15話 【歩む道】1
薄暗い照明が揺れる落ち着いた雰囲気の店内。一杯目のビールをちびちびと口にしながら僕は隣に座る人物の顔色をうかがっていた。
「蓮くん」
「は、はい」
「突然こんな場所に連れてきて、申しわけないね」
「い、いえ! とんでもないです」
僕の隣に座っていたのは、海愛の父親。彼の行きつけの酒場で肩を並べながら、短い会話が続いていた。
なぜこのような状況になったのか、緊張であまり覚えていない。確かなのは、大学の帰り道、一人で歩いていたところに声をかけられた。それだけ。
僕はこれからなにを言われるのだろう。不安と緊張で喉がカラカラだ。
海愛の父親は生ビールをグビッと一気にのみ干し、深い溜息をついた。
「海愛とは……最近どうなんだい」
僕は驚き咳込んだ。
「か、変わりないですよ」
「……そうか、よかった」
うまくいっていない、とは言えなかった。
神谷と海愛の仲を知ってから、僕は海愛の目をまっすぐ見ることができなくなった。一緒にいる時間がツラい。そう思ったのは初めてのことだった。
僕は不安なのだ。海愛が僕から離れて行ってしまうのではないか。そう思うと、海愛と向き合って話すことができない。
うつむく僕を見て、海愛の父親は微笑みながら言った。
「前回は、頭ごなしに娘との関係を否定して悪かったね……あれから私も考えたんだ」
あの時とは違う、優しい顔つきに、まわり始めていた酔いが一気に醒めてしまった。
突然頭を下げた海愛の父親に、僕は目を丸くした。
「や、やめてください! 僕なんかに……頭を下げないでください」
僕はどうしようもなくなり、眉を下げた。
「蓮くん、私をお義父さんと呼んではくれないか」
「え……え!」
一瞬、なにを言われたのか理解できなかった。目の前で起きた現実が信じられない。
僕の上げた驚きの声に、視線が集まる。恥ずかしさで顔を真っ赤にする僕の肩を叩き、お義父さんは笑った。
「娘に幸せになってほしい気持ちは変わらないよ。でもね、それは娘が決めた人でなければ意味がないんだと分かった」
「……」
「君が長く生きられないことは分かっている。だからこそ、君の精一杯で最期まで娘を愛してやってくれないか」
「ありがとうございます……お義父さん」
まさか、公衆の面前で泣くとは夢にも思わなかった。
僕はなにを迷っていたのだろう。神谷の言葉に踊らされ、僕は海愛を、大切な彼女を傷つけてしまった。なにがあっても海愛を愛し、守ると誓ったのに。
「泣くんじゃない……男だろう」
「すみません……うう」
お義父さんの言葉に僕は謝りながら涙を拭いた。
しばらく涙は止まらなかった。
* * *
お義父さんと和解した後、僕は海愛と仲直りをした。神谷の件は未だ決着のつかないままだったが、今のところ目立った動きはない。
季節は移り、大学三年生の秋。久しぶりに那音から電話があった。
「もしもし那音? どうした?」
家が近いとはいえ、学校が違えば会う機会も激減する。こうして会話をしたのも何か月ぶりだろうか。
那音は「怒るなよ」と前置きをして、言った。
「あのな、オレ……大学辞める」
「え……?」
あと一年もすれば卒業だというのに、どうしてこのタイミングで大学を辞めなければいけないのだろう。
僕は首を傾げながら那音の言葉を聞いていた。
「智淮の家を手伝おうと思って。オレ、結婚しようと思うんだ」
「彼女の実家、居酒屋だっけ? でも、結婚って……彼女になにかあったのか」
智淮さんの実家は古めかしい雰囲気が人気の居酒屋を営んでいる。僕も何度かお邪魔した。
智淮さんの家を手伝わなければいけない理由が那音にできたのだろう。結婚となると、いよいよ現実味を帯びてくる。
「智淮の腹に、オレの子がいる」
「…………」
