8話 【理想と現実】2
莎奈匯が学校を休学して一か月。
その日は前触れもなく、突然訪れた。
「海愛、先に行くぞ!」
まだ辺りが薄暗い午前五時。携帯電話が鳴る。寝ぼけ眼で電話に出た僕は、告げられた内容に、持っていた携帯電話を落とした。
覚醒していく意識。冷や汗がどっと流れ、脈拍が早くなる。
『莎奈匯の母です。あの子に、アナタに連絡するように言われて……』
僕は制服を着て、家を飛び出した。
朝はできる限り海愛と登下校していた僕は彼女に今日は一緒に登下校できないことを謝る。すると海愛から予想外の答えが返ってきた。
「私も行く! 病院どこ?」
「○○病院」
僕は彼女の言葉に驚きながら答えた。海愛は学校を休んで一緒に莎奈匯の入院する病院に行くと言ったのだ。
僕は額から流れる汗を拭いながら、病院までの道を心拍数を上げ過ぎないように走った。
莎奈匯の笑顔が脳裏に浮かぶ。
泣きそうになるのを堪え、僕は唇を噛み締めた。
* * *
「海愛!」
「蓮!」
数分後、僕と海愛は病院のロビーで会うことができた。早朝ということもあり、救急用の玄関から中に入る。
「あの、中津莎奈匯さんが入院しているのはどちらですか!」
看護師に事情を説明し、案内してもらう。
「中津様は救急病棟にいらっしゃいます。ここからまっすぐ左に歩いていくと、救急病棟です」
「ありがとうございます」
看護師の女性に頭を下げ、僕と海愛は救急病棟に急いだ。
■中津莎奈匯様■
重い扉を開け、薄いカーテンを潜ると、救急病棟と書かれた標識が目についた。そのすぐ近くの病室に、莎奈匯の名札があった。莎奈匯がいる個室からは、正確な心電図の音が聞こえていた。
僕と海愛はアルコール消毒を済ませ、病室を覗き込む。
開け放たれた病室の奥にいた女性が僕と海愛に気づき、ペコリと頭を下げた。
「初めまして。突然すみません」
「いえ……櫻井さん、ですか?」
「はい」
「私、莎奈匯の母です」
莎奈匯の母親は僕に挨拶し、深々と頭を下げる。その行動に僕と海愛も慌てて頭を下げた。
「そちらのお譲さんは?」
「あ、鈴葉海愛と言います」
莎奈匯の母親の表情は穏やかで、全ての覚悟ができているように見えた。
僕は莎奈匯のベッドに歩み寄り、横たわる莎奈匯の近くに立った。
ヒューヒューと不自然な呼吸音。体中に取りつけられた無数の管と点滴。
見ているだけで痛々しい光景に目を背けたくなるが、僕はじっと真剣な表情で莎奈匯を見つめていた。
人の気配に莎奈匯はゆっくりと瞳を開く。僕の姿に莎奈匯は驚いた表情を見せ、優しく微笑んだ。
「蓮……お見舞い、いらないって言ったのに」
「いいだろ、見舞いくらい許せ」
「そうだね、来ちゃったんだもんね」
莎奈匯は苦笑した。そして僕の後ろにいた海愛に気がつき、「ああ」と声を上げた。
「アナタが海愛さん?」
「え?」
海愛は突然名前を呼ばれ、不思議そうな顔をする。
「蓮から、聞いてたから」
ニコリと笑う莎奈匯に、海愛も同じく微笑みを返す。
「私も、彼から聞いてました」
「蓮、すごく美人な子だね」
莎奈匯はそう言って笑った。
「莎奈匯……」
「ねぇ蓮、わたしね、死んじゃうんだって」
莎奈匯は笑いながら言った。
無機質な心電図の音が、病室内の時を刻む。
「…………」
返す言葉が見つからず、僕は黙り込んでしまう。
「蓮、好きだよ、大好き」
莎奈匯の瞳から、涙が伝う。掠れる声に海愛は堪えきれなくなったのか、両手で口を覆い、涙を堪えていた。
「うん、ありがとう」
今までまともに返事をしてこなかった莎奈匯の告白に、僕は初めて答えた。
莎奈匯は微笑み、軽く頷いた。口角を上げ、必死に笑顔をつくる。その表情はすぐに崩れてしまった。
「……死にたくない、死にたくないよ……」
莎奈匯の声は震えていた。
僕は堪え切れなくなり、視線を逸らした。
「もっと、生きたい……」
勇気づける言葉もかけてやれないまま、啜り泣く声が病室に響く。
ようやく落ち着いた莎奈匯は、再び虚ろな瞳に戻り、真っ白な天井を見つめた。何度か心拍数を上下させ、莎奈匯は深い溜息をついた。
「ねぇ、お母さん」
「ん?」
莎奈匯は母親に問いかける。
「わたし、またお母さんの娘に生まれてきたいな。今度は、元気で」
莎奈匯は瞳を閉じたまま言った。
「絶対よ」
莎奈匯の母親は、泣いてはいなかった。
「うん。約束……お母さん」
「ん?」
「ありがとう」
* * *
その日の夕暮れ、莎奈匯は静かに息を引き取った。
正午を過ぎた頃から彼女の意識は朦朧としていた。言葉が通じているのか分からなかったが、僕は莎奈匯が目覚めるたびに優しく声をかけた。莎奈匯の手をしっかりと握りながら、声をかけ続けた。正常だった心電図の動きが止まった瞬間から消えていく手の温もり。
穏やかな最期だった。誰も声を荒げることなく、ただ目の前の死を見つめていた。
「莎奈匯、お前は幸せだったのか?」
莎奈匯の最期は、穏やかな笑顔だった。
* * *
「聞いたよ、莎奈匯ちゃんのこと」
後日、事情を知った那音が心配し、電話をかけてきた。
僕の心は、強い恐怖に染まっていた。息を引き取った莎奈匯の姿は、未来の自分を見ているようだった。
たった一人の愛する人を置いて、僕はいなくなってしまう。海愛の人生において、それは障害にならないだろうか。
「お前、大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
そんな弱気なことを考えていたから。
一週間が経過した。
いつものようにベッドから起き上がり、朝食を食べる。その後は、大量の薬を水で一気に流し込む。
朝が過ぎ去ると、僕は携帯電話の履歴を確認する。携帯電話を取り出すたびに海愛とお揃いの指輪が揺れた。
莎奈匯の一件以来、僕は保健室に通うことを止めた。あの場所には思い出がありすぎる。
脳裏に莎奈匯の笑顔が焼きついて離れない。
莎奈匯。そっちは楽しいか?
空を見上げて流れる雲を見つめ、僕は微笑む。頬を涙が伝う。
秋の風が、頬を掠めていった。