13話 【止まらない時間】2
「海愛、もう帰るの?」
「うん。帰って課題しないと」
「そっか、大変だね。また明日ね!」
「うん! またね」
梅雨入りの少し前、友達と別れた私は大学の片隅を一人で歩いていた。両手に抱えた大量の資料が落ちないように気をつけながらレンガの道を歩く。意識は上の空。
神谷さんとの一件があってから、蓮は私と目を合わせてくれなくなった。喧嘩をしたわけではない。蓮はいつものように優しく接してくれる。優しく髪を撫で、愛してくれる。
彼の全ての行動が不安の種に変わる。私を見てくれない。それがこれほどまで寂しいものなのだと私は初めて知った。
なにかあるのなら、きちんと相談をして欲しい。隠しごとはしない、という約束はどうなっているのだろうか。
「はあ……」
私は溜息をつきながら重たい足を引きずる。
「うわ!」
強風に煽られ、授業で使う資料が一枚飛んでしまった。
我に返り、パンプスのままかけていく。ようやく芝生の上に落ちた資料を拾い上げた時、背後から声をかけられた。
「これ、落としましたよ」
「あ、すみませ……」
もしかしたら、この資料の他にも気づかず落ちてしまったものがあったのかもしれない。
振り返った先には見覚えのある顔。私の表情が一瞬のうちに曇る。
「どうも」
軽く頭を下げ、落ちてしまった資料を受け取る。相手は困ったように笑った。
「ねえ、露骨過ぎない? 俺は海愛ちゃんを探してたんだよ。あの夜のこと、謝りたくて」
私の背後に立っていたのは、神谷さん。
彼には苦い思い出がある。以前一緒に食事をした時、酷いことを言われた。
それ以来、私は神谷さんとあまり会話をしないようにしていた。
「謝りたい?」
「あの日は酔ってて、つい君を傷つけるようなことを言って……ごめん。羨ましかったんだ。……君が好きだったから」
突然の告白に、私は目を見開いて驚いた。
こんな時、なんと言葉をかければいいのだろう。返す言葉が見つからないまま、私は資料を握り締めながらうつむく。神谷さんは真剣な表情から一変、優しく微笑んだ。
「そんなに真剣に悩まなくていいよ。君と一緒にいられる櫻井が羨ましくて、この間はついあんなことをしてしまったけど、あいつと話したら気が変わったんだ」
私は首を傾げた。
「あいつは本当に君を大切に思ってるんだね。直接話してそれがよく分かったよ。だから、もう心配しないで」
「蓮に会ったんですか?」
神谷さんは私の質問に首を縦に振る。
「会った。頭も良くて、こんな可愛い彼女もいる。あいつ見てたら嫉妬してる自分がなんだかすごく馬鹿らしくなったよ」
「神谷さん……」
「だから、本当にごめんね。海愛ちゃん、これからは友人として仲良くしてくれるかな」
そっと差し出された和解の手に、私は戸惑いを露にした。神谷さんは表情を変えぬまま、私が答えを出すのをじっと待っている。
神谷さんが蓮に嫉妬する気持ちが私には少しだけ分かる気がした。
不謹慎だということは自分でも嫌というほど分かっていたが、私は当初、蓮の苦しみを心から理解できる立場にいた莎奈匯さんが羨ましくて仕方がなかった。しかし、そんな莎奈匯さんが絶対に手に入れることができないものを、私は持っている。心の奥で優越感を感じている自分が惨めで醜い人間に見えてしまい、何度も泣いた。
私は導かれるまま、神谷さんの手を取った。
「私にも、その気持ちは少しだけ分かります」
私の出した答えに、神谷さんは満面の笑みを見せた。
「よかった……あ、安心してね。俺、フラれて未練とかないから!」
必死に説明する神谷さんの姿に、私は思わず吹き出してしまった。
「本当に?」
「本当、本当! ……多分」
「なんですか、多分って」
慌てふためく神谷さんの姿が途端に幼い男の子のように見えて、私はクスリと微笑んだ。
慌てて両手を振りながら自分の発言を誤魔化す神谷さん。
そこで私は神谷さんの腕に傷痕があることに気がついた。まるで鋭い刃物で傷をつけたかのような手首の痕。触れてはいけない問題だと感じた私は咄嗟に目を逸らした。私の視線を感じた神谷さんは諦めたように言った。
