未来探知機
今の俺は、案山子である。
目の前の歩道の上は、冷たい街灯の灯りを頼りに帰宅する市民で溢れていた。しかし覚束ない足元を照らす街灯は、通行人が多い割には少ない。それでも誰かが文句を言う訳ではなく、靴の先で黙々と冬の空気を切っていた。闇の中にぼんやりと白い吐息が浮かぶのが分かるほど、今日は特段に寒い。
それもあってか、道行く人々の服装は目につくほどに厚ぼったい。通りがかりに見える肌はせいぜい顔の周りで、それも顎の辺りはコートの襟かマフラーで覆われている。まるで表情だけが映るディスプレイのような気さえする。こんな風だと、どうしても通りがかる顔に目が行ってしまう。ある顔には帰宅の喜びが溢れ、それとすれ違う顔には一日の疲れがありありと見て取れる。きっと冬の夜道というのは人の内面を浮き彫りにするのだろう。こんなことに気付いてしまうのも職業病だな、と目線を上に移せば、氷のように澄んだ空気の向こうに星々が浮かんでいる。が、変に意識してしまったせいか、何百光年と離れているであろう星でさえも、顔があるように見えてしまった。
顔と言うとさすがに誇張かもしれないが、少なくとも個性を感じたのは確かである。赤や青の星が大小様々に散らばっている光景は、目の前の人間たちと似ているように思えたのだ。集まっている星、独りぽつんといる星。星の色は寿命によって違うと聞くし、案外星は人間に似ているのかもしれない。いや、人間が星に似たのだろうか。とりあえずここは素直に、銀河を生み出した宇宙の神秘と、遠く離れた恒星の顔さえも捉えてしまう眼球の神秘に、乾杯といこう。
視線を再び地上に戻したところで、宇宙まで飛んでいた魂が自分の体に戻ってきたような感覚に襲われた。そこでようやく、自分も人間であることに気付いた。俺の顔はどうだろうか。心の目が外側から俺を捉える。そこに見えるのは型番の古い監視カメラのような顔だ。もしこれで手編みのマフラーでも首に巻きながら腕時計を確認する素振りをしていれば、外見こそ恋人を待つ彼氏に見えるかもしれないが、この眼をカモフラージュするにはとても足りないだろう。
そんなことを考えていると、右手からギィギィ音を立てながら一台の自転車がやってきた。オイルが足りないくらいなら案山子の俺が呼び止めなくてもいいのだが、ライトが点いていないのを見逃す訳にはいかない。何せ「冬の交通週間」なのだから。
「そこの自転車、止まってください」
進行方向を手で遮ると、素直にその自転車は止まった。乗っていたのは、30歳にならないくらいの平凡な若者だった。ただ奇妙なことに、その男は警察の服を見ても動じる様子がなかった。俺にオーラがないせいだろうか。
「ライトはどうされました?」
「えぇ、そうなんですよ」
分かっていました、とでも言うかのように若者が笑う。舐められているな、と直感した。
「今ちょうど自転車屋に行く途中でして」
彼が指をさすその向こうをずっと行けば、確かに自転車屋はある。だが信じるに値する人間かどうかと言われると、そうではないように思えた。とっさに思いついたという風ではないが、前々からそういう知恵をつけていたような、そんな雰囲気があった。最近は尽くそういう輩ばかりのような気がする。
「でも無灯火運転には違いありませんよね?」
「いや~、すぐそこの角の手前で切れてしまって。これホントの話ですよ。名誉にかけて」
全く本当に調子がいい男だ。ここまで図々しいと、こちらも力が抜けてしまう。でも事故を起こしてからでは遅い。予防は先にするから意味があるのだと、知り合いの医者も言っていた。だから先週末にはもう、インフルエンザの予防接種も済ませてしまった。
「そうだ。じゃあ直したらここに戻って来ますよ」
意識が逸れていた俺の隙を突くように、男は意外な提案をしてきた。一瞬、インフルエンザを治したら、かと聞き間違えたが、ライトのことだと必死で思い出して、答えを紡ぐ。
