14話【トラウマ】
俺の名前は神谷陸。医者になるため大学の医学部で日々勉強している学生だ。
俺は同じ大学に通う櫻井蓮に復讐をするため、動いている真っ最中だ。
今回はそんな俺の過去について話そうと思う。
* * *
神谷陸。十二歳。中学受験を控えた小学六年生。明日、運命の受験日を控えている。
この日のため、どんなに努力を重ねてきたことだろう。
貧しい神谷家に偶然生まれた秀才に、家族全員が期待していた。
「明日の受験がアナタの未来を決めるのよ。アナタは特別なんだから、常に一位でいなくちゃいけないの」
「うん、分かってるよ」
貧しい家族を助けるため、将来は医者になると決めていた。
小さな頃から将来を決められていた俺は、親に逆らうことを知らなかった。従うこと以外、生きる術を知らなかった。
それでも俺は両親の期待に応えようと必死に頑張った。
生活費を削り、学費を捻出してくれた両親。
見返りを求められているのは感じていた。俺の存在価値は、金稼ぎの道具なのだと本気で信じていた。それでも俺は両親のことが大好きだった。
俺なら大丈夫。敷かれたレールの上をまっすぐに歩くことができる。
迎えた合格発表の日。あの頃は珍しく合格者の名前と順位が発表されていた。のちにその手法は保護者からの苦情があり、なくなったらしい。
俺の順位は決まっている。これからも明るい道を独走するのだ。そう思っていた俺は壁に貼られた合格発表に目を向け、言葉を失った。
「……嘘、だろ」
俺は合格した。二位だった。何度確かめても結果は変わらない。地の底に突き落とされた気分だった。
俺は虚ろな目を一位の名前に向ける。そこで初めて櫻井蓮と会った。
「よかったね、蓮! 一番だって!」
背後から聞こえた歓声に、俺は驚き振り返る。そこには、無愛想な表情を浮かべた男が立っていた。
俺の視線に気がつかない奴は、言った。
「これくらいどうってことないよ、母さん」
その瞬間、俺の中でなにかが崩れた。
どうってことない? もっと喜べよ。そうでなきゃ、一生懸命に努力した「負け組」の立場がなくなるだろ。お前のせいで、俺の人生めちゃくちゃだ。
両親の期待に応えることができなかった。その先に待ち受けている現実に、俺は震えた。
偽りの愛情を注がれ育った。俺は気がついていた。両親が愛しているのは俺自身ではない。俺の「頭脳」だ。負け組に用はない。
「櫻井……蓮か」
この名前は一生忘れない。いつか必ず復讐してやる。
俺は血が滲むほど強く唇を噛み締め、発表会場を後にした。
帰宅した俺を待っていたのは厳しい現実。結果を知った母親は、変貌した。
「アナタに期待し続けたママが悪かったわ。部屋に戻りなさい。アナタみたいな負け犬の顏、見たくないのよ」
分かっていた。これが現実だ。優しかった家族はもういない。全て、張り詰められた糸の上の出来事だったのだ。これは、糸が切れた結末に過ぎない。
幼かった俺には、その現実が受け入れられなかった。
愛されていなかったとしても、今だけは慰めてほしかった。その願いは叶わず、かけられる言葉は残酷なものだった。
地獄。本当にそう思った。そんな生活が続き、心には必然のようにある願いが生まれた。
「……死にたい」
追い詰められた俺が、愛を確かめたい一心でとった行動。
俺は虚ろな瞳で近くにあったガラスの置物を叩き割り、鋭利な先端を手首に当てた。
場合によっては死んでもいい。その方が楽なのかもしれない。
様々な感情が頭の中で入り混じっていた。
幼い、薄い皮膚は、簡単に鋭利なガラス片の侵入を許した。赤黒い液体が、ポタポタと手首から滴り落ちて絨毯を赤く染めていく。貧血で眩暈を起こしながら傷口を広げた。次第に流れる血液の量が増える。
満足だった。この赤は生きている証拠だ。俺は生きている。その事実に安心し、そのまま貧血で意識を失った。
