13話 【止まらない時間】1
僕は講義に出席するために大学を訪れた。沢山の生徒が行き来する門を潜ったところで僕はとある人物に声をかけられた。
「やあ! 櫻井蓮だよな? 医学部の秀才くんは、オーラが違いますねえ」
細身の体型で笑う青年。その顔は嫌でも覚えている。
「神谷陸」
「名前を覚えてくれていたなんて、光栄だな」
神谷は笑顔を振りまきながら僕の姿をジロリと見る。鋭い視線に違和感を覚え、あとずさる。
神谷は言った。
「今日はお前に宣戦布告をしようと思って」
「は?」
神谷の言葉に僕は首を傾げる。
門を潜ってすぐのところにある掲示板の片隅で、僕と神谷は対峙していた。授業が迫った生徒たちは単位を落とすまいと足早に過ぎ去っていく。同様に時間を気にする僕の姿に神谷は溜息をついた。
「海愛ちゃん、俺がもらうから」
「ふざけるな!」
神谷の言葉に僕は思わず大きな声を発する。一斉に僕へ視線が集まる。
宣戦布告だって? 今度は海愛になにをしようとしているんだ?
得体の知れない相手に、僕は恐怖を覚えた。
直接会って話したのは今日が初めてだが、初対面の人間にこんなに嫌悪感を抱いたことはない。見下したような顔が嫌悪感を倍増させる。
集まってしまった学生たちの視線を気にしながら、神谷は言った。
「まあ、ここは人目がある。俺もお前と同じ医学部だし、今日の講義は一緒だろ? 続きは授業が終わってからにしよう」
「ちょ、待てよ!」
神谷は僕の呼びかけに振り返ることもせず、まっすぐ背を向け歩き出す。神谷が人混みに紛れ見えなくなると、僕の体に倦怠感が重くのしかかる。
嵐の前の静けさか、すがすがしい青空が広がっていた。
* * *
「肺の……は……血管の……」
教授の話が耳に入らず、僕は苛立ちを隠すようにペンをくるくる回す。
今回の講義の内容は教科書を見ればだいたい理解できた。
僕は先ほどの神谷陸とのやりとりを思い出し、溜息をついた。
あんなやつに海愛を奪われてたまるか。
「どうしよう」
今まで海愛を誰かに奪われてしまうなんて考えたこともなかった。
海愛には僕がいる。海愛が他の男を選ぶことなどありえない。
そんな甘い考えで過ごしてきた日々が、ある日突然大きく変わる。
不安定な心のまま、僕は机に突っ伏してしまった。
* * *
講義終了後、僕は窓際に座っていた神谷に声をかけられた。話の続きがしたい、という神谷に連れられてやってきたのは資料室近くにある自動販売機の裏だった。神谷は備えつけのベンチに腰を下ろし、言った。
「さて、じゃあ今朝の続きをしよう。宣言したように、俺はお前から海愛ちゃんを奪う」
口角を上げ、神谷は余裕の笑みを見せる。僕は心の中の黒い靄を抱えたまま、なにも言えない。
そんな僕に神谷は眉を下げ、「やれやれ」と口を開いた。
「お前の口からしっかりと聞きたくてさ。お前は彼女とつき合って何年になる?」
神谷の質問に僕は一文字に結んでいた口を開いた。
海愛と出会ったのは全てを諦めていた高校三年生の初夏。それからあっという間に月日は経ち、僕は今年で大学三年生。二十一歳の誕生日を迎えようとしていた。
「今年で四年になる」
二度目の余命宣告を潜り抜け、僕は懸命に生きていた。
「じゃあ聞くけど、お前は海愛ちゃんのこと、しっかり見てるか?」
神谷の言葉に僕は首を傾げた。質問の意図が分からない。海愛のことなら今までずっと一途に見つめてきた。分からないことなどあるはずがない。
「見てるよ」
「本当に?」
神谷は乱れた前髪を掻き分けながら笑う。
僕はベンチに座る神谷を見下ろしながら、眉間に皺を寄せた。
「なにが言いたい?」
声に苛立った感情がそのまま出る。僕の視線に気がついた神谷は、わざとらしく大きな声を上げて笑った。
