15話 【歩む道】2
研修医として尊敬する田辺先生の側で働けるようになったのには理由がある。僕がこの病院で研修できるようにかけ合ってくれたのは、他でもない田辺先生だった。先生は快く僕を受け入れてくれた。
自分の目の届く場所にいれば、万が一の場合に対応することができる。そう言った田辺先生。僕と先生は、一日の終わりに休憩室でお茶をのみながら話すことを日課にしていた。
話の内容は今日あったことや、僕の体調の変化など様々。この場で、僕らの関係は研修医と医者から患者と主治医に変わる。
一日が終わり、僕は今日も田辺先生との日課に興じるのだ。
* * *
仕事を終えた夕方、神谷陸は田辺先生のいる休憩室の扉をノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
姿を現した俺に田辺先生は目を細めた。
俺は先生に頭を下げ、休憩室の中に入る。
「おお、神谷くん。お疲れ」
「お疲れさまです。先生に、お聞きしたいことがあります」
「なんだい? とりあえず、座ったら?」
暗く険しい表情を浮かべる俺に田辺先生はお茶を啜りながら言う。俺は首を横に振った。
「いえ、すぐ済むのでこのままで大丈夫です」
「そうか……で、聞きたいことって?」
俺は眉間に皺を寄せ、口を開いた。
「先生は、いつもこの時間に櫻井蓮と会っていますよね。それはなぜですか?」
田辺先生は冷めたお茶が入った紙コップを机に置き、まじまじと俺の顔を見る。分厚い眼鏡の奥の瞳は動揺で揺れていた。
「君は……櫻井くんを知っているのかい?」
「一応、同じ大学の出身です」
俺の言葉に田辺先生は目を輝かせた。
「神谷くんは櫻井くんの友達なのかい! 世の中とは本当に不思議なものだね」
俺があの櫻井蓮と友達? そんな関係、こっちから願い下げだ。
「え、いや、あの……友達じゃないです」
「私は心配していたんだよ。あの子は昔から人を遠ざけてばかりだったから……でもそうか、神谷くんが友達なのか」
田辺先生に俺の言葉は届いていないようだ。今度はもっと大きな声で言った。
「先生! 確かに俺は櫻井蓮と知り合いですけど!」
「じゃあ君は、彼の病気のことも知っているのかい?」
「病気、ですか?」
なにを言われたのか、理解するのに時間がかかった。
俺の反応に田辺先生は「しまった」という顔で口を閉じた。そして諦めたようにパイプ椅子に深く腰かけた。少しの沈黙の後、田辺先生は重い口を開いた。
「私が受け持った子たちがこうして成長し、私の元に帰ってくるとは夢にも思わなかった」
「先生?」
「……これもなにかの縁かもしれないね。神谷くん、そこに座りなさい」
田辺先生は俺に向かいの席に座るように促す。先生の言葉に一瞬戸惑ったが、決心し、「はい」と小さく返事をした。
日没後、暗くなった室内の電気を点けながら窓のブラインドを下ろし、俺はようやく腰を下ろした。
田辺先生は沈黙を続けた。堪え切れず、口を開いたのは俺。
「先生、櫻井のこと……話してください」
「……神谷くん、もし君に嫌なことを思い出させてしまったら、ごめんね」
田辺先生の言葉に俺は自分の左手首を見つめ、苦笑する。一生消えない自傷痕は今も俺の胸を締めつける。成長と共に過去の記憶は薄れているが、手首と背中に残る痕が、忘れかけた記憶を呼び覚ますのだ。
俺は、人前で服を脱いだことがない。恋人相手でも、背中を見せたことはない。
忌々しい記憶に俺は奥歯を噛み締める。そんな様子を悟られないように、俺は首を縦に振った。
「大丈夫です。続けてください」
「……神谷くんがこの病院に運び込まれた時、私がした男の子の話を覚えているかい?」
田辺先生の言葉に俺は薄れた記憶を辿りながら首を傾げた。
「はい。確か……生まれながらにして短命というリスクがあった先生の患者さんですよね。それがどうかし……まさか」
俺の過去と先生の話を繋げれば、辻褄は合う。否定しようにも、現実は変えられない。
嘘だ……そんな、まさか。
カタカタと体が震え、目が泳ぐ。動揺する俺の姿を見て田辺先生は首を縦に振った。
「君たちになにがあったのかは聞かないよ。けれど、これだけは知ってほしい」
田辺先生は言った。
「あの子は、君の思っているような子ではないよ」
「……そんな」
絶望した。俺が奴に抱いていた敵意は、お門違いのものだった。初めから、間違えていたのだ。
俺は頭を抱え、項垂れた。
運命を分けた中学受験の結果発表。あいつは 櫻井は、重い運命を抱えてあの場にいた。俺は、勘違いをしていただけだったのだ。
あいつはなにも悪くない。それなのに、俺は自分の失敗を人のせいにして、責任を逃れようとした。自業自得だ。
「私は今も昔も、櫻井蓮くんの主治医だ」
先生の言葉に目の前が真っ暗になった。
「先生……俺、どうしよう……あいつにとんでもないことをした」
額に汗を浮かべ、目を泳がせる俺の姿に田辺先生はおもむろに椅子から立ち上がる。白衣のポケットをまさぐり、取り出した小銭で先生は缶珈琲を買った。温かなそれを俺に手渡し、先生は笑顔で言った。
「まずは謝ること」
「……え?」
「どんな事情があったとしても、君が罪の意識を感じているのなら、素直に謝りなさい。意地を張り続けていると、もっと後悔することになるよ」
恩師の言葉は長年凍りついていた俺の心を溶かした。己の黒い感情と初めて対峙し、本当の自分を知ろうとした。
過去の記憶を思い出す時、俺の体は拒絶反応を起こす。もう痛みを感じることのない手首は燃えるように痛み、ガラス片で皮膚を切り裂いた場所から血が滴る幻覚を見ることもあった。体の傷は癒えたが、心の傷は当時のまま大きな口を開けたままだ。
俺は震える左手首を押さえ、唇を噛み締める。先生はそんな俺の手を取り、微笑んだ。
「大丈夫。君はもう小さな子供じゃないだろう? 立派に成長して、人を救う立場になった」
俺の冷たい手に触れる田辺先生の温かい手は、俺の心まで温めてくれるようだった。
俺はもう、死に逃げ場を求めた小さな子供ではない。両親の愛に飢え、敷かれたレールの上を必死に走ることはもうやめた。
俺は、自分の意思でここにいる。先生に憧れて目指した医者という職業は、俺が自ら選んだ道。夢。田辺先生と交わした約束。
田辺先生に向けた眼差しは、輝くものに変わっていた。
「先生……俺、思い出した。先生と交わした約束……忘れてなかったよ」
「私も、忘れたことはなかった……また君と会えて嬉しいよ」
先生は俺の頭を撫でながら笑った。気恥ずかしくて、俺は先生の手を振り払った。
「先生、子供扱いはやめてください」
「今まで知り合った人は皆、私にとって家族同然なのさ。もちろん君もね」
そう言って、田辺先生は寂しそうに微笑んだ。