7話 【笑って、とびきりの笑顔で】2
青空が広がった初秋。
「蓮……絶対また会おうな」
その日がやってきた。夕方、那音は飛行機に乗り、北海道に旅立ってしまう。なに一つ那音と智淮さんにしてやれないまま、この日が来てしまった。
「いつでも会えるさ」
僕の言葉に那音は苦笑いを浮かべた。
気持ちの整理がついていないのだろう。別れを切り出して以降、智淮さんと連絡を取っていないらしい。やつれた那音の表情にかける言葉が見つからない。
「智淮さんに言わなくていいのか?」
僕の言葉に那音の体がピクリと反応する。視線が合った那音の表情は曇っていた。その後、すぐに力ない笑顔へと変わった。
今日、那音が北海道に旅立ってしまうことを知っているのは僕だけだ。智淮さんに正確な日時は教えていないらしい。那音はこのまま本当の気持ちを大切な人になにも伝えないまま旅立つつもりなのだ。
当初はそれが那音の決めた道ならば、と奴の意思を尊重しようとした。けれど那音の反応に、気持ちが変わった。
やはり、このままでいいわけがないのだ。
「もう彼女でもなんでもないし……言う必要なんてねーだろ」
「そうか」
「あっさりしてるな、蓮は」
ハハハと渇いた笑い声を上げながら、那音はキャリーケースを足元で転がす。落ち着かない様子だ。今日の那音はずっと暗い表情を浮かべている。
空港の待合室の椅子に腰かけながら、僕と那音の間にしばらくの沈黙が流れた。
那音の両親は仕事の都合で先に北海道に向けて数日前に旅立ったらしい。一人で旅立つ那音のために、僕は朝早くから彼の見送りに来ていた。最後くらい、親友として那音に接してやりたかったから。
「那音、今何時だっけ」
「え? 三時だけど……」
那音が飛行機に乗るのは午後五時だ。あと二時間。僕は突然立ち上がり、那音に視線を向ける。
僕の行動を不思議そうに見つめる那音。
「五時には戻ってくるから、少し待ってて」
「突然どうしたんだ? いいけど、時間ヤバくなったら行くからな」
「分かってる。お前に見せたいものがあるのを忘れてた」
「え?」
状況がのみ込めない那音。僕は謝りながら空港を後にした。
外に出た僕は冷たい風に身を震わせながら、辺りを見渡して、近くに停まっていたタクシーに乗り込み、とある場所を目指した。
* * *
ピンポーン。
一軒の住宅の前にタクシーを停めてもらい、僕はその家のインターフォンを押した。
風情ある木造の家。庭には真っ赤な軽自動車が一台。家の奥から玄関に向かって足音が近づいてくる。ガラスの引き戸の前に立ちながら、僕はゴクリと生唾をのみ込んだ。
この場所には以前、海愛と一緒に一度だけ来たことがある。
「……はい?」
玄関から顔を出した人物は、僕を見るなり体をビクリと跳ねさせ、目を丸くした。
「蓮くん!」
ここは智淮さんの自宅。
僕は出てきた智淮さんの腕を掴み、歩き出そうとする。
「智淮さん、なにも言わず来てくれ。時間がないんだ」
「え、ちょ、なに?」
状況がのみ込めていないのか、智淮さんは僕に掴まれた腕を振り解く。
智淮さんはジーンズにTシャツ姿で、髪を後ろで一つに結わえていた。化粧をしていないせいか、いつもより印象が幼い。
「那音が今日、北海道に引っ越すんだ! 今、空港にいるんだよ!」
那音という言葉に智淮さんは過剰反応する。驚いた表情がみるみるうちに暗くなり、静かになってしまった。
「智淮さん?」
「……」
虫の羽音のような細い声がしたが、うまく聞き取れない。
「え?」
「やめて!」
智淮さんの大声が空に響く。
突然の大声に驚きながら、僕は目を丸くする。智淮さんの瞳からはポロポロと涙があふれ出した。後からあふれて止まらない涙。
智淮さんは両手で涙を拭いながら、震える声で呟いた。
「あたし……もう那音の彼女じゃないもん」
「…………」
「今さらあたしが行ったって意味ないじゃない!」
僕は智淮さんの顏をじっと見つめ、溜息をついた。
「好きなんだろ?」
