16話 【幸せになりたい】1
『櫻井、話がある。仕事が終わったら、少し時間をくれ。職員玄関の裏で待ってる』
出勤して朝一番、僕は神谷にそう言われた。
神谷は今も海愛と時々連絡を取り合っているようで、海愛も認めていた。
久しぶりに会った神谷は以前とは印象が変わっていた。
例えるなら……牙を抜かれたライオン。
「一体なにをしようっていうんだ?」
一日の仕事を終え、田辺先生との日課を過ごした僕は帰り支度を始める。私服に袖を通したところで、ふと考えた。
神谷の目的がもし、海愛に危害を加えようとするものなら、その時は容赦なく奴を殴ると決めていた。怪我など気にするものか。
僕は重い足を引きずりながら神谷に指定された場所に向かった。職員玄関の真横に見えるブロック塀に隠れるような場所に神谷は立っていた。その場所は、病院で働くスタッフが利用する野外の喫煙スペースだ。
「よう」
背後から声をかけられた神谷は僕の登場にビクリと肩を跳ねさせる。
神谷は僕の姿を捉えるなり、深々と頭を下げた。
「悪かった」
「え?」
僕は神谷の行動が理解できずに首を傾げた。
「な、なんだよ突然。頭を下げる理由を教えろ」
僕の質問に神谷が答えることはなかった。「ごめん」と繰り返し頭を何度も下げるだけ。
六月に入ったばかりの夜はまだお世辞にも暖かいとは言えない。今年は特に、冷夏を迎える予報がなされている。身を震わせながら僕は言った。
「理由を聞かなきゃ、僕だって謝罪に応えることができないだろ」
しばらくの沈黙。
「……先生」
神谷は本当に小さな声で言った。
「え?」
「田辺先生に聞いてくれ」
そう言って、神谷は最後にもう一度「ごめん」と謝り去って行った。まるで逃げるかのように。
「お、おい! 神谷!どうしてそこで田辺先生が出てくるんだよ!」
僕の言葉に神谷が答えることはなかった。
「意味分かんねえ……」
僕は混乱する頭を抱え、髪を掻き乱した。
* * *
俺、神谷陸は櫻井蓮の元から逃げるように走っていた。十分に距離を取ったところで俺は大きく息を吸い込み、肺に酸素を取り入れた。そのまま空を見上げる。
満月。雲は無く、星は煌めく。
俺は公園のベンチに腰を下ろし、買った甘い珈琲を一気にのみ干した。糖分が全身に染み渡り、俺はようやく溜息をついた。
本当は、素直に全てを櫻井に告白するつもりだった。頭では理解しているが、現実は上手くいかない。結局謝るだけ謝って逃げてしまった。俺は大人になった今も、弱虫で卑怯者だ。
けれど、前に進まなくてはいけない。
俺は携帯電話を取り出し、とある人物に電話をかけた。
「もしもし」
「神谷くん? どうしたの」
電話の相手は海愛ちゃん。
櫻井に復讐するため、一度は彼女を利用した。そのせいで彼女を苦しめてしまったことを謝りたい。電話をかけたものの、いざとなると言葉が出なかった。
俺は彼女に己の過去を話すかどうか、迷っていた。
「神谷くん?」
黙り込んでしまった俺を心配する海愛ちゃん。
迷っている場合ではない。俺は、前に進むんだ。彼女に、全てを打ち明けよう。
「海愛ちゃん、今まで本当にごめん。俺は、君に嘘をついていた」
「嘘?」
困惑する彼女に、俺は全てを打ち明けた。
自分の生い立ち。猫の引っ掻き傷だと偽った手首の傷の、本当の理由。
俺の告白を聞いた彼女は、声を震わせて泣いていた。
「ごめんね、本当に今まで、ツラい思いをさせて、ごめん」
謝罪の言葉を述べる俺に、彼女は言った。
「ううん。私こそ、ごめんなさい」
「え?」
謝られることなど想定していなかった俺は、首を傾げた。
「私、神谷くんのことなにも知らなかった。本当にごめんなさい」
「海愛ちゃんが謝る必要なんてないよ! 俺が君と櫻井を引き離そうとしたのは紛れもない事実なんだから」
「でも、神谷くんにも理由があったじゃない。私がなにも知らなかったから、神谷くんを傷つけた。それを謝りたいの」
「海愛ちゃん……」