「え、あぁ……、ちゃんと戻ってくるんですね?」
「疑い深いなぁ。しょうがないですね。これを置いて行ってあげます」
そう言って男は流行りの型のスマートフォンを胸ポケットから取り出した。しかし、その俺を見下す言葉が出てくる場所は定かではない。
「いいんですか?」
「あげるわけじゃないですよ。人質です、人質」
いや、それは分かっているが、こういう情報端末を他人に預けてしまうのは褒められることではない。もはや電話ではないのだから、もう少し自覚を持って管理して欲しいものだ。そんな注意をしてやろうかとも思っていたのだが、言葉がまとまる前に男は自転車にまたがってさっさと夜道に消えてしまった。
やれやれ。
それにしても厄介なものを渡されたものだ。他人の所有物を持っているというのは、何とも気持ちが悪い。きっとそれは懐疑心から来るのだろう。女が男の浮気を疑うのと同じだ。俺はこのスマートフォンのことを何も知らない。なぜ男がこれを手に入れるに至ったのか、この中にはどんなアプリケーションが入っているのか、どういうサイトをブックマークに入れているのか、それらが分からないのに手の中にある。あぁ、今すぐにでも投げ捨ててやりたい。早くあの男は帰ってこないだろうか。
「ルルルルル」
心の声を聞いているぞ、とでも言うように着信を知らせる音が鳴った。
「ルルルルル」
しかし流石に電話にでる訳にはいかない。仕方がないが、このまま放置するしかないだろう。
「ルルルルル」
それにしても誰からなのだろう。あの男の妻が帰りの遅いのを心配しているのかもしれない。それとも友人からの遊びの連絡だろうか。
「ルルルルル」
こう呼び出しが長いと、何となく不安になってくる。もしや借金取りからの連絡ではあるまいか。それから逃れるために、電話を他人に渡して自分は姿をくらませたのではないか。あり得ない筋書きではない。他人の心の中ほど、不可解なものはない。
「早く出なさいよ」
……え?
「”ルルルルル~”って喋るのは嫌いなんだから」
なぜ手元から声がする?
「聞いてるの? 何か答えなさいよ、ケーサツ君?」
なぜスマートフォンが俺に喋りかけてくる?
いや、待て。それは今世紀最大の勘違いだ。もしかしたら気付かないうちに、誰か俺を見ている人間から電話がかかってきた、なんてこともあるかもしれない。機械が人間の言葉を理解するならまだしも、機械が人間に話しかけてくるような世の中には到達しているはずがない。少なくとも、こういう流暢な日本語を話すなんてあり得ない。この声は人間だ。いや、人間でなければならない。
期待した未来を求めた俺は、その声を間近で確かめるべく、スマートフォンを耳に当てた。
「あなた、日本語分かる? ドゥー、ユー、アンダスタンド、ジャパニーズ?」
「バカにしないでください」
「やっと反応したのね。トロい男だわ」
偉そうな口振りの女だ。
「すみません。持ち主は席を外しておりますので、またかけ直して頂けませんか?」
この場にいないと伝えたかったのだが、何とも場に合わない日本語になってしまった。
「本当にトロいのね。トロイの木馬でも感染してるんじゃないの、あなた?」
「は?」
「あなたの頭の中はトロイの木馬みたいに空っぽだって言ってるのよ」
確かにトロイの木馬の中は空洞になっていたというが、戦士が入っていたから空っぽではない。そんな毒舌の奇襲攻撃こそ、トロイの木馬のようだ、という例えがふさわしいだろう。
「もしあなたがトロい男ではないと証明したいのなら、未来のことを私に質問しなさい」
それにしても、なぜ俺は初めて会話する女に貶されているのだろう。何とも気分が悪い初体験だ。それに発言の趣旨も不可解極まりない。意味深長というより意味進跳だ。先に進んだのか、宙を跳んだのか、言葉の前後にまるでつながりが無い。それとこれとは話が別なような気がするが……。それとも本当に俺の頭がトロいのだろうか?
