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ジゼルと約束の手紙

作者: 矢口愛留
掲載日:2026/10/29


 私は、死んだはずの幼馴染みと文通を続けていた。

 そして、これから私は、その幼馴染みと会う約束をしている――。


*


 クロフォード男爵領の中央部に位置するリモーネの街は、領都とは思えないほど小さな街だ。

 男爵領は、農業を主産業とした、のどかで穏やかな領である。


 領主のクロフォード男爵は、貧乏ではあったが、人柄の良い貴族だった。農地の視察をして、領民と一緒に畑の手入れをする、そんな人だ。


 私、ジゼルは、そんなクロフォード男爵家唯一の女児として生を受けた。上には兄が二人いて、どちらも他の貴族の屋敷に奉公へ出ている。

 兄たちと違い、私は、領地から外へ出て他の貴族と交流することもなかった。社交デビューもまだ先だ。

 それよりも、農作業や牛馬の世話をしている方が性に合っていた。


 蜂蜜色の髪は肩口で切りそろえられ、琥珀色の瞳は、快活な印象と言われる。ひらひらした服よりも、作業用のつなぎの方が着慣れているぐらいだ。


 私には、気心の許せる幼馴染みがいた。

 名前は、アーティ。ダークブラウンの髪と、ヘーゼルの瞳をもつ少年だ。

 アーティの家族は、クロフォード男爵家のすぐそばで診療所を開いている。両親も私もその診療所を利用していたので、家族ぐるみで仲が良かった。


 元気で愛嬌のある顔立ちと言われる私とは対照的で、アーティは落ち着いた雰囲気をもつ、理知的な面立ちの美男子だった。目も鼻も唇も眉も、すべてが完璧に整っている。

 私と彼が並んでいて、どちらかが貴族だと言ったら、十人に十人、アーティの方が貴族だと思うに違いない。


 私は、彼が優しいことも、賢いことも、強かな面があることも、それから――彼が私を、私が彼を、互いに想いあっていることも、知っていた。


 私はよく、アーティと一緒に馬に乗って、近場にある野原へ出かけた。

 一面にシロツメクサが咲いている、陽の光に満ちた気持ちの良い場所だ。


「ジゼル、僕だけのお姫様」


 そう言って、甘い笑顔を浮かべたアーティは、ある日、シロツメクサの指輪を編んで贈ってくれた。

 私の薬指にそれを通して、初めての口づけを交わしたことは、私たちだけの大切な大切な秘密。

 幼かった私たちの心に秘めた、内緒の約束の証だった。


*


 しかし。

 悲劇は、静かに、そして唐突に訪れた。


 男爵領が、歴史的な凶作に見舞われたのである。作物への伝染病だ。

 主食の芋類が枯れ、災害用に貯蔵されていた食糧を切り崩しながら領民に配ることで、男爵家は領民共々、なんとか冬を越すことができた。


 しかし、伝染病の脅威はその年に留まらなかった。

 次の年には納税もままならなくなり、男爵家唯一の女児であった私は、財政および食糧の支援と引き換えに、親戚の家へ養子に出されることとなった。

 ――私が十四歳、アーティが十五歳となった年の、春のことである。


「ジゼル……不甲斐ない親で、すまない」


 すっかり痩せてしまった両親が、涙を流しながら私を抱きしめる。

 目の前にはすでに迎えの馬車が来ており、周りには見送りのために領民たちが集まっていた。


「お父様、お母様、謝らないで。私が養子になるだけで領が救われるなんて、すっごくラッキーじゃない!」


 私も本当はこの地を離れたくないし、不安でいっぱいだ。けれど、泣きたい気持ちはぐっとこらえる。私が泣いてしまったりしたら、皆心配するし、後悔するだろうから。


 私は、両親を安心させるように、にこりと笑顔を浮かべて続けた。


「私なら大丈夫。お父様、言っていたでしょう? オルコット伯爵は、とても優れた徳のある人だって」