僕の真剣な眼差しに、智淮さんは唇を噛み締める。
「なぁ。那音のこと、まだ好きなんだろ?」
「…………」
智淮さんはそのまま黙り込んでしまった。動かない状況。
「このままでいいのかよ」
絞り出すように発した言葉。自分の言葉が胸に突き刺さる。
このままでいいのかよ。
いいはずがない。だから今もずっと迷いながら生きている。
「……あたし、会えないよ」
涙で震える声はこちらの涙腺まで刺激する。
「どうして?」
僕が尋ねると、智淮さんは苦笑して言った。
「だってあたし、フラれたんだよ? いくらあたしが那音のことをまだ好きでも、このまま行ったらただの未練がましい女じゃない」
寂しそうに笑う智淮さん。その笑顔に僕の胸が締めつけられる。
「会いたいか?」
「え?」
「那音に」
僕は智淮さんに伝えたかった。好きな気持ちを無理に抑える必要なんてない。好きならば、素直に自分の気持ちに従えばいいだけだ。うまくいかないのが人生。時には逆らうことも大切なのだと。
「会いたい!」
泣きながら、智淮さんは声を振り絞った。
智淮さんの言葉に僕は満足そうに頷いた。
「それなら、大丈夫だ。言っただろ? 僕に任せてって」
「うん」
「行くよ」
智淮さんの手を引いて、僕は待たせていたタクシーに乗り込んだ。
* * *
真澄那音は蓮に言われた言葉を思い出していた。
『智淮に言わなくていいのか?』
言わなかったのは、自分なりにけじめをつけたつもりだった。オレから一方的に別れを切り出した智淮に、今さらなにを言うことがあるだろう? けじめをつけなければ、先に進めない。そう思っていた。
オレは過去に忘れられない経験をしたことがある。
小学五年生の時、オレは転校生の女の子に一目惚れした。笑顔が可愛い、背の小さな女の子だった。話をするうちに仲良くなって、一緒に帰るような仲になった頃、夕日が沈む道を背景に、彼女は言った。
『那音くん、あのね、私ね、来月転校することになったの』
『えっ! 急だね』
彼女は全国を渡り歩く劇団の女の子で、転校は何度も経験しているという。
幼かったオレは、最後のチャンスとばかりに彼女に自分のありったけの想いを伝えた。
『好きなんだ』
オレの告白に、彼女は困ったように微笑んだ。その後、彼女はなにも言わず、転校してしまった。淡い初恋の記憶。
中学二年生になったオレは同じクラスの智淮に告白され、つき合うことになった。喧嘩もした。泣かせてしまったこともある。それでも今まで仲良くやってこれたのは、仲直りするたびに彼女に何度も恋をしてきたからだ。
智淮の存在はオレにとって空気と呼べるものだった。いつも隣にいるのが当たり前で、高校が違う今でも、中学からの友人には老夫婦と言われるくらい。
恋とはなんと儚いものだろう。何年も共に育んだ愛でさえ、たった一言で消えてしまう。
儚く散った初恋の思い出のように、オレはまた、大切な人を失おうとしていた。
「オレだって、わかんねぇんだよ」
智淮に別れを切り出したのは紛れもない自分だ。どうしてそんなことを言ってしまったのか、それは智淮のことを考えての決断だった。
智淮は昔、幼馴染と遠距離恋愛をしていた。
『智淮が高校に入学したら、大人になった俺が迎えにいくよ』
幼い頃交わした約束を信じ、智淮は四歳年上の幼馴染とメールのやりとりだけの、つたない恋愛を続けていた。
智淮が中学二年生になった頃、遠距離恋愛はある日突然幕を閉じた。
【彼女できた。別れよう】
短い業務的な別れのメールを最後に、幼馴染とは音信不通になった。
その後、智淮が寂しさを紛らわすため、告白したのがオレだった。
オレが智淮にこの話をされたのが高校に入学してすぐの頃。オレは智淮に全てを打ち明けられた後も、別れようとは言わなかった。
――――愛していたから。
無責任だったと泣きながら謝り、今は本当に愛していると告げた智淮。オレは彼女を深く愛していた。そんな智淮にもう一度、遠距離恋愛を強要することなど、オレにはできなかった。
