5話 【プレゼント】 1
あれから一か月。僕は無事に病院を退院した。
「ねぇ、蓮くん」
「蓮、だろ?」
僕と鈴葉はお互いを名前で呼び合うように決めていた。僕は彼女を海愛と呼び捨てにできるようになっていたが、海愛は未だ慣れていない。
呼び方を間違えると、呼び名を訂正する。
海愛は何度も僕の顔色をうかがう。
「……蓮」
名前を呼んだだけで海愛は顔を真っ赤に染めた。
「緊張しすぎ」
顔を赤く染める海愛に、思わず吹き出してしまう。
「うるさい……」
しばらく笑いながら話をしていると、海愛がおもむろに口を開いた。
「そういえば、蓮の誕生日っていつなの?」
「僕? 七月八日」
「あー……なんかそんな顔してる」
海愛はクスクスと笑った。
「なんだそれ。つーか、お前は?」
「名前で呼んでくれるんじゃなかったの?」
完全に反撃された気分だった。
だけど海愛。僕は平気なんだからな。絶対、照れてなんかやらないからな。
「はいはい。海愛は、いつなの? 誕生日」
「私は八月二日」
「なんだ、僕たち夏生まれじゃん」
「そうだね! あーあ、誕生日かぁ……もう過ぎちゃったしなぁ」
「過ぎたけど、僕が祝ってやるから」
「本当?」
僕の言葉に海愛の瞳が輝く。
「誕生日、なにかリクエストはある?」
僕の言葉に、海愛は首を横に振った。
「私は、蓮と一緒にいられればそれだけで十分だよ」
海愛はそう言って、満面の笑みを浮かべた。
もっとわがまま言ってくれていいのに。
幸せなはずなのに、僕の心は寂しさを覚える。
僕は眉を下げながら、海愛に優しく笑いかけた。
「分かった。じゃあ、来週の日曜はずっと一緒にいよう」
日曜まで一週間。これからなにかプレゼントを用意するにも、今からでは大したものは用意できない。それならば、ささやかでも海愛の願いを叶えてあげたい。
愛する人が生まれた大切な日を、共に過ごせる喜びを共有したい。
「本当にそれでいいの?」
再度海愛に確認するが、「しつこい」と怒られてしまった。
* * *
「海愛、過ぎちゃったけど、誕生日おめでとう」
月日は流れ、日曜。真夏の気候も終盤になり、外出を躊躇うことも少なくなった。かと思えば残暑が外出をはばむ日も少なくない。
その日は雨が降った前日までの天気が嘘のように晴れ、気温は真夏日を記録した。
「蓮も、過ぎちゃったけど、誕生日おめでとう」
海愛と僕は笑い合い、過ぎたお互いの誕生日を祝った。
周りの人間に言わせてみれば、「どうして過ぎてしまった誕生日をわざわざ祝うのか、来年もあるだろうに」などと言われても仕方ないが、僕らにとって「来年」という言葉ほど不確かなものはない。来年まで、僕が生きているとは限らないのだから。
僕は無理をしてでも、大切な人が生まれたその日を祝いたかった。女々しいと言われてもいい。後悔はしたくないから。
「ありがとう。お互い、十八歳だな」
「結婚できちゃうね」
海愛の幸せそうな笑顔につられ、僕の表情が緩む。海愛は僕の肩に寄り添い、愛しそうに擦り寄る。距離は自然と近づき、重なる唇。二度目のキスは、唇が一瞬触れただけ。触れた、触れない、というところで海愛は閉じた瞳を開く。
海愛は恥ずかしそうに笑っていた。
「はい、これ」
僕は小さな箱を取り出し、海愛に手渡す。
薄い桃色で、海愛の両手に収まってしまうほど小さな四角い正方形の箱。四方をキラキラと光るリボンが飾っている。
海愛は手渡されたプレゼントに首を傾げた。
「なに?」
「開けてみて」
ずっと一緒にいよう。
そう言ったものの、本心はやはりそれだけでは満足できなかった。どうしても形に残るプレゼントを贈りたくなり、僕は町を歩き回ることにした。そうして見つけたプレゼント。
丁寧に装飾を取り外し、箱の中身を見た海愛は、その場で泣き出してしまった。
想定していなかった反応に、僕は動揺を隠せない。
「……指輪?」
学生の僕に高価なプレゼントは贈れない。
小遣いの範囲でようやく見つけたのは、道端のアクセサリーショップで勧められたシルバーのペアリングだった。
「貸して」
涙を流す海愛の手から指輪を受け取り、僕は海愛の右手の薬指に指輪をはめた。もう一つは自分の指へ。ピタリとはまった指輪の理由は事前の情報調査の成果だ。
いつか本物の宝石で飾られた指輪を、海愛に贈るため。それは、これから先も生き続けるという自分に課した誓いだった。
「エンゲージ?」
海愛は右手の薬指を見つめながら聞いた。
いつか必ず、本当の意味での幸せを君に贈る。海愛の薬指で輝きを放つ指輪は、僕らの未来を表しているのだろうか。そうでなくても、信じたい。今、この時だけは。
「……僕は正直いつまで生きていられるか分からない。だから今、将来の約束していい?」
事実上のプロポーズのつもりだった。
不思議と恥ずかしさはなく、自然と言葉が口を伝う。