「いや、別に。ただ、なにも分かってないんだなって思っただけ」
「は?」
「お前、海愛ちゃんとマジな喧嘩したことある?」
神谷の質問に僕は答えることができなかった。
ない。
それが答えだ。
神谷は勝ち誇ったような笑顔を浮かべていた。
「ないんだな」
「そ、それは! 「仲良しカップルだから? 相思相愛だから喧嘩なんてありえない?」
心を見透かされたような感覚に、僕は言葉を失った。
海愛は僕を愛してくれている。小さな体で、懸命に支えてくれる。その気持ちに見合うように、僕も海愛に精一杯の愛情を注いでいる。だからきっと、この先なにがあっても大丈夫だ。そう思っていた。
神谷は立ち尽くす僕を見つめ、ベンチから立ち上がり、僕との間合いを詰める。
「お前、自分が彼女を愛してるから、当然彼女も自分を愛してるだろう、とか思ってる?」
心を読まれる、という感覚は、あまり気持ちのいいものではない。
「それは彼女がそうなるように、そうならなければいけないようにお前がしてただけだ」
「違う」
なにを言っているんだ。海愛は今でも変わらず僕を愛してる。それなのに、お前はなにを言っているんだ。
動揺する僕に神谷は鋭い視線を向ける。
「違う? 違わない。お前は、海愛ちゃんを自分に縛りつけているだけだ」
神谷の言葉に僕は言葉を失う。心の中が黒いなにかで埋め尽くされていく。
返す言葉が見つからない。今まで逃げてきた現実が急に目の前に立ち塞がり、目の前が真っ暗になった。
海愛を愛している。それは僕個人の感情に過ぎず、本当の気持ちは海愛自身にしか分からない。健康で器量もよく、明るくおしとやかな海愛に憧れを抱く男は沢山いた。不安がなかったと言えばそれは真っ赤な嘘だ。僕は海愛に支えられ、これまでの人生を歩んできた。真っ暗だった一本道を照らす太陽に出会い、道を違えず歩いて来ることができた。海愛は僕にとって、なにものにも代えがたい心の支えだった。
絶対に手放したくない。
思えば、短命という課せられたリスクを利用していたのかもしれない。弱った、助けを求める人間を海愛は見捨てることができないから。
そんな海愛の弱みにつけこんで、彼女が離れていかないように振る舞っていた。人の温かさを知ってしまった僕は、もう孤独だった頃の自分に戻ることはできない。
神谷の言っていることに間違いはない。だからなにも言えなかった。
「まあ、せいぜい足掻けばいい。今日はそれを伝えに来ただけだから」
「……」
「あ、ほら。ちょうど彼女が迎えに来たみたいだぜ?じゃ、またな」
神谷は遠くから走ってくる海愛を指差し、僕の肩を叩くと、そのまま去って行った。神谷の姿が学生たちの中に溶け込んだ後、息を切らした海愛がかけ寄ってきた。
「蓮! ここにいたのね! ……はあ、疲れた。探したんだよ?」
「ああ、悪いな」
海愛の目をまともに見れない。うつむいたままの僕に気づき、海愛は不思議そうに首を傾げた。
「蓮、どうしたの? 顔色悪いよ?」
心配そうに顔を覗き込みながら海愛はそっと僕の額に触れた。僕は唇を噛み締めながら、精一杯の笑顔を作り、海愛の手を取り優しく声をかける。
「大丈夫。少し眩暈がしただけだから。帰ろうか」
差し伸べられた手を海愛は恐る恐る取った。
「本当に、大丈夫?」
顔色の悪い僕を心配そうに見つめる海愛。
またこうして弱みにつけ入る悪い僕。
そんな醜い感情を隠しながら、僕は海愛に優しく言った。
「大丈夫。本当にたいしたことないから」
そう言ったものの、僕の心は冷たく落ち込んでいた。これでは神谷の思うツボだ。頭では分かっているのに、彼に見透かされた心が鉛のように重くのしかかり、僕は海愛と顔を合わせることができないままでいた。