「何がなんだかさっぱり分からないのですが、未来というのはどなたでしょうか?」
そう尋ねてから、もしや未来というのはこの女の名前ではないかと思った。女性が自分のことを名前で呼ぶのはよくある話だ。それも自意識過剰な雌に多い。だが、その女は馬鹿にするように甲高い笑い声を上げた。
「面白いことでも言えば許されるとでも思っているのかしら? だったら今のうちに穴を掘っておきなさい」
「穴、ですか?」
「えぇ、あなたを冷たい土の中に閉じ込めて、くだらない言葉を吐きやがる口を塞ぐための穴よ」
「物騒ですね」
「そうね。その昔、仏僧が即身仏になるための修行がそんな感じだったわね」
「俺を木乃伊にするつもりですか?」
「高く売れるなら」
一点の曇もない即答だった。
「さぁ、こんな無駄話なんかしてないで、早く未来のことを私に聞きなさい。未来は名前じゃなくて、現在の次に存在する時間世界の方よ」
「なぜそうなるんですか? というか、俺はこのスマホの持ち主ではないんですが」
「あなた本当に気付いてないの? 呆れるわね。次に私をスマホと間違えたら、あなたのことをトロミイラって呼んであげるわ。安い寿司ネタみたいで似合ってるわよ」
……気付いていない訳ではないさ。ただ、本当にそうなのだと認めてしまうことに若干の抵抗があっただけだ。
「君は、この機械は、一体何なんだ?」
「未来探知機」
簡潔にまとめられた彼女の答えが、耳と脳味噌の間で滞留する。そのぼんやりとした音声言語は鼓膜に纏わりつくようで、思わずそれを一旦耳から離した。と同時に、画面に映る文字が目に留まった。
"TALKING"
それが"CALLING"ではないという事実を理解するのに少しばかり時間を費やしてから、再びそれを耳へ当てた。
「未来に起きることを、知ることが出来る機械?」
「なんで疑問形なのよ。もっと自信を持ちなさい。それでも私の所有者なの?」
まさか機械に叱咤される日が来ようとは思ってもみなかった。が、それに落ち込んでいる暇はなさそうだ。
「俺が所有者? なぜ?」
「スズキは、もう戻ってこないわ」
あの男はスズキというのか。自転車よりは軽自動車が似合いそうだ。
「でもライトを直してここに来るって--」
「それは口実よ。というより、そうなる未来だった、と言った方が正しいわね」
「そういう未来になると、君が知っていたってことか」
「その通り。よくできました」
初めて褒められた……?
「あなたの頭にしては」
やはりそうですよね。
「じゃあ、そのスポンジみたいな頭でさっさと考えて、知りたい未来を言いなさい。何でも教えてあげるわ」
スポンジみたい、か。吸収力が良いという点では、あながち嘘ではないかもしれない。ただし、吸収しているかどうかを他人に見せることはしたがらないのが厄介なところである。吸収できなかった時に、周囲が落胆するのを見るのが怖いからだ。それに吸収することに長けているだけで、吸収したものをどう使うかには向いていない。少なくとも、俺は客観的にそう結論づけていた。
そのスポンジ頭は、意外と簡単にこいつの言うことを信じてみることにした。別に一から十までを信用した訳ではないが、話に矛盾が無かったという点は評価に値するだろう。それに好奇心をくすぐられるというか、こういう子供じみた機械はロマンに溢れている。今のような無機質な毎日を送っていると、可能性が少ないにしても、そんな刺激的な夢を見たくなるものだ。
「状況は分かった。ただ一つ確認しておきたいんだが--」
「そういうことは、いちいち気にする必要はないわ。私は未来を知ってるんだから。あなたに必要最小限な情報を与えてあげてるのよ」
未来を知るのに代価は要るか、と聞きたかったのだが、すっかりお見通しらしい。確かに無駄なことを教えるほど面倒な事はない。きっと代価など要らないのだろう。悪魔と契約する時は命を捧げるらしいが、やはりそういうのは現実的ではないのかもしれない。考えてみれば、未来を知る毎に寿命が減ってしまったら、同時に未来が減るわけだから、未来を知る重要性も小さくなってしまう。
少し視点を変えて考えれば、何十年も前に「今すぐに遠くの誰かに連絡したい」という願いが叶うならば、たとえ命であろうとも捧げようとしただろう。それが今では小銭ほどの通話料で事足りてしまうのだ。きっと、そういうのと同じ理屈が働いているのだろう。
何はともあれ、今は知りたい未来を考えよう。だが、このスポンジ頭がすぐに詰まる。一年後に自分が何をしているかとか、自分が結婚するのはいつだとか、そういうどうでもいい内容しか浮かばないのだ。情けない。仕方ないので、ふと視界に入った中年男性のことを聞いてみることにした。あの人はこの時間帯になると一人で現れて、スーパーの袋をぶら下げて帰っていくのが日課である。あの年齢で一人暮らしなのだろうかと、そんなどうでもいいことを連想していたのだが、それは自分もそうなるんじゃないかという危機感があったからでは決してない。
