10話 【不確かな未来】1
『最期まで、蓮くんの隣にいさせてほしい』
海愛の告白。寂しさに押し潰されそうだった僕は、目の前に差し出された一筋の光に手を伸ばした。
それは不確かな未来。
海愛は僕が死んだ後、どうなってしまうのだろう。たった一人、この世に残された君は、まっすぐに新しい人生を歩めるだろうか。
僕は、海愛と今後について話し合うことにした。
「海愛、話があるんだ」
「なに?」
海愛は真剣な顏の僕に首を傾げた。
「僕たちの将来のこと、一度ちゃんと話そう」
現実からは逃げられない。とっくに気がついていたはずなのに。日に日に増える薬。発作。残された時間は確実に少なくなっている。
今まで現実から目を背け続けてきた。でも、ようやく気がついたんだ。海愛を守ると決めたのだから、自分と向き合い、海愛と向き合わなければいけないことに。
「うん」
僕の真剣な表情に、海愛は首を縦に振った。
* * *
放課後、僕の部屋で話し合いは決行された。
「まず、僕から」
「うん」
海愛はのみかけのジュースを机に置き、僕の顔を見る。
「最近、薬の量が増えた」
僕は処方されている薬の袋を逆さにし、中身をぶちまける。
「こんなに……」
「分かってたつもりだったけどさ」
言葉に詰まり、咳き込む。それでも必死に拳を握りながら声を絞り出す。
「僕はもう長くない」
海愛はうつむいてしまった。小さく嗚咽が聞こえる。泣かせてしまった。覚悟はしていたが、いざ涙を見るのはやはりツラい。
「ごめんね、蓮……泣いちゃダメだって、分かってるのに」
健気に現実と対峙する海愛の肩を抱き締めることしか、今の僕にはできなかった。
「蓮は、怖くないの?」
「怖い?」
海愛の言葉に首を傾げた。海愛は僕の服の裾に縋りつく。
「私、怖いの。莎奈匯さんのことがあったでしょう?」
「怖くないさ」
僕は断言した。海愛は肩を震わせながら反論する。
「怖いなら、ちゃんと言ってよ」
「え?」
「怖いんでしょう?」
「海愛……?」
「死にたくないって言ってよ!」
「海愛、落ち着けよ。どうしたんだよ」
「本当は泣き崩れたいんでしょ!」
海愛の言葉に僕は驚く。彼女の言葉には聞き覚えがあった。
あの時の夢?
時間が経過すると共に曖昧だった夢に色がついていっているような気がした。
「海愛、ごめんな。僕のせいでこんなに悩んでくれたんだよな。ツラい思いさせてごめん」
僕は錯乱する海愛を抱き締めながら優しく言葉をかける。興奮状態だった海愛は次第に落ち着きを取り戻していった。
「本当はね、怖くて仕方がないのは私の方」
「うん」
「覚悟はしてる。これは自分で選んだ人生だから。けど……私の心が弱いから、覚悟が揺らぐの。ごめんね、蓮」
言い終えると同時に海愛は両手で顔を覆ってしまった。
「泣いていい。ツラいなら、これからは僕が受け止めるから。だから、大丈夫」
優しく声をかけると海愛は大粒の涙を流した。
「私、悲しいよ……蓮がいない未来なんて信じたくないよ」
海愛は僕の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。絞り出すような海愛の叫びが、僕の涙腺を刺激する。
「大丈夫……大丈夫」
僕は海愛を抱き締めながら、彼女の背中を優しく撫でた。
これが運命だというのか。
* * *
「私ね、将来は人を救う仕事がしたいの」
落ち着きを取り戻した海愛は穏やかな声色で言った。
僕は海愛と初めて会った日のことを思い出していた。海愛は道の端で怪我をした僕を手当てしてくれた。そうして全てが始まった。
「人を救う仕事?」
「うん。少しでも、苦しむ人の力になりたいの」
海愛は夢を語りながら微笑んだ。
「そっか。いい夢だな」
「私、頑張るからね。一人になっても……頑張るから」
その言葉は、海愛が自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
「ごめんな、海愛」
僕はそっと海愛の頬に触れる。大切な存在に触れる手は、指先にまで緊張が伝わる。僕の暖かな手の温度に、海愛は目を細めた。
「寂しいけど、頑張るよ」
僕は海愛の寂しそうな笑顔を見つめ、再び「ごめん」と呟いた。謝るばかりの僕に、海愛は優しい声で言った。
「大丈夫、大丈夫よ」
僕にとってそれは自分を誤魔化すための言葉だった。それが海愛のおかげで癒しの言葉となり、心へ染み渡った。
* * *
海愛と出会ったあの日から、僕の人生は大きく変わった。幸せを感じるたび、欲張りになっていく心。自分勝手な思考が海愛を追い詰める。苦しめるくらいなら、と何度も海愛の手を離そうとした弱虫な僕。海愛は何度も手を繋ぎ直してくれた。
「ねぇ、蓮」
「ん?」
名前を呼ばれ、僕は声の方に振り返る。
そこには真剣な表情の海愛がいた。
「私と約束してくれる?」
「もちろん」
僕は即答した。
海愛は僕の服の袖を掴み、深呼吸をする。
