11話 【新たな決意】2
ピンポーン。
「はい、どちら様でしょうか」
「櫻井です」
「ああ、蓮くんね! ちょっと待って今開けるから」
「すみません」
僕は海愛の家を訪問していた。片手に手土産を持ち、おろしたての白い角襟シャツを着て、僕は庭に停めてあった見慣れぬ車に目を向ける。以前に海愛から聞いた黒のワンボックスカーの所有者を思い出し、僕はこれから予想される状況を思い浮かべる。
そもそもどうしてこんなことになったのか、ことの始まりは、海愛の高校の卒業式の日に起きた。
その夜、風呂から上がったばかりの僕に海愛から一本の電話がかかってきた。髪から滴る水滴をバスタオルで拭き取りながら、僕は着信に出る。聞こえたのは暗い海愛の声だった。話が長引くことを想像し、僕はそのままベッドに腰を下ろす。
「蓮、本当にごめんなさい」
第一声で謝罪の言葉を述べられ、僕はますます状況が理解できなくなってしまった。
「どうしたんだよ」
優しく声をかける。海愛は電話越しに震える声で言った。
「私がいけなかったの……お母さんと、お姉ちゃんに私が言わなければ……」
僕は首を傾げながら海愛の言葉をじっと聞いていた。
「だから、どうしたんだよ?」
「お母さんとお姉ちゃんが蓮のこと、お父さんに話しちゃったの……」
「え?」
「私が……前にお母さんとお姉ちゃんに相談しちゃったから」
海愛の言葉に目の前が真っ暗になった。
驚いた、というのが正直な感想で、絶望しなかったと言えば嘘になる。本来なら海愛と一生を共にすると決めた時点で解決しなければいけない問題だったのだ。これは僕の怠惰が招いた結果だ。非は僕にある。
僕には海愛を責めるだけの理由が見つからなかった。
「海愛が謝ることじゃないだろ?お前はなにも悪くない」
僕は落ち込んでいる海愛に優しく声をかけ、落ち着くのを待った。
「うん……お父さんがね、蓮を一度家に連れて来いって言ってるの」
「いつかは言わなくちゃいけないことだったんだし、海愛の家族に説明しなかった僕が悪い。この機会に一度ちゃんと海愛の家族に挨拶に行くよ」
海愛が生まれ、今まで歩んできた人生も、経験も、僕はそのすべてを受け入れようと決めていた。
「だからもう、そんなに自分を責めるな」
海愛を非難しようなど微塵も考えていなかった。当然のことだろうと思う。愛する人が近い将来必ず死んでしまうという事実を一人で抱え込んで生きていけるほど、海愛は強くない。人は誰でも抱えた苦しみを分かち合い、共感してくれる誰かを探しているものだ。
海愛の行動は人間として、当たり前のことなのだ。
それから数日後、僕は海愛の父親に会うため、訪問する日程を決めた。そんな経緯もあり、僕の緊張は限界に達していた。
物思いに耽っていると、玄関の扉が開き、中から雨姫さんが顔を覗かせた。
「雨姫……さん?」
随分と印象が変わった雨姫さんの姿に目を丸くした。腰まであった髪は肩の位置まで切り揃えられている。
「いらっしゃい」
「あ、あの、これよかったら……」
手土産を渡すと、雨姫さんは申しわけなさそうに頭を下げた。
「わざわざごめんなさいね」
「いえ」
「とりあえず、あがってよ」
「お邪魔します」
雨姫さんに招き入れられ、僕は玄関に足を踏み入れる。扉を閉めるなり、雨姫さんは僕の方へ振り返り、顔の前で両手を合わせた。
「今回のこと、本当にごめんなさい!いいわけにしかならないけど、あの日は酔ってて、ついお父さんにあんなこと言っちゃって」
「や、やめてください! 謝るのは僕の方です。雨姫さんとの約束も、結局守れないかもしれない」
「それは私が蓮くんのこと知らなかったからよ。気にしないで。今も変わらず妹の大切な人として認めてるわ」
雨姫さんに関係を否定されてしまうと思っていた僕は、その言葉に救われた。
「ありがとう……ございます」
認められたことが嬉しかった。
「お父さん、リビングで待ってるから」
「はい」
僕は深呼吸をし、リビングへ足を踏み入れた。
* * *
リビングの扉を開けた途端、鋭い視線に捕まり、その場で動けなくなった。海愛の父親は古典的な日本男児という印象で、ソファの真ん中に腰を下ろし、腕組みをして僕を見つめていた。背を冷たい汗が伝う。
「君が櫻井蓮くん、か」
「はい」