これは僕のエゴだ。海愛に一緒になってほしくないと言いながら、こうして矛盾した行動をとる。それは僕の本心が海愛と共に生きる未来を選択し、身勝手な感情のまま、海愛を縛りつけてしまいたいという醜い独占欲の表れだった。
生に執着すればするほど、僕の生き様は泥臭く、汚れていく。
「私、これを受け取る資格……あるのかな」
海愛は右手の薬指にピタリとはまる指輪を見つめながらうつむいてしまう。小さく丸められた背中が彼女をさらに小さく見せる。
僕は海愛の肩を抱き、言った。
「あるから渡したんだ」
「うん……ありがとう」
彼女は泣いていた。肩を震わせる海愛に寄り添いながら、僕は静かに見守っていた。
「泣き過ぎだろ」
思わず吹き出すと、海愛は涙で震える声で答える。
「……嬉しくて」
気がつけば、海愛を抱き締めていた。
「蓮、苦しいよ」
胸板を押されるが、それでも僕は抱き締めた腕の力を弱めることはしなかった。
「いつか、こうして抱き締めてやれることもできなくなる」
「……」
海愛は抵抗を止め、じっと黙って僕の言葉を聞いていた。
抱き締めた海愛の体は驚くほど小さかった。強く力を入れたら簡単に手折れてしまうのではないかと心配になるくらい。
心から愛する人をこの手にひしと抱き締める幸福を、僕は噛み締めていた。
「海愛、愛してるよ」
互いを確かめるように深く重なりあう唇。長いキスはこれから限られた時間以上の温
もりを必死に探しているようで、涙が出そうになった。
これから沢山の思い出を作ろう。沢山の証を刻んでいこう。僕らが精一杯に生きた証を。
「……蓮、大好き」
三度目のキスは、涙の味がした。
* * *
飛行機の飛ぶ音がする。
僕は机に向かいながらシャープペンシルをコロコロと転がしていた。
やる気が起きない。
夏休みが終わり、数か月。待っていたのは実力テストという壁だった。
僕にとって自分の学力を知ることができるいい機会だが、学年一位と言っても、全国で一番になれるか、と言えばそうでもない。教科書の内容だけの勉強では、学力のたかが知れている。
勉強はやればやるだけ自分の力になる。それは嫌というほど実感していた。勉強は、僕が生きている上で唯一時間を忘れられるものだった。
昔はたった一人で生きる覚悟をしながら生きていた。
今は僕を必要としてくれる人がいる。その喜びを知ってしまったから、もうあの頃には戻らない。
僕はパラパラと参考書を捲りながら冷めてしまった緑茶をのむ。
将来は、医者を目指そうと思っていた。沢山の人間の命を救いたい、というのは勿論だが、医学に携わっているうちに、自分の治療法を見つけられるような気がしていた。
早く死んでしまいたい。
そう思っていたのは過去のことだ。海愛に出会ってから、もっと生きたい、死にたくないという感情が芽生えた。干からびていた感情が水を得て、活き活きと輝き始めたのだ。
海愛は間違いなく、僕にとって生きる希望だった。
「メールでもしてみるか」
気分転換に、と僕は海愛にメールを送る。
【おはよう。今、なにしてた?】
携帯画面に【送信しました】と文字が表示されると、僕は携帯電話を閉じた。
「……さて、やるか」
パキパキと背骨を鳴らし、渋々シャープペンシルを走らせる。数分後、海愛から返信が。
僕は「待ってました」と言わんばかりに素早くメール画面を確認する。
可愛い顔文字が、画面の中で踊っていた。
【おはよー(^O^) 日光浴してたよ! どうしたの?】
僕は海愛のメールに。
【なんでもない。なんとなくメールしてみた】
と返信し、携帯電話を閉じた。そのまま椅子から立ち上がり、部屋の窓を開けた。残暑の熱気に眉を寄せながら、外気を肺に取り入れる。
そこには透き通るような青空が広がっていた。美しい青に目を奪われた。空に一筋の飛行機雲が浮かび上がる。
海愛。君もこの青空を見ているんだね。
離れていても、同じ空の下にいることには変わりない。
「もうひと頑張りするか」
お茶を淹れ直し、僕は再びシャープペンシルを走らせた。
* * *
実力テストを無事に終え、僕は海愛と会っていた。彼女の胸元では、誕生日に贈ったリングが日の光に照らされ、輝いていた。
「指輪、ネックレスにしたの?」
「うん! 大切なものだし……指輪だと、先生に没収されちゃうの」
「ふーん」
海愛は愛しそうに胸元の指輪を握り締め、微笑んだ。
「蓮のは?」
海愛は指輪のない僕の指を見て首を傾げた。
「あー……僕のは、ここ」
僕は携帯電話を取り出し、海愛に見せる。
シンプルな携帯電話に一つだけ揺れるラバーストラップ。中央に光るのが僕の指輪。
毎日携帯しているものにつけておけば、なくなることもないだろう。校則の面から学校内で指輪をつけることはできない。成績が絶対条件の僕は、生活指導に捕まるわけにはいかないのだ。
「お互い大切にしようね!」
「うん」
海愛の笑顔に僕は微笑み返した。




