1話 【終わり亡き言葉】 2
* * *
「ただいま」
「おかえり。早いわね? もしかしてまた……」
「軽度の発作で治まったから大丈夫。心配しなくてもいいよ」
「ちゃんと連絡しなさいって言ってるでしょう!」
「……ごめん」
玄関の扉を開けると、母が立っていた。
「心配させないでよ」
母の目が赤く充血しているのを僕は見逃さなかった。心なしか鼻声だ。さっきまで泣いていたのだろうか。
そう考えると胸が痛くなり、僕はそっと傷ついた拳を後ろ手に隠した。
「腹へった」
「晩ご飯まで待ってなさい」
「少し寝るから夕飯の時間に起こして」
「分かった」
僕は傷ついた拳を隠しながら自室へと向かい、手当てされた箇所が目立たないように絆創膏を貼り直した。
* * *
夕飯の最中、僕はおもむろに箸を置いた。
カタンという食器の擦れる音に、母は僕の方に顔を向けた。目の充血が酷くなった気がする。
「……泣いたの?」
「な、泣いてないよ」
「目、腫れてる」
僕の指摘に母は慌てて目を隠した。それが事実を肯定する行動となった。
「泣いたんだろ」
「ごめんね、もう泣かないから」
眉を下げた母の笑顔に、僕は思わず目を逸らしてしまった。
謝られる理由が見つからない。謝るべきなのは母を不幸にさせてしまっている僕のはずなのに。
精神的な苦しさで息が詰まる。呼吸をすることさえ苦しく感じられた。
「そういえば母さん、僕、今回のテストで学年一位だったよ」
「そう、すごいね。頑張ったんだね」
「うん」
テスト学年一位。こんなものが慰めにもならないことは十分承知している。
それでも、母が安心してくれるのならなんでもよかった。
「ごちそうさま」
食事を済ませると、汚れた食器を水に浸ける。そのまま自室に戻ろうとすると、母に声をかけられた。
「部屋に戻るの?」
「明日の予習がまだだから」
「あんまり無理しちゃダメよ?」
心配そうな表情を浮かべる母に苦笑しながら、僕は首を縦に振った。
翌日、いつも通り登校すると僕を心配そうに見つめる那音と目が合った。
「おはよう」
声をかけると、嬉しそうに「おはよう!」と返ってきた。
「昨日、大丈夫だったか?」
「なにが?」
「具合悪そうだっただろ?」
那音の言葉に僕は昨日のことを思い出し、彼に最高のつくり笑いを向けた。
「大丈夫だ」
鈴葉さんの前ではどうしても成功しなかったつくり笑いが今の僕には簡単にできていた。
那音はなんの疑いも持たず、僕の笑顔に安心しているようだった。僕の体調が万全ということを知り、那音は思い立ったように口を開いた。
「あのさ、今週の日曜……一緒に図書館行かないか? というか行ってくれ、頼む」
「はぁ?」
那音の提案に、僕は首を傾げた。彼の口から図書館などという単語が出たことが衝撃的だったのだ。
「どうして図書館なんだ?」
「オレ、他校の彼女がいるんだけどさ、彼女に蓮のこと話したら、友達連れてくるから蓮を連れてこいって言われて……」
「で、その子に会えと?」
呆れが隠せない。
「図書館なら、勉強のついでにいいかなって」
一時間目の授業の準備をしながら、僕は聞き流すように那音の話に相槌を打っていた。
「勉強に女の子は必要ないだろ」
「そんなこと言うなって! な? 今回だけ! 頼むよ」
このまま那音との友好な関係を続けるためには会っておくべきなのだろうが、それは僕が普通の男子高校生だった場合だ。余命僅かの僕にとって、無駄な人脈はあまり好ましいものではなかった。
しばらく返答に悩み、僕は仕方なく首を縦に振ることにした。
「今回だけだからな」
僕の返答に那音は満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう! マジ助かる! じゃあ今週の日曜、お前ん家に迎えに行くからな!」
那音は僕の親友という立場らしい。何度否定しても、突き放しても戻ってくる。そんな那音の性格に僕が折れて友達になることを承諾した。
僕の周りには、那音の他にも友達と呼べる人間が数人いた。適当に仲良くしている。広く、浅く、あまり深い関係を結ばないように。そうして一定の距離を常に保ちながら、高校生活を送っていた。
僕の返事に気を良くした那音は、携帯電話でどこかに電話をかけながらその場を後にした。
