8話 【理想と現実】1
久しぶりに訪れた保健室は、なにも変わっていなかった。幼い頃から薬品の臭いに慣れているからか、病院に似たこの場所は落ち着く空間だ。
僕は辺りを見渡し、「ふぅ」と息をつく。
莎奈匯を探し、窓際の薄いカーテンの仕切りを開ける。クラリと僕を襲った眩暈。ゴクリと息をのんだ先には寝息をたてて眠る莎奈匯がいた。
しばらく保健室を訪れていなかったせいか、久しぶりに見た莎奈匯は少し大人びて見えた。伸びた髪の毛が時間の経過を物語る。
いつの間に、こんなに小さくなったのだろう。見ない間に、莎奈匯は痩せたように見えた。
「んん……」
突然の唸り声に寝返り。ビクリと僕は身を跳ねさせる。
「……あれ? 蓮じゃん」
寝ぼけ眼を擦りながら起き上った莎奈匯はボサボサの髪の毛をくしゃくしゃと掻き乱した。
「悪い。起こしたな」
「いいよ、ずっと寝てたから。んんっー体痛い!」
体中の骨をパキパキと鳴らしながら大きく伸びをする莎奈匯。
「大丈夫かよ……」
僕の口角は緩んでいた。
その様子を莎奈匯は不思議そうに見つめていた。
「……蓮が笑った」
「え?」
「もしかして彼女できた?」
莎奈匯の言葉にドキリと跳ねる心臓。
「は?」
莎奈匯は僕をジッと見つめ、真剣な表情で質問をする。
第二ボタンまで大きく胸元が開いたシャツは彼女が眠る時の姿なのだろう。
目のやり場に困りながら、僕はジッと莎奈匯の言葉を聞いていた。
「彼女できたんでしょ? わたし、蓮の笑った顏初めて見たもん」
「はいはい。どうでもいいだろ、そんなこと。それより、だらしないぞ」
「え?」
堪えかねた僕は莎奈匯の格好を指摘する。
はしたない格好を指摘されて初めて気がついた莎奈匯は、慌ててシャツのボタンを手繰り寄せた。顔が赤い。
「変態!」
「はぁ? 僕が?」
「そう!」
「そんなつもりはない」
馬鹿馬鹿しくなり、鼻で笑う。
「笑わないでよ! 馬鹿!」
頬を膨らませ、莎奈匯は僕を自分へと引き寄せる。
「えっ!」
勢いで僕は莎奈匯に覆い被さる形で倒れ込んでしまう。
その距離、わずか数センチ。
莎奈匯は体勢を変えず、そのまま質問を続けた。
「本当に、彼女できたの?」
「……まあな」
「そうなんだ……」
僕の真剣な表情を見つめ、首に回されていた莎奈匯の腕の力が弱まる。
「……蓮の、彼女のこと知りたいな」
消えそうな声に、僕は疑問を抱きながら頷く。
「彼女の名前は海愛。海に、愛と書いて、みあ(・・)」
「ねぇ、彼女は可愛い?」
莎奈匯は僕の上から退いた。そのまま背中を丸める。
なにを言い出すのかと思いながら首を傾げて言った。
「さあな」
曖昧に返答すると、莎奈匯はベッドに体を倒す。しばらく彼女の視線に捕まり、僕はその場を動くことができなかった。
「わたし……蓮のことが好きだよ」
莎奈匯の口癖。莎奈匯は困った時、いつも最後に好きだと言う。
僕はそのたびに莎奈匯の言葉を聞き流していた。
「いつも言うよな、それ」
「いけない? 思ったことはすぐに伝えなきゃ、後悔してからじゃ遅いじゃない」
莎奈匯は笑っていた。その瞳は遠くを見つめていた。
「莎奈匯は本気なのか?」
「なにが?」
「僕のこと」
「うん」
「そっか」
それから、しばらくの沈黙が続いた。数分後、体を起こしながら莎奈匯が口を開いた。
「……それだけ?」
「え?」
莎奈匯の表情は明らかに不機嫌であると告げている。
「わたし、告白したじゃん。返事してよ」
莎奈匯の目は真剣だった。
「え、今までのって全部、本気だったの?」
「当たり前じゃん!」
我ながら酷いことをしたと思う。莎奈匯が怒るのも当然だ。
殴られるのも覚悟して、僕は焦りを誤魔化すために髪の毛をくしゃくしゃと掻き乱す。
その様子に莎奈匯はクスリと笑った。
「ま、返事は分かってるけどね!蓮の好きになった人だもん。きっと素敵な人なんだろうね」
「ごめんな」
僕の言葉に莎奈匯はまたケラケラと笑い出す。
「もー謝んないでよ! 余計に惨めじゃない」
笑いながら言葉を続ける。その声は徐々に真剣なものに変わっていった。弱々しくなっていく声。微かな笑い声と共に、震えた声色はすぐに彼女の異変を知らせてくれた。
「わたしね、最近病状も安定してるの。これからちゃんと治療に専念するから、もうこの保健室には来ないよ」
「どういうこと?」
莎奈匯は泣いていた。必死に声を噛み殺しながら肩を震わせる。
僕が肩に触れると、莎奈匯はその手を振り払った。
「だからもう、わたしの病気は心配しなくても大丈夫だよ」
「……やめろ。そんな嘘つくなよ!」
僕は莎奈匯の肩をガッチリ掴み、視線を合わせる。
突然の怒鳴り声に驚いた表情を見せる莎奈匯の瞳からは大粒の涙が流れ出していた。心配をかけまいと、必死に笑顔を作り、本心を隠そうとする莎奈匯。
僕も、同じように生きてきた。他人との過度な接触を避け、むやみに人脈を広げず、思い出を作らない。他人に極力迷惑をかけないような生き方をしてきた。
苦しみを隠しながら生きる。その点では莎奈匯も僕も同じだった。だからこそ、僕には彼女のついた嘘が許せなかった。
