7話 【笑って、とびきりの笑顔で】1
海愛の見舞いを我慢して三日。僕の携帯電話にメールが届いた。
【復活! おかげさまで完全に風邪治った! 早く蓮に会いたいな】
会いたい、の言葉にドキリと胸が弾む。
僕は海愛との約束を思い出し、カレンダーに視線を移した。風邪が完全に治ったら、会うと約束していたからだ。
【分かった。今週の土曜日、また海愛の家に行くから】
海愛が僕に会いたいと言う。僕だって同じ。海愛には言わないが、それが本音。
窓の外に視線を移す。季節は変わり、枯れ葉の舞う秋がすぐ近くまでやってきていた。
* * *
ピンポーン。
海愛の家のインターフォンを押した僕は辺りを見渡していた。
見事に咲いた花たちは季節の移ろいと共に元気を無くし始めている。もうじき枯れてしまうだろう。
深呼吸したところで、玄関の扉が開いた。
「はーい! どちら?」
顔を出したのは海愛の姉、雨姫さん……ではなかった。見知らぬ女性が首を傾げながらこちらを見ている。
落ち着いたブラウンのストレートヘアに少しだけ、年齢を感じさせる目元の小皺。なにより驚いたのは、女性の瞳の色だ。真っ青とまではいかないが、くすんだ青い瞳。日本人離れしたその容姿に僕はふと、以前、海愛から聞いた家族の話を思い出した。
日本人の父親。イギリス人と日本人のハーフである母親。その両親から生まれた雨姫さんと海愛。だとすれば、目の前の女性は海愛の母親なのだろう。
僕は海愛の母親に、もう一度頭を下げた。
「初めまして、櫻井蓮と言います。海愛さんとは」
「あらあらあら! あなたが蓮くんなのね!」
前にも似たような場面に遭遇した気がする。親子とは、ここまで似るものなのだろうか。
僕は苦笑いを浮かべながら海愛の母親に会釈した。
「あはは……お世話になってます」
「海愛ったら! こんなカッコいい彼氏がいるなんて知らなかったわよ!」
「は、はぁ……」
「とりあえず、上がって!」
「お邪魔します」
雰囲気に圧倒されながら、僕は玄関に足を踏み入れた。木の香りが鼻孔を抜け、肺に染み渡る。
紅茶を持った海愛の母親と共に海愛の部屋に足を踏み入れる。海愛はベッドの上で携帯電話を弄っていた。
「じゃあ、ごゆっくり」
パタンと扉が閉ざされ、海愛の母親は階段を下りていく。
久しぶりに見た海愛の姿は、ほんの少しだけ痩せたように見えた。
僕の姿を見た瞬間、海愛は満面の笑みを浮かべた。
「蓮くん!」
「約束通り、会いに来たよ」
僕は微笑み、ゆっくり海愛の隣に腰かける。ベッドが二人分の重さで沈む。
「会いたかった……」
海愛は愛しそうに僕の肩にもたれかかる。
「僕も」
穏やかな、幸福の時間が僕らの間に流れていた。
「ごめんね、お母さん、うるさかったでしょう」
「優しそうな人じゃないか」
「優しいけど……ちょっと私たち姉妹を溺愛し過ぎてるっていうか」
苦笑いを浮かべる海愛。
また一つ、僕は海愛が持つ幸せの欠片に触れた。寂しい心を隠しながら、僕は笑う。
「ねぇ海愛」
「ん?」
「抱き締めてもいい?」
僕の要望に、海愛は顔を真っ赤にして合わせていた視線を逸らす。
僕は、心に巣食った虚無を感じていた。海愛に近づけば近づくほど、圧倒的な違いを感じてしまう。
僕は、幸せな人生を歩む海愛の足枷になっているのではないだろうか。
そう考えると、胸が締めつけられ、呼吸が苦しくて仕方がない。
悔しい。悲しい。どうして僕は普通の人生を望めないのだろう。
「え、だって、恥ずかしい、よ……」
海愛はもたれかかっていた僕の肩から体を起こし、戸惑っていた。
愛しくてたまらない。すこしだけ意地悪したくなる。