「あの中年は、この後何をするんだ」
ちょうど道端に咲いている花の名前を尋ねるような気持ちで、何気なく聞いたつもりだった。
「勘が良いのね。あの男、ちょうどこれから死ぬところよ」
「……!?」
「10、9、8、7、6」
無造作に未来探知機はカウントダウンを始めた。もう誤解の余地はない。まさに今ここで、この男の命が絶えるという未来が現実になろうとしているのだ。
どうすればいい? 何かできるのだろうか? いや、俺に何かをしてやる義理があるのだろうか? そもそも、信じてみる気にはなったが、あまりにタイミングが良すぎやしないか? この機械は本当に未来探知機なのだろうか? とっさに色んな考えが浮かんで来ては、次の考えに押し潰され、あっという間にスポンジはズブズブになって吸収力の限界をオーバーした。
「5、4、3、2、1、じゃじゃーん」
未来探知機が感情のない声で時間を告げた時にはもう、俺はその場に偶然居合わせた役を演じることに決めていた。その瞬間、反射的に目を瞑る。あまり見たくないイメージが頭に浮かんだからだ。視覚が無くなってから、いつの間にか奥歯を噛み締めていたことに気付く。顎が強張っていて、上手く力を抜けない。この体は、まるで壊れたピエロ人形だった。
ところが。
結論から言えば、何も起こらなかった。人の減った暗い夜道を中年男性が歩いている構図がそこにあった。
「え?」
探知機はクスクスと笑っている。
「な~んちゃって。びっくりしたかしら?」
「おい……」
ふっと全身から力が解離して宙に浮かぶような感覚がした。もしかしたら本当にそうなったのかもしれない。足は体重を支えられなくなって、重力に負けた。腰を抜かすという経験は初めてだ。今日で二度目の嬉しい初体験である。
「でも、今日死ぬのは本当よ。しかも、殺されるわ」
「……!?」
取り締まりなんてしている場合ではなかった。信じないという選択肢もあるにはあるが、もし本当に事件が起こればこれが未来探知機だという証明になる。アインシュタインも驚愕の論証だ。それに、これから殺人事件が起こるというのに、ただ傍観している警察官がどこにいるというのだろう。もしいるなら、今すぐここに来て欲しいものだ。
「来るわ」
探知機が囁くと、まさにその通りに鎌を手に持った男が、影から生まれたように現れた。庭の隅に俺たちが隠れていることには、全く気付いた様子がない。あの中年が住んでいる家が意外に大きくて助かった。今ここで手錠をかけてもいいのだが、現時点では不法侵入でしかない。麻雀の役を待つようで悪いが、俺は殺人未遂で逮捕を宣言することしか考えていなかった。男が音を立てないように鍵のかかっていない玄関を開け侵入するのを見届けてから、俺たちは後を追った。もちろん侵入者の姿は暗くて分からないから、正確に言うと追ったのではない。頭を使ったのだ。
「侵入者のルートは?」
「玄関入ったら直進。突き当りを右。そこから階段を登って左。廊下の右側にある、数えて三番目の部屋に向かうわ」
最初は半信半疑のまま、後半は確信的に、示されたルートを音を立てないように進んだ。探知機のナビゲートは、一寸たりとも狂うことはなかった。
俺たちが部屋の中に飛び込んだ時には、あと少しで中年の男の首が吹っ飛ぶ所だったが、握りしめていた拳銃の方が一足早く、侵入者の腿を撃ち抜いた。それであっさりとこの事件は幕を閉じた。
かくして俺は、市民を殺人犯から救った英雄として一躍有名となった。それだけではない。功績を認められて刑事課に異動することになった。俺の人生が、ついに好転し始めたのだ。もう憂鬱な表情をすることもない。祝、案山子卒業。
それに未来探知機は、どんな難事件でさえも事前に教えてくれた。だから俺はあらかじめ対策を練り、あらゆる事件を迅速に解決した。未来を知っている時点でフェアではないが、対策を考えて実行しているのは俺だったし、何より事件の解決は社会のためになるのだから、後ろめたいなんてことはなかった。
今の俺は、敏腕刑事である。
そうこうしているうちに、また冬が来た。それに気付いたのは、ちょうど犯人が現れるという喫茶店に張り込んでいた時だった。辺りは暗く、家へ帰る人々が道に群れていた。その寒そうにマフラーを巻き直す様子が、車の中の俺にも寒さを流れこませる。
「そう言えば、あの頃もこんな感じだったな」
あの交通整理をしていた時からまだ一年しか経っていないことが驚きだった。
「そう言えば、そろそろ期限ね。すっかり教えるのを忘れていたわ」
「期限? 何の話だ」
「返却期限よ」