ああ、死ぬのか。これで良かったんだ。
死ねたと思った。しかし、俺は再び目を覚ましてしまった。
「……うう」
体が鉛のように重く、起き上がれない。見えるのは白い天井のみ。近くにいた看護師らしき女性がこちらに気がつき、声を上げた。
「神谷くん!目が覚めたのね! 待っててね、先生呼んでくるから!」
看護師は医師を呼びに走り去った。数分後、優しそうな医師が俺の前に現れた。
「初めまして、神谷陸くん。私は田辺と言います」
田辺と名乗った先生は、優しく微笑みながら俺の手を握った。
「出血も酷くて……もう少しで、本当に危なかったんだよ」
「……」
俺はなにも答えない。田辺先生は困ったように笑った。
「少し、先生とお話しようか……君、席を外してくれるかな」
「分かりました」
看護師を外に追い出すと、田辺先生は俺の方に向き直る。俺は田辺先生をきつく睨みつけた。
「どうして俺を助けたんですか」
「君を助けたいと思ったから、それだけだよ」
「俺はあのまま死にたかったのに」
「君にはまだ明るい未来が待ってる」
「勝手に俺の人生を決めないでください。どうせ俺は一生、負け犬なんです」
全てが鬱陶しかった。遠くで聞こえる心電図の音も、なにもかも、命を連想させるものなど消えてしまえばいいのに。
点滴を引き抜こうとする俺の手を押さえ、田辺先生は言った。
「聞いてくれ。今、先生は君と同い年の男の子の主治医をしているんだけどね」
だからどうした。俺には関係ない。
「その子は生まれた時からいつ死んでもおかしくない状態なんだ。それでも懸命に生きてる。本当はツラいだろうに」
「……」
「医者失格だと思うけれど……私は死に立ち会う瞬間が怖くて仕方ない。もう、会えないのだと思うと泣いてしまう」
顔を上げた先には悲しそうに笑う田辺先生がいた。
「先生……?」
「……痛かっただろう。ツラかっただろう」
背中を擦られ、ハッとした。着替えの際に背中の傷を見られたのだろう。消えない無数の火傷痕は虐待の証拠だった。
「負け犬」になった瞬間から、俺は両親から「制裁」を受けるようになった。泣いても喚いても終わらない。両親からの暴力に、精神はギリギリまで追い詰められていた。
全ての元凶は、あいつ。櫻井蓮に直接的な怨みはないが、そう思わずにはいられなかった。そうしなければ、心が壊れてしまいそうだったから。
思い込みは記憶に刷り込まれ、偽りだった感情は、いつしか本当の憎しみに変わった。
田辺先生は俺を見つけてくれた。先生は、俺自身を見てくれた、初めての大人。それが同情だったとしても、当時の俺には神様のような存在に思えた。
やっと俺のことを見てくれる人が現れた。その事実に感情は昂たかぶり、制御できなくなった。
「わあああああああああああああっ! う……ううっ……」
田辺先生の胸を借り、思いきり泣いた。感情のままに泣き叫ぶのは気持ちよかった。
落ち着きを取り戻した頃、俺は田辺先生に自分の置かれていた状況を話した。
「俺……医者になることを両親から強制されてたんだ。本当はそんなこと思ってなかったのに」
「そうか」
「でも決めた。俺、先生みたいな医者になるよ」
田辺先生は驚いていたが、とても嬉しそうに笑った。
「君が大きくなって私の前に戻ってくる時を楽しみに待っているよ。だから、先生と約束してくれ。自分を大切にするって」
「分かった。約束する」
俺は田辺先生と指切りを交わした。
高校卒業を機に一人暮らしを始め、大学で俺は櫻井蓮と再会した。蘇る忌まわしい過去。
お前は俺のように傷つき、挫折を経験するべきなんだ。成功だらけの人生の中で、彼女を失うことくらい、お前には安いもんだろ。
それなのに。どうしてもうまくいかない。
ああ、イライラする。