「だーめ。さっきも僕のこと、また蓮くんって呼んでたしな? 残念だけど、拒否権はないよ」
この小さな体で、これから背負う沢山の悲しみにはたして堪えられるのだろうか。
僕は不安にかられ、温もりを確かめるように海愛を抱き締める。
最初は軽く抵抗していた海愛だったが、諦めたのか、そっと僕の背中に手を添える。その行動に、思わず泣きそうになってしまった。
「ねぇ、海愛」
「……ん?」
「快気祝いに海愛の好きな場所、行こうか。あの駅前のケーキ屋でも、隣町の水族館でも、なんでもいいよ」
生きている限り、海愛のしたいことをできる限りやらせてあげたいと思っていた。僕のせいで彼女の人生を縛りつけてしまうことだけは、絶対に嫌だったから。
海愛は首を横に振った。
「ん?」
「私、こうしてるだけで幸せだから」
海愛の言葉に胸が締めつけられる。
僕は以前に一度、海愛の目の前で倒れたことがある。その時のことを気にしているのだろう。海愛の選択は、僕の体を思ってのことだった。
「じゃあ、ひきこもる?」
「言い方が暗くない?」
海愛は僕の提案にハハハと笑い声を上げ、抱き締めていた腕を解いた。離れていく海愛の体。
「いいんだよ」
名残惜しさを感じながら、細やかでも僕は確かに幸せを感じていた。
* * *
その夜、僕の携帯電話に着信があった。
相手は那音。珍しい着信相手に僕は首を傾げながら通話ボタンを押した。
「もしもし」
那音の第一声は、情けない泣き声だった。
「蓮ー!」
声が耳に響く。
「あーっ! うるさい!」
「お前、酷いな!」
携帯電話の向こう側で那音の鼻を啜る音が聞こえる。僕は泣き喚く那音の気が治まるまで待ち、ようやく落ち着いたところで話を切り出した。
「で、どうしたんだ?」
「オレさ……智淮と別れた」
「え!」
鼻声の那音の告白に、僕は思わず大声を出してしまう。母が入浴中だったため、難は逃れた。
僕は胸を撫で下ろし、深呼吸をし、落ち着いたところで那音の話をじっくり聞き始めた。
「なんで……」
海愛と僕を結果的に引き合わせてくれた那音と智淮さんに今では本当に感謝している。
だからこそ、普段人と関わることを嫌う僕だったが、二人の力になりたいという結論に至った。
那音に詳しい話を聞くと、先ほどまでの元気は嘘のように、小さくなった声が電話口から聞こえた。
「オレが智淮に別れようって言ったんだ……」
言い終わると、那音は再び鼻を啜る。
泣き喚きながら電話をかけてきた奴だ。よほどツラかったのだろう。だとしたらなぜ、自分から別れを切り出したりしたのだろう。
僕はまず、ありえないであろう理由を那音にぶつける。
「浮気した?」
「んなわけねーだろうが!」
案の定、怒られた。当然だ。僕もその答えへの肯定は一番聞きたくなかったものだったから。
悪い、と謝罪する。那音はさらに重要なことを言った。
「それとオレ……引っ越すことになったから」
那音の言葉に僕は固まる。数秒間の沈黙の後、恐る恐る那音に尋ねた。
「どこに?」
「……北海道」
「遠いな!」
予想外の場所に僕は思わず叫んだ。
電話の向こう側で那音の溜息が聞こえた。
「だろ? マジふざけんなって話だよな……」
那音が智淮さんと別れた理由が僕にも少しだけ理解できた気がした。
「それで……別れた理由はあれか? 遠距離恋愛になるから?」
「だって、堪えらんねーよ! オレ、お前みたいに強くねーし、どっちかって言えば女々しいし……」
こんなに弱気な那音を見たのは初めてだった。
「お前、もしかしてまだ……」
「え、なに?」
智淮さんのこと、好きなんだろ?