僕はいつものようにクラスメイトに自分の宿題を見せていた。
これも、高校生活を円滑にするための術。高飛車な態度はダメ。協調性が必要。その他例を挙げればキリがないが、問題ごとが嫌いな僕にとってはとても大切なことだった。
クラスメイトに目線を向けることで、僕は日曜の那音との約束を忘れようとしていた。
* * *
日曜。まだ七時を過ぎたばかりの頃、家のインターフォンが鳴った。
ビクリと反射的に起き上れば、聞き慣れた声がした。母は朝番の仕事のため、この時間にはもういない。
玄関の扉を開けると、予想通りの人物がニコニコしながら立っていた。
「今何時だと思ってる……那音」
「いやー、なんか待ち遠しくってさ! 話したいこともあるし。悪い、寝起きだった?」
よれたTシャツにジャージ姿の僕に、那音は苦笑いを浮かべた。
「当たり前だろ、まだ七時だぞ」
「ごめんって!」
「うるさい。近所迷惑」
「ひでーなぁ」
ケラケラと笑う那音の姿に思わず溜息が出た。
「……上がれば?」
「お邪魔しまーす!」
僕の合意を得た途端、那音の顏に再び満面の笑みが戻った。
考えてみれば、友人を家に招き入れるのは初めてだ。そう考えると案外那音の言う親友らしいことをしてしまっているのかもしれない。
ガチャリと玄関に鍵をかけ、そのまま自室に那音を招き入れる。お互い一段落した頃、時計の針は七時三十分を示していた。
「で、話ってなに?」
僕の言葉に那音はのんでいたジュースを静かに置き、急に正座をした。
突然の那音の所作に僕は首を傾げる。ストローを甘噛みしながら僕は那音に視線を向けた。
「蓮」
「んー?」
「彼女、つくる気ないか」
「え……は?」
突拍子のない言葉に無防備だった僕は思わずのんでいたジュースを吹き出しそうになった。噎せながら聞き間違いかと那音に再度確認するが、返ってきた言葉に落胆した。
「今日会う女の子さ、すげー可愛いんだぜ? オレも写真でしか見たことないんだけど、写真であれはヤバい」
「ふーん」
「興味ないのかよ」
興味ない。他人と深い人間関係は好まない。まして、彼女なんてもってのほかだ。
浮かれている那音。これが正常な男子高校生の反応なのだとしたら、僕は異常なのだろう。
「あの長い栗色の髪に大きな瞳! しかも同学年とか本当、なんで彼氏がいないのか逆に不思議っつーか」
「那音、お前彼女いるだろ。いいのかよ。そんなに他の子のことばっかりで」
「男は可愛い女の子には夢を見るもんなんだよ!」
途端に正座を崩し、胡坐をかきながら那音はフンッと鼻を鳴らした。
「それ、彼女に言ってやろうか」
その言葉に那音は急に顔色を変えた。
「ちょ、やめてマジで! つーかさぁ、お前もマジでもったいねーよなぁ」
向けられた那音の視線に僕は無意識に体を反らせる。凝視されるのは、あまりいい気分ではない。
「なにが?」
「男目線で見ても、お前は絶対モテるはずなんだよ。なのに女子と話しているところ見たことないし……お前もしかして童「興味ない」
反射的に那音の言葉を遮りながら、僕は溜息をつく。
もうすぐ死ぬ人間になにを言っているのだろうか。未練なんてものはない。面倒。ただ、全てのことにやる気がない。
「那音、今日は勉強しに行くつもりなんだろう? なんで手になにも持っていないんだ?」
那音は指でピースサインをつくって言った。
「オレに任せとけって!」
「任せられない。意味が分からない」
「酷い!」
他愛のない会話を続けながらも、確実に時計の針は時間を刻んでいく。再び時計に視線を向けた時、針は約束の時刻を示していた。
「あ、もうこんな時間か!」
「そろそろ出た方がいいんじゃないか」
立ち上がりながら一度大きく背伸びをする僕。パキパキと背骨を鳴らしながら着替えを済ませる。
「本当になにも持ってないんだな……」
「おう!」
「お前、なにしに行くんだよ」
「え? 親友として蓮の脱、童「それ以上言ったら親友やめるからな」
那音を睨みながら、僕は教科書の準備を始める。
準備が整ったところで那音に視線を向けると、目が合った。
「なんだよ」
「べっつにー? やっぱムカつくくらいイケメンだなーって思って!」
「気持ち悪いこと言うな。置いてくぞ」
「あっ! 待てよ!」
こんなに一人の人間と深く関わりを持ったのは初めてだ。
次回は夜の更新です。