彼女の言葉に胸が熱くなった。本来なら罵られ、このまま縁を切られてもおかしくないはずなのに。彼女は俺を傷つけたことを謝罪した。世の中にはこんなにも純粋で、優しい人間がいるのかと俺は驚き、感心した。
「俺はなにも怒ってないよ。むしろ感謝してる。こんな俺を……こんな俺にまで、優しくしてくれてありがとう」
彼女との会話は、過去に空いてしまった心の傷を癒していくようだった。
「私だって怒ってないよ。神谷くんは、いつも私を心配してくれた……沢山話を聞いてくれたじゃない」
俺は、この気持ちをなんと呼べばいいのだろう。温かい感情が胸に沸き上がってくる。
「ねえ、海愛ちゃん。もし、俺を許してくれるなら……今度は本当の、友達になってくれるかな」
まるで初恋のような気恥ずかしさに襲われ、俺は苦笑いを浮かべた。
「もう、友達だよ。ずっと前から」
「ありがとう」
あふれる涙を堪えることはできなかった。
「ううっ」
その時、電話越しで海愛ちゃんの苦しそうな声が聞こえた。慌てる俺。
「え、どうしたの? 大丈夫?」
「最近体調が悪くて……風邪だと思う。大丈夫だから心配しないで」
「無理しないで、ゆっくり休んで。今日はありがとう」
「うん。またね」
電話が切れた後、俺はしばらく考え込んでいた。
* * *
「……というわけで、神谷くんは君に謝ったんだよ。分かったかい? 蓮くん」
数日後、田辺先生から神谷の事情を聞いた僕は、言葉を失った。放心状態になる僕に、先生は言った。
「強くなりなさい。人を、自分を許してあげられるくらい」
「先生、僕……」
なにも言えなかった。田辺先生は僕を見つめて言った。
「君はまた、自分を責めているのかい」
「……え?」
まるで心を覗かれた気分だった。
「蓮くんは、昔からそうだ。いつも現実ではなく、違うなにかを気にしている」
「違う、なにか……ですか」
「そう。君はいつも人の心配ばかりだ」
「……」
「例えば、お母さんとか、ね」
田辺先生の言葉にハッとした。僕はいつも心のどこかで母に負い目を感じていた。
僕がいなければ、母は夫を失うこともなく、手のかかる息子を命懸けで育てる苦労をせずに済んだ。
僕は無意識に感じていた母への感情を知り、肩を落とした。己の心と対面した僕は、どうすることもできず、現実から目を逸らしていた。
「僕はどうすればいいんですか……これからも僕は母に負い目を感じながら、その感情を悟られないように生きろってことですか!」
つい、感情的になってしまった。僕は机を叩きつけた勢いで立ち上がる。その瞬間、激しい眩暈に襲われ、僕の体は田辺先生に支えられた。
「それが、君の本音なんだね」
加速する鼓動に焦りを感じながら、僕は荒い呼吸を繰り返す。
「僕は……僕は……!」
心が揺さぶられ、感情があふれ出す。
混乱する僕を、先生は優しく見守っていた。そんな優しさが、痛くてたまらなかった。
「僕は、母さんを、海愛を……神谷を……こんなに苦しめてる……生まれてこなければ良かった! もう、死にたい」
次の瞬間、休憩室に響き渡る音。僕の頬に鈍い痛みが走る。田辺先生は、僕を殴った。
「誰にも迷惑をかけず、人を苦しめずに、人間が生きていけるわけがないだろう!」
珍しく声を荒げた先生に、僕は驚く。先生は泣いていた。
「先生?」
ハッと我に返った僕は、自分の行動に青ざめる。殴られた頬を擦りながら、僕は「すみませんでした」と謝った。
「私は君を、本当の息子のように思ってきた。皆が君を愛している……君が関わった人たちは、きっと君の死を嘆くだろう」
僕は黙って先生の言葉を聞いていた。
「だから……そんな悲しいことを言うのはやめてくれ」
「すみません……すみませんでした」
僕は自分を孤独な人間だと思っていた。そう信じることで、折れそうな心を守っていた。
それが間違っていたと思い知らされ、沸き上がる感情を抑えることができなかった。
「先生……本当に、すみませんでした」
本音の中に顔を出したのは、夢の中で会った幼い頃の自分自身だった。