「DVDのレンタルなら借りた覚えはないが」
そう。こいつなら、たとえDVDの期限であってもちゃんと切れる前に教えてくれる。このままでは時間が無くなって返す時間が無くなるだとか、そういうことまで考えて教えてくれるのだからありがたい。
「何言ってるの。私のことよ」
俺にはその言葉の意味が、全く分からなかった。
「返す……って、返さなければいけないのか?」
俺はあの調子の良い無灯火の男を思い出していた。名前は……そうだ、軽自動車のスズキだ。
「いつ、って決まっていた訳ではないのだけれどね。それがちょうど一年だなんて、奇遇だわ」
それは既に最初から決まっていたのだというように、淡々と彼女は喋った。俺は必死になって記憶を引っ繰り返すが、そんなことを聞いた覚えは、やはり無かった。
「それはいつだ」
「だから今日よ」
「何時何分何秒、どこでどうやって返すんだ」
「言っておくけれど、それを避けようとしても無駄よ。結果は変わらないわ。もう未来は分かっても、変えられない。明日がクリスマスだからって恋人を探しても見つからないのと同じよ」
そんなはずはない。そんなはずはない。
「そんなことは聞いてない。言え。いつだ?」
「10、9、8、7、6、5、4」
カウントダウン? またこいつはしょうもない悪戯を。そう思ったのは最初だけだった。
ふとフロントガラスの向こうに自転車が見えた。無灯火だ。嘘だろ、と思いながら目を男の顔へと走らせる。まさにその顔はスズキだった。一年も前に一度しか会っていないというのに覚えているだなんて、人間の海馬は神秘的である。
気付くと俺はエンジンをかけ、アクセルを思い切り踏んでいた。躊躇なんてしていられなかった。こいつを返してしまうよりは、未来を予知して逃げながら一緒に過ごしていた方が、ずっとマシだと思えたのだ。
「3」
まさに車が三台集まったかのような轟音を響かせて、バンパーが無灯火の自転車へと迫っていった。自転車の男は、避けようという素振りを見せない。
「2」
気付いていないなら好都合。自分が狂っていることは自覚していたが、それを止めようとする自分は皆無だった。今まで不可能にも思えるいくつも事件を解決してきたんだ。この俺にできないことなどない。そう言い聞かせた。
「1」
男の顔に、笑みが見えた。
「じゃじゃーん」
「あなたのお名前は?」
「……」
「もしもし? 聞こえてます?」
「……」
「日本語は分かりますか? ドゥー、ユー、アンダスタンド、ジャパニーズ?」
「……俺は記憶喪失なんですか?」
ここは病室なのだろう。白いベッドとカーテンがあるだけの、簡素な部屋だった。しかし目が覚めていきなりそんなことを言われても、すぐに理解できるはずがない。まぁ、最初の質問で何となく状況は把握していたが。
「いえ。念のための確認ですよ。頭を強く打っていらっしゃるので」
「そうなんですか? それはどうして?」
「車で事故を起こしたんですよ。ブロック塀に追突して車は大破しましたが、幸いお怪我はなかったようです」
「それは……覚えていませんね。何時頃の話でしょうか?」
「昨日の夕方から夜にかけての時間帯だと、お聞きしています」
「奇妙ですね。私は昨日のその時間は無灯火自転車の取り締まりをしていました。車を運転する用事なんてあるはずがないのですが」
「もしかして勘違いされているのでは? 今日は○☓△□年12月--」
「○☓△□年!? それは本当ですか!?」
これは今世紀最大の勘違いだ。じゃあ、今年も早くインフルエンザの予防接種をしないと。いや、今年はもうしてしまったのか?
ブロック塀に車がはまりこんでいた。フロントガラスは割れ、ボディにはいくつものへこみと擦り傷がついて、衝突の強さを物語っている。あれにぶつかっていたらひとたまりもなかったな。笑いを堪えながら、運転席のドアを無理やりこじ開けた。
中には一人の男。あの時の警察官だ。まるで掘り起こされた木乃伊のように、力なくシートの上に乗っかっていた。だがもうこいつに用はない。片っ端からこいつのポケットに手を突っ込み、久しぶりの感触を探り当てると、抜き取った。
「ご無沙汰だな。今度の相棒はどうだった?」
「比較的楽しめたわね。でもちょうど飽きてきた頃だったから、退屈してたところよ」
「次は何が良い? 逆に殺人犯とかどうだ?」
「そうね。でもどうせあげた分の記憶を無くしてしまうんだし、もっと大きいことをするような犯罪者がいいわ。教えた未来より、もっとゾクゾクさせてくれそうじゃない?」
「それは面倒だな。渡さなければいけない俺の身にもなってくれよ」
「いいじゃない。分かっている未来なんて無いのと同じだもの」
「そりゃそうだが」
スズキは同意するように頷くと、自転車を漕いでその場を去った。
その行く先を、照らさぬままに。