「もう遅い、か」
苦笑いを浮かべながら腕時計を見つめる。
迫る搭乗時間に溜息をつきながら、オレは蓮が到着する前にキャリーケースを引いて歩き出した。
* * *
「運転手さん、急いでください!」
「そうは言ってもねぇ」
僕と智淮さんは渋滞に巻き込まれていた。空港は目の前にあるのに、動けないもどかしさに苛立ちが募る。
智淮さんは言った。
「蓮くん、走ろう」
焦った。僕にとって走る行為がどれほど体に負担がかかるのか、智淮さんはなにも知らない。そして迷った末に選択肢がないと分かると、僕は覚悟を決めた。
「分かった。運転手さん、ここで降ります。お釣りはいらないです」
僕は五千円をタクシーの運転手に手渡すと、走った。目の前まで目的地が迫っていた。
* * *
那音は搭乗口手前のエスカレーター付近で待っていた。けれど、約束の時間になっても親友の姿は現れない。那音は溜息をつき、歩き出す。
その時だった。
「那音!」
「……え?」
那音は目の前に広がった光景に目を丸くした。
「蓮、どうして智淮がいるんだよ」
「言っただろ、見せたいものがあるって」
僕は乱れる呼吸を整えながら、額の汗を拭う。智淮さんは堪えきれず泣き出してしまった。
「智淮……」
那音も泣きそうな顔をしていた。
「あたしは理由が知りたい。どうして別れようなんて言ったの?」
「どうして? それを知って、お前はどうするんだよ」
智淮さんの言葉を那音は冷たい言葉で切り捨てる。
このまま泣き崩れてしまうだろうか。そう思ったが、智淮さんの様子は変わらなかった。
智淮さんはハッキリとした口調で答える。
「あたしはまだ那音のことが好き」
那音はなにも答えない。そのまま背を向け、歩き出そうとする。
那音は本当になにも言わず、このまま旅立つつもりなのだろうか。僕は悔しさを滲ませ、奥歯を噛み締める。
「……元気でやれよ」
那音は振り返り、寂しそうに笑った。
歩き出そうとする、
「那音!」
その歩みを、智淮さんの声が遮った。智淮さんの声に、那音の足が止まる。
「あたし、遠距離恋愛でも大丈夫だよ」
「…………」
智淮さんの言葉を、那音は黙って聞いていた。
「那音となら、離れても、大丈夫だから……」
「…………」
「だから簡単に別れるなんて言わないでよ。その方が、離れるより何倍も悲しいよ……あたし、那音のこと本当に愛してるから」
智淮さんは言いたかった言葉を全て吐き出した。
「…………」
那音はその場に立ち、背中で智淮さんの言葉を聞いていた。肩が震えている。那音は泣いていた。智淮さんに背を向けたまま、震える声を精一杯隠しながら。
「バーカ」
那音は言った。
「そうだよ、バカだよ。知ってるじゃない」
智淮さんは震える声で言った。
「智淮」
「なに?」
那音は振り返り、涙でぐちゃぐちゃになった顔で言った。
「……オレ、お前のこと大好きだわ」
笑顔を見せ、那音は旅立った。
那音の姿が完全に見えなくなると、智淮さんは安堵の溜息をついた。
「よかったな」
智淮さんの顔を覗き込む。智淮さんは顔を真っ赤にして泣いていた。
「蓮くん……ありがとう」
智淮さんは幸せそうに笑っていた。
「べつに」
途端に照れ臭くなり、視線を逸らした。
人に感謝されるのは、慣れていない。
「よかったな」
「うん」
空は夕焼け色に染まっていた。
後日、海愛にこの話をすると、海愛は寂しそうに言った。
「蓮は、私の前から突然いなくなったりしないでね」
「しないよ」
海愛の言葉に僕は少し考える仕草をした。
やがて訪れる日を、海愛はどうやって乗り越えるのだろう。
「約束だよ」
その日がきたら、海愛には気の済むまで泣いてほしい。我慢せず、感情を露にしてほしい。
「約束するよ」
だから今だけは、笑っていて。
「蓮、好きよ」
海愛は頬を赤く染めながら、笑顔を見せてくれた。
「知ってる」
ほんの些細な幸せが心地よい。
僕は海愛に優しく微笑みを返した。




