朧としながら、たった一人で出産に挑んだ。
「やっと、会えたね……」
腕に収まる小さな息子を愛おしそうに見つめ、海愛は分娩台の上で泣いていた。
出産の際、出血が酷かった海愛は、体調が戻るまで一週間入院することになった。入院期間が過ぎ、体調が回復した海愛は息子を連れて僕の元を訪れた。
「蓮、気分はどう?」
「お前こそ……大丈夫なのか」
「大丈夫よ……私も、この子も、元気よ」
この日、初めて我が子を目にした僕は、想像以上に小さな命に目を丸くした。
「一人で、よく頑張ったな……ありがとう、海愛」
「らしくない」そう言って笑う海愛に僕は苦笑した。
「抱いてみる?」
「え、いや、僕は……」
病室の片隅で優しい眼差しを向けていた看護師に手伝ってもらい、僕は我が子を腕に抱くことができた。首が座らない赤ん坊に恐怖を覚えながらも、僕は初めて赤ん坊を抱いた。
腕の中で息子は穏やかな表情で寝息をたてていた。
「あ、寝ちゃったね。お父さんに抱っこされてるのが分かるのかな?」
「どうだろうな」
それは、とても幸福な時間だった。親になり、僕を生んだ母の気持ちが少しだけ理解できたように思う。
生まれたばかりの我が子が長くは生きられないと知った時、母はなにを思っただろう。
僕の息子がそうなったとしたら?
きっと耐えられない。
僕は顔も覚えていない父のことを思い出し、切ない気持ちになった。あの人は、きっと耐えられなかっただけなのだろうと思う。そうでなければ少しの間でも、僕を育ててはくれなかっただろうから。
「海愛……ごめんな」
そう言って頭を撫でると、海愛は途端に泣き出した。
「やめてよ、そういうの……悲しくなるじゃない」
「うん、ごめん」
「バカ」
泣きじゃくる海愛の頭を何度も優しく撫でながら僕は謝った。
「ごめん」
謝ることしか、今の僕にはできなかった。
* * *
それから半年後、蓮は昏睡状態になった。蓮は、私の呼びかけに反応する気配も見せず、眠り続けている。
最期に、もう一度声が聞きたい。
私は不確かな願いを叶えるため、蓮の病室に泊まり込んでいた。
「海愛ちゃん。俺ちょっと仕事を片づけてくるから席外すね。なにかあったらナースコール押してね」
「うん。ありがとう」
蓮の様子を見に来た神谷くんは私にそう告げると、病室を後にした。無機質な音が響く病室で、私は蓮の寝顔を見つめていた。
「ねえ、蓮……最期に一度だけでいいから、私を見て」
反応がない。
「なにも言ってくれないのね」
何度繰り返しても結果は同じだった。
蓮、私待ってるんだよ?アナタがもう一度私の名前を呼んでくれることを。ずっと待ってる。
「最期は笑ってサヨナラしようって……約束したじゃない」
だから、目を開けて。
私は蓮の頬に触れる。柔らかくて、温かい頬。生きている証拠。
その日の夕方、蓮は意識を取り戻した。
「海愛……?」
今まで全く反応のなかった蓮の瞳が動き、私の名前を呼んだ。その事実がどうしようもなく嬉しかった。
「蓮!」
ナースコールを連打しながら、私は蓮に抱き着いて泣いた。
「蓮くんの意識が戻ったって、本当かい!」
「はい!」
「田辺……先生」
蓮は掠れた声で田辺先生の名前を呼んだ。
蓮はなにかを訴えようとしているように見えた。
蓮の言葉を聞いた田辺先生は、私に笑顔を見せて言った。
「海愛さん」
「はい?」
「彼は君を心配しているよ。彼女は大丈夫ですか、泣いていませんかって」
涙があふれ、止まらない。
なによ、そうやっていつも私のことばかり。私、こんなに愛されてた。
「蓮……私なら、平気だから……私も優も、元気だよ」
優。私と蓮の息子。
私の言葉に蓮は安堵の表情を浮かべた。
「よかった……」
蓮は私の手を決して放そうとはしなかった。
* * *
僕は意識を取り戻した。僕はまだ、生きている。
ああ、隣で海愛が泣いている。
眠っている間、僕は夢を見ていた。それは今までのような、真っ白な空間に立っているものではない。鮮やかに彩られた世界で、少年は僕に向かって言った。
『キミは、彼女に殺される』
『違うよ、僕。弱虫だった僕。僕は……自分で選んだんだ』
『なぜ?』