「まずは、なんでも話し合おう」
「うん」
「あとはね」
海愛は言った。
「最期は、笑ってサヨナラしよう」
海愛の言葉に僕は驚いた。そしてすぐに首を大きく縦に振った。
「約束するよ」
海愛が望むなら、僕はなんだってする。
「簡単には、くたばらないけどな」
僕はそう言って笑った。海愛も笑顔を浮かべ、僕の傍らに寄り添った。
「全部、嘘だったらよかったのに」
「……そうだな」
笑えない言葉だった。全てが嘘なら、どんなに良かっただろう。
「蓮、好きだよ」
「知ってる」
僕らに永遠という言葉はない。
* * *
夢を見た。現れた海愛は僕に優しく笑いかける。
「蓮、大好きよ」
「なんだよ、急に」
抱き寄せようと僕は海愛に手を伸ばす。しかし、伸ばした両手は虚しく空を掻いた。
「え?」
海愛は確かに僕の目に映っている。それなのに、触れることができない。
「蓮、こっちよ。ほら」
僕は離れていく海愛の後ろ姿を必死に追った。ようやく捕まえたと思ったが、結果は何度試しても同じだった。
「海愛……どうして、どうしてなんだ」
不安と焦りばかりが募っていく。
海愛の姿が完全に消える。同時に僕は悪夢から覚醒した。目覚めと同時に空を掻く僕の両腕。見慣れた天井が目に入り、ここが自分の部屋なのだと知った。
徐々に覚醒していく頭が、僕を心配そうに見つめる海愛の姿を捉えた。
「え?」
状況がのみ込めないまま、僕はゆっくり体を起こした。
「どうして海愛がここにいるんだ?」
呆然とする僕を見て海愛は笑った。
「もー覚えてないの? ベッドに横になったまま眠っちゃったんだよ?」
「え?」
「覚えてない、か」
呆れたように笑う海愛の横で僕は頭を抱える。必死に記憶を辿るが、どうしても思い出せない。
ひとつだけ確かなことがある。ここは現実。海愛に触れられる現実。
確信した瞬間、僕は感情のままに海愛を抱き寄せた。
触れられる。それがたまらなく嬉しかった。
「海愛!」
「きゃっ! ど、どうしたの?」
海愛は嬉しいような、困ったような表情を浮かべながら僕の胸を押した。
「蓮、苦しい」
抱き締めた腕を緩めようとは思わなかった。
霞む視界。ポタリと僕の頬を伝う涙。
それが、海愛に見せる初めての弱さだった。
「え! ど、どうしたの? ……蓮?」
海愛は突然泣き出した僕に驚いていた。
僕は海愛を失うという恐怖を初めて実感した。寂しさを知った。海愛が日々抱えているであろう不安を身を持って体感した。夢を通じて、僕は初めて知ったのだ。
愛しい人に触れられるとは、なんと幸せなことだろう。
「蓮、大丈……」
海愛の言葉を遮り、僕は奪うように唇を重ねた。
触れられる。まだ、こうして触れられるんだ。海愛はここにいる。
「蓮、大丈夫……私はここにいるよ」
落ち着きを取り戻した僕は、微笑む海愛に視線を向ける。
「海愛が……いなくなったかと思ったんだ」
もう一度存在を確かめるように抱き締めると、海愛は僕の耳元で笑った。
「いなくならないよ。私はずっと蓮の側にいるから」
海愛の言葉によって安心感が全身に広がり、同時に切なさが体をかけ巡った。
* * *
この日、僕は定期健診のために病院を訪れていた。
僕の検査結果を見て、田辺先生は暗い顔をした。
「蓮くん」
「はい」
母は心配そうな表情を浮かべながら先生と僕の会話を聞いている。
「いい加減、入院する気はないかい?」
田辺先生の言葉に驚く母を横目に僕は涼しい顏をしている。
いつ命を落としてもおかしくなかった日々の中、今日までこの言葉を言われなかった方が不思議だったのだ。
「先生、もう少しだけ待ってもらえませんか」
僕の言葉に田辺先生は困り果てた表情を見せた。
「でもね、君は以前にも一度倒れたことがあるだろう。最近は薬の量だって増えてる……私は君が心配なんだ」
生まれた時から僕の成長を見てきた田辺先生は、我が子を心配するような眼差しを向ける。
「蓮……」
母は目を充血させ、今にも泣きそうな表情を浮かべていた。
「自分の体のことなので、無理は承知です。でも……」
僕の意志は固かった。あと少しだけ、海愛と共に普通の恋人として生きたい。その思いが僕を動かしていた。
「僕に、あと少しだけ時間を下さい」
幸せを全身で感じて死にたい。それが浅はかな死に急ぐ行為だったとしても。
僕の言葉に田辺先生はしばらく黙り、重い口を開いた。
「条件を出すよ」
「はい」
僕は田辺先生の言葉をじっと聞いていた。
「定期健診にはこれからもきちんと来ること。それと、もし次倒れるようなことがあった時は、有無を言わさず入院してもらうからね」
田辺先生は椅子に腰かけながら大きく溜息をついた。
「なにより自分の命が大切なんだからね」
「はい」
僕は田辺先生の言葉にゆっくりと首を縦に振った。
この命にあとどれほどの時間が残されているのか、それは誰にも分からない。
だからこそ、精一杯にやり遂げたい。
最初で最後の、君と僕の恋愛を。