低い声で名前を聞かれ、僕は条件反射で答える。
「まぁ、とりあえず座りなさい」
海愛の父親に言われるまま、僕は向かいのソファに腰を下ろす。同時に海愛もその場に呼ばれ、台所では海愛の母親がお茶を淹れていた。
沈黙が続き、緑茶が運ばれてきたところで僕は勢い良く頭を下げた。
「すみませんでした」
「顏を上げなさい」
僕は深く頭を下げたまま謝罪を続けた。海愛は僕の隣で心配そうに見つめている。
「僕自身のことで、娘さんにはとてもツラい思いをさせてしまいました」
海愛の父親は深い溜息をつき、ソファの背に全体重を乗せる。些細な行動に、僕はビクリと体を震わせた。冷め始めた緑茶を啜り、海愛の父親は言った。
「私は君が憎くて言うんじゃない。君がこうしてきちんと挨拶に来る誠実な男だということは分かったし、娘を選んでくれたことは親として嬉しく思う。ただ、ね」
海愛の父親は腕を組み直し、再び険しい表情を見せる。僕は動かず、その場で生唾をのみ込んだ。
「私も人の親だからね。娘には普通の家庭を持って、幸せな生活を送ってもらいたいんだよ」
グサリ、となにかが深く突き刺さり、肺から空気が抜けていくような感覚。発作などではなく、確かに僕の体に起こった衝撃。海愛の父親の言葉は、予想以上に僕の心に大きなダメージを与えた。
それは、僕がずっと望んでいた「幸せの形」そのものだったから。
「すみません」
変えようのない事実を前に、謝罪の言葉を述べることしかできなかった。
改めて自分の無力さを思い知らされ、僕はそのまま頭を垂れる。
僕らのやりとりをずっと見ていた海愛は、突然、机を勢い良く叩いた。
大きな音と共に緑茶が数滴跳ね、僕と海愛の家族は反射でビクリと肩が跳ねた。
驚いて音のした方に視線を向けると、そこには鋭い視線を父親に向ける海愛の姿があった。
「お父さん、そんなこと私がよく分かってる。普通の幸せってなんなの? 健康で誠実な人と結婚して、長生きして死んでいくことが、本当の幸せなの?」
低く、唸るような怒声。海愛のそんな一面を見るのは初めてだった。
「どうしてお父さんが私の幸せを勝手に決めるの? 私は自分の幸せを、自分で見つけたの」
「お前はまだ若い。一時の情熱でこれからの人生を決めるなんて、青い証拠だろう。私はお前が大切だからこそ、お前のためを思って言ってるんだ」
僕はなんの反論もできなかった。
海愛の父親の言葉は間違っていない。親が子を思うが故の心理だろう。
海愛は実の父親に一歩も引かず、自分の思いをぶつけていた。
「私は、彼のために人生を棒に振るなら、それでもいい。今ここで彼と別れたら、私はこの先の人生を一生後悔するわ……愛してるの」
海愛の言葉に、僕は思わず泣きそうになってしまった。
「私、この人と一緒になる。いつか、絶対に」
海愛は自分に言い聞かせるように、語尾を強調し、強い眼差しで父親を見つめた。
僕は海愛の言葉に励まされ、深々と頭を下げた。
「体のことを隠していたのは謝ります。この先、長くは生きられないのも事実です。それでも僕は、生き延びてみせます。ずっとずっと生きて……海愛さんを幸せにします」
不可能に近い、口だけの言葉。それでも僕は、自分自身に誓いを立てた。信じなければ、弱い心は今にも崩れ去ってしまいそうだったから。
海愛の父親はしばらく黙り込み、溜息をつきながら立ち上がった。そのまま僕の横に立ち、とどめとばかりに言い放った。
「私はなにを言われようと娘が大切なんだよ。幼い頃から体が弱かった子だからなおさらね。今この場で、はいそうですか、と簡単に言うことはできない」
「お父さん!」
娘の声にも反応せず、父親はそのままリビングを去って行った。結局、認めてもらうことはできなかった。
重い空気が漂う空間で、最初に言葉を発したのは海愛だった。
「蓮、本当にごめんね」
僕は優しく微笑みながら首を横に振った。
「僕こそ、ごめんな。でも、諦めないから」
僕は自分に強く誓い、唇を噛み締めた。
その後、海愛の母親と雨姫さんと話し合った僕は、その場で謝罪の言葉を述べた。二人は怒ることも、否定することもせず、ただ優しく微笑みながら首を縦に振ってくれた。
それから僕と海愛の父親が言葉を交わすことはなく、なにも解決しないまま時間だけが過ぎていった。