不思議そうに首を傾げる少年に僕は答えた。
『彼女を愛しているからさ』
咄嗟に、少年と今後会うことはないのだろうと思った。この夢を見るのも最後になる気がした。最後に見た少年の表情は、晴れやかな笑顔だった。
目を覚ました僕が最初に見たのは目を赤く腫らした海愛の姿。後に姿を現した田辺先生に海愛の様子を尋ねると、彼女は泣き出してしまった。そんな海愛をなだめようと、僕は海愛の手を握って離さなかった。
容態が安定したこともあり、僕は一時的に海愛と二人きりの時間を持つことができた。
「海愛……僕が死んだらさ「死ぬとか簡単に言わないでよ、バカ!」
僕の声は海愛の怒声にかき消されてしまった。
突然の大声に、病室に入ろうとした神谷は扉の前で足を止めた。
「どうして私のことばっかりなの? 少しは自分の心配もしなさいよ!」
海愛に本気で怒られたのは初めてで、困惑が隠せない。
「み……海愛?」
「死んだら私のことも優のことも守れなくなるんだよ? 蓮のしたいことだってなにもできなくなっちゃうんだよ! 私、そんな弱気な蓮は嫌い!」
海愛の言葉に僕は体を強張らせる。
「ごめん……」
「謝んないでよ!」
「ごめん」
「ほらまた!」
「海愛!」
僕は残された力で海愛を抱き締めた。
「……蓮?」
「ごめん……海愛。謝るから、だから嫌いだなんて言うなよ……」
僕は海愛に拒絶されることを恐れていた。
他の人間にはどう思われてもいい。だけど、海愛は違うんだ。どんなに拒絶されても、どんなに嫌われても、君だけは……嫌なんだ。
君は僕にとって世界でたった一人の大切な女の子だから。
「蓮……」
母になり、海愛はまた美しくなった。
なあ、海愛。僕、昔聞いたことがあるだろ。僕が死んだ後どうするんだって。なにをしてもいい。ただ、優と一緒に海愛の思う人生を歩んでほしい。
「寂しいの。大好きだから、蓮がいなくなっちゃうって、信じたくない」
「海愛……」
「ごめんね」
「……そうだ、海愛。写真撮ろっか」
「え?」
僕はデジタルカメラを手に取る。
「はい、撮るよ」
「ちょっと、蓮……もう」
そうして僕は海愛との思い出をデータに残した。これが、皮肉にも海愛と二人で撮った初めての写真になった。
「僕、少し眠るよ」
夕方、眠気に襲われた僕はベッドに横たわりながら言った。海愛は優しく布団をかけてくれた。
「ちゃんと起きてよ?」
「分かってるよ。じゃあ約束しようか」
絡み合う、小指。
「……約束」
海愛、もう時間みたいだ。ごめんな。僕は最期に一つだけ嘘をついてしまうね。目を閉じたら、僕はもう二度と目覚めないだろうから。
「……海愛、キスして」
これは、最期の悪あがき。最期の時まで君の温もりを感じていたいんだ。だから、お願い。
「えー」
「お願い」
「……分かった」
そう言って、海愛は僕から目を逸らし、頬を赤らめ唇を重ねた。
最期のキスは、僕の中にあった未練を吸い上げていくようだった。
もう思い残すことはない。
「ありがとう、海愛」
「なんか今日の蓮、甘えん坊」
「ふふ」
静かな病室の片隅で、僕らは出会った頃のように笑い合った。
「海愛……愛してるよ」
最期に君に伝えられてよかった。
「最期は、笑ってサヨナラしよう」
この約束も、守れたかな。
「え? 蓮?」
そうして僕は目を閉じた。
医師たちが入ってくることも構わず、海愛は泣き叫んだ。
「れん、蓮! 起きてよ! 約束したじゃない! 嫌……嫌あああああ!」
僕の体にしがみつき、海愛は声の限りに泣いていた。海愛の隣に立っていた神谷は、泣き喚く彼女を見守ることしかできなかった。
ねえ、海愛。僕は本当に幸せだったよ。あの日、君に出会えたことを、僕は心の底から神様に感謝しよう。君が僕の人生を変えたんだよ。だから、前を向いて歩いて。君は確かに僕の生き続けるための希望だった。その役目も、もう終わり。これからは、自分のために時間を使ってくれ。
命の灯が消えた僕の表情は、微笑んでいた。
ねえ、海愛、笑って?
僕の命を懸けた大恋愛は、こうして幕を閉じた。海愛は次第に冷たくなっていく僕の体から決して離れず、声を枯らして泣き続けた。