言葉を失った。予想外の返答に、僕の思考は停止した。無言の僕に、那音は慌てる。
「おい、なにか言えよ。今さら軽蔑したとか、なしだからな?」
「いや、驚いただけ……智淮さんが妊娠したって、本当なのか?」
「一緒に病院行ってきたから間違いない。四か月だって」
想像よりずっと穏やかな声色の那音に、僕は「そうか」と答え、ベッドへ倒れ込んだ。
那音の決心を僕は素直に受け入れた。あいつは頑固だから、一度決めた決心を揺るがせたりしないだろう。
「那音」
「ん?」
「今度、海愛連れてお前らに会いに行ってもいいか?」
素直に祝福しようと思う。僕らを引き合わせてくれた大切な友人たちの門出を、今度は僕らが祝福するんだ。
「おう、待ってる!」
電話を切った後の僕は満ち足りた気持ちに包まれていた。後に話を聞いた海愛は、親友の吉報をまるで自分のことのように喜んでいた。
* * *
次の日曜、僕と海愛は那音の住むアパートに顔を見せた。近所だというのに、訪れたことは一度もなかった。当然、部屋に足を踏み入れるのも初めて。
インターフォンを押して数秒後、中から髪を黒く染めた那音が顔を出した。
「よ! 二人とも、久しぶり!」
優しい笑顔を僕らに向ける那音。茶色かった髪を染め、ピアスも外している。変わった那音の容姿に僕は驚いた。
「那音……お前」
那音は照れ臭そうに笑った。
「けじめってやつかな。オレも父親になるんだ! って思ったら、しっかりしなくちゃって気持ちになって」
幸せそうな顔をしていた。緩みきった表情を浮かべる那音の髪を僕はグシャグシャに乱した。
「うわ! ちょ、蓮」
「顏が緩みっぱなし」
仏頂面の僕を見て、那音は笑った。
「だって、幸せだもん」
「うざ」
那音の後ろに続いて部屋の中に入った。扉を開けた先にはソファに座る智淮さんがいた。
ほんの少しだけふっくらしたように見える智淮さんは、僕らに気がつくと満面の笑みを浮かべた。
「海愛、蓮くん! 久しぶり!」
「久しぶり。体は大丈夫なのか?」
僕の言葉に智淮さんは「ああ」と気がつき、自分の腹を優しく撫でた。
「大丈夫だよ。逆に心配なのは那音かな」
智淮さんはケラケラと笑いながら那音を見た。台所で珈琲を淹れながら那音はギクリと肩を跳ねさせた。
「な、なんだよ……」
「那音ったら、まだ赤ちゃんが男の子か女の子かも分かんないのに女の子だって決めつけて色々買ってくるんだもん。あれは笑った」
「那音くん、そんなことしたの?」
智淮さんの話に海愛は吹き出した。
那音は赤面しながら僕と海愛に珈琲を運んでくれた。そのまま那音は智淮さんの隣に腰を下ろす。
「智淮……あんまり言うなよ、恥ずかしい」
智淮さんは気にせず笑っていた。
那音の部屋は全体的に緑でまとめられていた。
この部屋も、智淮さんの実家を手伝うようになったら引き払ってしまうらしい。
当初の僕は那音に「学校を辞めて本当に後悔しないのか」を聞こうとしていた。どうやらその心配はいらなかったようだ。幸せそうな二人の姿に僕は言葉をのみ込んだ。
「せいぜい仲良くやれよ」
珈琲を啜りながら言った僕に那音は驚いた表情を見せた。
「蓮が……普通に笑ってる」
「なんだよ」
「違和感すげーな」
「うるさい」
会えなかった学生時代を取り戻すかのように、僕らは朝まで語り合った。
その後、智淮さんは無事に元気な女の子を出産した。鈴音と名づけられた女の子は、元気に成長している。那音と智淮さんは籍を入れた後、毎日忙しそうだったが、それでも幸せそうだった。
無事に大学を卒業した僕は、その後、望んでいた田辺先生の側で研修医として働き始めた。皮肉なことに、神谷も同じ配属先と知った時は目を疑った。
僕はいつの間にか、二十二歳になっていた。