剥ぎ取られた莎奈匯の仮面。
「わたし……どうしたらいいの?」
莎奈匯は振り絞るような細い声で僕に問いかける。彼女の本音。偽りのない、本当の姿がここにはあった。
「わたし、もうダメなんだって……」
莎奈匯の言葉に、僕はピクリと反応する。嫌でも分かってしまう、言葉の意味。
「……え?」
「わたしね、もうすぐ死んじゃうんだって」
返す言葉が見つからなかった。
大声を上げて泣きじゃくる莎奈匯。僕は、そんな彼女を抱き締めてやることしかできなかった。
泣き疲れ、眠ってしまった莎奈匯をベッドに寝かせ、僕は声を殺して泣いた。
「……っ」
自分と似た境遇の人間に突きつけられた現実。告げられたタイムリミット。全てが将来僕が迎えるであろう姿に重なり、例えようのない恐怖を初めて味わうことになった。
* * *
僕は誰もいない保健室で、溜息をついた。莎奈匯とは、もう半月ほど会っていない。
命の期限を僕に伝えた莎奈匯は、それから一度も保健室に顔を見せることはなかった。
校内ですれ違っても、声をかけることはできなかった。
季節は移り変わる。莎奈匯は来年三年生になり、僕は高校を卒業する。
二十歳まで生きられないと告げられたあの日から今日までは奇跡のような毎日だった。
これから先、待ち受ける未来も、過ぎるたびに奇跡に変わっていく。
僕はおもむろにソファから立ち上がり、莎奈匯の特等席である窓側のベッドを覗き込む。
そこに人の気配はなく、綺麗に畳まれた布団が重なっているだけだった。
僕は大きな溜息をつき、窓側のベッドに倒れ込む。ドサリと重さで沈み込んだバネが悲鳴を上げた。静寂に包まれた空間。授業中の保健室は、異質だ。
なにも聞こえない空間にいると、信じたくない妄想が浮かんでくる。
「……バカらしい」
僕は頭に浮かんだ考えを否定するかように髪の毛をくしゃくしゃと掻き乱す。
空虚な日々を続けていた、そんなある日。
いつものように時間を潰していた。保健室の先生が会議のためにいなくなるこの時間、僕は保健室を頻繁に訪れる。急病を除き、普段は滅多に利用者がいないからだ。
その日は珍しく訪問者が現れた。
「莎奈匯……」
彼女は笑顔を見せると、保健室の中を見渡した。
「蓮、その格好、わたしみたいだよ」
ベッドから身を乗り出し、薄いカーテンから顔を覗かせる僕の姿に莎奈匯は声を上げて笑った。彼女はソファに腰かけ、大きく溜息をつく。
僕がベッドから体を起こし、パイプ椅子に腰かけたところで、莎奈匯が口を開いた。
「蓮は、彼女とうまくいってるの?」
「まぁ、一応な」
「そっか」
「お前こそ最近ここに来てなかったし、どうかしたのか?」
莎奈匯は苦笑する。
僕の心が、沸き上がってくる最悪の言葉を掻き消そうとざわつく。
少しの沈黙の後、莎奈匯は笑って言った。
「わたしは元気だよ? でも今度ね、入院することが決まった」
莎奈匯は吐き捨てるように言った。
「え?」
覚悟はしていた。どんなに考えを否定したところで現実をねじ曲げることはできない。
僕は戸惑いを隠せず、声を上げる。
「それって、つまり……」
「ここにはもう、しばらく戻ってこないと思う」
莎奈匯は笑っていた。
僕は彼女が強い女の子なのだと思っていた。反面、今にも崩れてしまいそうな危うさを秘めた女の子。
「だから今日はね、忘れ物を取りに来ただけなの。学校にも、これから休学手続きしてくるところ」
色素の抜けた金に近い髪を靡かせ、莎奈匯は微笑む。
「そっか」
「うん」
返す言葉が見つからず、相槌をうつことしかできなかった。
「そろそろ行くね。蓮の顔も見れたし、満足だから」
莎奈匯は立ち上がり、保健室に干してあった何枚かのカラフルなタオルを手に取る。それを小脇に抱えると、莎奈匯は僕の前を去っていく。
ポタリと、僕の首筋に冷や汗が伝った。
「さ、莎奈匯」
「なに?」
「お見舞い、行くから……その、えっと」
莎奈匯は珍しいものを見るような目で僕を見つめ、笑いながら首を横に振った。
「お見舞いなんていらない。わたし、帰ってくるもん」
「莎奈匯……」
「でも、もし本当になにかあった時は、お母さんに連絡するよう伝えておくね。ありがとう」
莎奈匯はそう言って、泣きそうな顔で微笑む。僕は彼女を引き留めることができなかった。
「必ず帰ってこいよ。約束破ったら、承知しないからな」
「うん、約束ね」
次の瞬間。やわらかく、温かいものが僕の唇に触れた。
莎奈匯は僕に口づけ、今までで一番幸せそうに笑った。
「ありがとう、蓮」
莎奈匯が去った後の保健室で、僕は呆然としていた。
僕の顔は莎奈匯からの口づけで赤く染まっていた――――のではなく、涙で視界が霞んでいた。
悟ってしまった。莎奈匯の、本当の気持ちを。
僕は莎奈匯の口づけに込められた本当の意味を知り、絶望した。
莎奈匯は過ぎ去る瞬間、確かに僕の耳元で囁いた。
『バイバイ』
「……バカはどっちだよ」
静寂が包み込む保健室の中、僕はその場で泣き崩れた。
恐怖と寂寥が、僕の心を埋め尽くしていた。