言葉をのみ込む。今、僕がなにを言ったところで那音は聞く耳を持ってはくれないだろう。絶対否定するに決まっている。僕が知っている真澄那音とは、そういう男だ。
「いや、なんでもない」
「……じゃあ、まぁ……そういうことだから、今までありがとうな」
「なんだよ、一生会えないみたいなその言い方は」
携帯電話の向こう側で那音の笑い声が聞こえた。
「そうだな、悪い。またこうやって、たまに電話してもいいか?」
「ああ、いいよ」
「お前がそう思ってなかったとしても、オレはずっとお前の親友、続けるからな! お前に拒否権はない!」
必死な声色に、思わず吹き出してしまった。
那音はずっと前から僕の親友を名乗り続けてきた。言っても止めないし、拒絶しても何度だって舞い戻ってきた。
そんな関係に慣れてしまった今、僕にとって那音とは、どのような存在なのか。親友なのかと尋ねられたら、今なら素直に首を縦に振れるかもしれない。
「僕も、親友だと思ってるよ」
僕は那音を親友と認めた。人に関わりたくないと思って生きている僕の周りには自然と深い人脈ができ上がっていく。これは必然なのだろうか。
「え……え? あ、おう! 親友!」
那音の慌てふためく様子は電話越しでも十分に伝わる。
僕は手に持っていたシャープペンシルを回しながら、夜遅くまで親友との会話に華を咲かせた。会話の合間、僕はこれからのことを考えていた。
果たして智淮さんは、那音の言葉に素直に従ったのだろうか。
好きならば、自分の気持ちに正直に従えばいい。遠距離恋愛はできない。それはやってみなければ分からないことだ。
好きな相手には、正直な気持ちを伝えることが大切だと思う。伝えられるチャンスがあるうちに、しっかりと。
ふと時計に目をやると、針は二十三時を示していた。
「智淮さんには明日電話するか……」
僕は大きく溜息をつき、ベッドへ倒れ込んだ。
翌日の夕食後、僕は自室で智淮さんに電話をかけていた。智淮さんに電話をかけるのは、今回が初めてだった。
電話番号を交換した日以来、特に要件もなく、電話帳の隅に追いやられていた存在の番号が、まさか本当に使う日が来るなんて、夢にも思っていなかった。
三度目の呼び出し音の後、智淮さんの声が聞こえた。
「……はい」
電話越しの声は、実際の声より大人びている。
「僕、櫻井だけど……」
「……蓮くん? 珍しい。どうしたの?」
智淮さんの元気のない声色の理由は分かっている。
僕はゆっくり、確かめるように質問を始める。
「なんかあったの? 元気ないよね?」
智淮さんは黙り込んでしまった。
沈黙の後、力ない声が耳に届いた。
「……あのね、あたし……那音に別れようって言われちゃった」
電話の向こう側で、啜り泣く智淮さんの声が聞こえた。
やはり、那音の言葉を完全に受け入れられないのだろう。智淮さんはそれからしばらく泣き続けた。
なぁ、那音。智淮さん、泣いてるぞ? お前、このままで本当にいいのかよ?
心の中で那音に問いかけながら、僕は拳を握る。深呼吸をし、言った。
「引っ越すんだろ? 那音」
「うん……だから、遠距離恋愛はあたしのためにならないから、別れようって……あたしは、大丈夫なのに!」
言い終えると、智淮さんは再び泣き出してしまう。
僕は確信することができた。智淮さんも那音も、まだお互いが好きなのだ。
距離が二人を引き離そうとする現実は、僕がどうこうできる問題ではない。無力な自分に腹がたつ。
「まだ那音のこと、好き?」
けれど、簡単に諦めたくない。他人のために必死になるのは、新鮮な気分だった。
「……好きだよ……まだ、大好きなの……」
恋は、難しい。好きの気持ちだけで生きていけるのなら、それはどんなに幸せなことだろう。
「僕に任せてくれないかな」
僕に恋の素晴らしさを教えてくれたのは、那音と智淮さんだ。絶望ばかりだった人生が希望ある未来に変わったのは二人がいてくれたから。だから、これは恩返し。
「…………うん?」
「詳しくはまた今度。じゃ、切るよ。おやすみ」
「あ、うん! おやすみ」
通話を切り、僕は溜息をつく。
これから沢山のことを考えなければならない。二人にとって、一番の解決策は一体なんだろう。
僕は机に向かいながら、新しいルーズリーフに思いつく限りの案を書き殴っていく。実行不可能な案しか浮かばない。
背伸びをしながらそのままベッドへと倒れ込む。電気を消すと、満月の光が部屋いっぱいに射し込んでくる。干したばかりのシーツはお日様の匂いがした。
なぁ、海愛。僕、どうしたらいい?
「うまくいかないな……」