「この傷が気になる? こんな場所だし、よく気を使われるんだけどね、これ、うちの猫にやられたんだ」
笑いながら説明する神谷さん。
「猫飼ってるの?」
「うん。三毛猫」
「そっか、なんかごめんね」
「いや、いいよ。今度よかったら猫、見に来て」
「うん、ありがとう」
笑顔を見せる神谷さんに私はようやく穏やかな表情を見せた。お詫びの印に、と神谷さんがくれた缶珈琲を手にしながら、私はそれからしばらく校舎の片隅で彼と話をした。
出会いこそ最悪だったが、神谷さんは話をすれば親身に相談に乗ってくれ、言いたいことも、思っていたことも私と似ていた。そんな彼に私が心を許すまで、時間は必要なかった。
お互いの悩みを打ち明ける。ただそれだけの関係だった。
* * *
数日後、僕は神谷に呼び出された。指定された場所には煙草をくわえながら携帯を操作する神谷の姿があった。
神谷は僕に気がつくと、口角を吊り上げて笑った。
「よう」
「なんの用だ」
眉間に皺を寄せ、露骨に嫌な表情を浮かべる僕に、神谷は煙草の煙を吐き出した後、微笑んだ。
「んー、途中経過の報告?」
「は?」
首を傾げる僕。その時、神谷の携帯が鳴った。
「ああ、ちょうどいいや。櫻井、今メールが来た相手は誰だと思う?」
「相手が誰かなんて、僕が知るかよ」
意図が掴めないまま首を傾げると、神谷は勝ち誇ったように言った。
「それが海愛ちゃんだって言ったら?」
神谷の言葉に、僕は凍りつく。
「え?」
体が強張る。どっと冷や汗が背中を伝う。
「海愛だって? おい、笑えない冗談はやめろよ、神谷」
動揺する心を見せまいと平静を装いながら僕は神谷を睨みつける。
「これ、海愛ちゃんのアドレスだろ」
携帯画面に記されていたのは紛れもなく海愛のアドレスだった。状況が理解できない僕に対し、神谷は続けた。
「俺、海愛ちゃんと連絡取り合ってるんだ。彼女、寂しがってたぜ? 蓮が私を見てくれないって」
「お前……」
僕は衝動のまま神谷に掴みかかる。
僕の行動に神谷は笑い、口にしていた煙草の火を足で踏みにじり消した。
「おっと、彼女を責めないでやってくれよ?」
「お前には関係ないだろ」
「櫻井……どうしてこうなったのか、自分で分かってる?」
首を傾げる僕に神谷は呆れたように言った。
「言ったろ。お前は海愛ちゃんを縛りつけてるだけだって。本当に信頼し合ってるなら、どうしてお前でなく俺なんかに相談してくるんだよ」
返す言葉が見つからない。
海愛が神谷を頼ったのは紛れもない事実だ。
その原因は僕にある。だからこそ、僕は海愛を責めることも、神谷に強く反論することもできなかった。
神谷は僕に掴まれた腕を振り払う。
「正直、俺はお前の彼女なんてどうでもいいんだよ」
「は?」
「この際だから言っておく。俺の目的はお前だよ、櫻井蓮」
「なにを……言って」
「お前は俺の存在なんて知らないだろうな。ムカつく」
神谷は苛立ちを露にする。動揺する僕の姿を見ると、その表情は一変した。口角を吊り上げ、歪んだ笑顔を見せる。
「お前の澄ました顔が歪む瞬間が見たいんだ。完璧な人間が崩れる姿は最高に笑えるからな」
「なにをするつもりだ」
「俺はなんでも利用するぜ? お前に復讐するためなら、どんなことだってする」
神谷と今まで面識はなく、どんな経緯で怨みを持たれたのか分からない。
手段は選ばないという神谷に、僕は恐怖を感じた。
「手始めとして、お前の大切な人を奪ってやろうと思って。覚悟しろ」
そう言い残し、神谷は去った。
僕は放心状態になり、倒れ込むように近くのベンチに腰を下ろした。
海愛を信じている。それなのに、少なからず疑う自分がいた。
海愛が神谷を選んでしまったら、僕はどうするのだろう。生きる希望を失った僕は、また昔のように自暴自棄になってしまうのだろうか。
人の気持ちはある日突然変わってしまう。
僕は去っていく海愛を繋ぎ止める手段を知らない。
次々にあふれ出す最悪の結末を想像し、僕は両手で顔を覆い、大きな溜息をついた。