 私が養子に出される家、オルコット伯爵家は、お父様の従姉妹(いとこ)が嫁ぎ、縁戚となった家だ。現当主は、信頼のできる人格者なのだと聞いている。

 ただ、子宝に恵まれなかったために、養子となってくれる親類の子を探していたのだそうだ。


「ああ。オルコット伯爵なら、ジゼルのことを本当の娘のように可愛がってくれるだろう」

「だったら、平気よ。心配ないわ」

「ジゼル……」


 両親が、私をかわるがわる抱きしめる。

 二人は寂しさを残したまま微笑み、慈しみのこもった声で私に声をかけた。


「忘れないで、ジゼル。オルコット伯爵令嬢になっても、貴女は、私たちの大切な大切な娘よ」

「ああ、そうだぞ。いつでも遊びにおいで。歓迎するよ」

「……うん!」


 私は、名残惜しさを振り払うように、両親から一歩離れる。

 すると、私たちの別れを見守っていた領民たちの輪から、アーティが前に出てきた。


「……ジゼル」

「アーティ……」


 陽に当たると色が変わるヘーゼルの瞳は、少し潤んでいた。

 アーティは眉尻を下げると、私に一通の手紙を渡す。


「新しい家に着いたら読んで。それと……ジゼルに手紙を送ってもいい? これからは、文通友達(ペンフレンド)になろう」

「……うん! 楽しみに待ってる。私もお手紙を送るね。それから――」


 私は、アーティに押し花の栞(しおり)を差し出した。シロツメクサの花と、四つ葉のクローバーで作った、素朴な栞だ。

 アーティは、嬉しそうに口元を綻ばせた。


「――ありがとう。大切にする」

「またね、アーティ。元気でね」

「ジゼルも、元気で」


 私は、しっかりと微笑んだ。

 またね、と言ったけれど、私はこれから伯爵令嬢になるのだ。今後は、領外の平民と遠距離恋愛をするなんて、許されないだろう。

 だからこれは、恋の終わりのお別れなのだ。アーティの記憶には笑顔の私を残したかった。


 アーティの方も、それが分かっているのだろう。

 お互い、泣きそうなのをぐっとこらえて笑っているのが、手に取るように分かった。


 そうして私は、笑顔で馬車に乗り込む。

 皆の姿が見えなくなるまで無理矢理笑みを貼り付けながら、私は、生まれ故郷を後にしたのだった。


*


 オルコット伯爵領へは、クロフォード男爵領から馬車で二週間以上もかかる。

 長旅の果て、無事伯爵領の領都にたどり着いたときには、私はすっかり疲れ切っていた。


 到着した私を数名のメイドたちが出迎え、部屋へと案内してくれた。

 伯爵夫妻とは、夕食の席で挨拶をすることになっている。時間があいているのは、私が長旅で疲れているだろうという配慮からだ。


 私は早速少しだけ休ませてもらったが、まだ時間に余裕があったため、メイドに頼み、屋敷と庭を案内してもらうことになった。



 オルコット伯爵の屋敷は、クロフォード男爵家と何もかもが異なっていた。

 建物の大きさ、質、全てが段違いだ。家具も絨毯も、幾らぐらいの値がつくのか、私には想像もつかない。

 天井を飾るシャンデリアも大きく、透明な石の一粒一粒が星の灯のように瞬き、煌めいている。

 部屋もたくさんあって、一人で歩いたら迷子になってしまいそうだ。


 立派な庭には、野菜や果樹ではなく、園芸植物が整然と植えられていた。

 美しい噴水は、畑に散布する取水用ではなく、見た目重視のオブジェだ。

 その近くには、お茶ができそうな上品なガーデンテーブル。日よけのパラソルまでついている。


 私は、美しい庭園を眺めながら、ある場所で足を止めた。

 ピンクゼラニウムの花壇。その奥の地面に、シロツメクサが咲いていたのだ。

 ゼラニウム越しにそれを眺め、故郷に想いを馳せていると、後ろから声がかけられた。低く深い男性の声だ。


「お嬢様は、ゼラニウムの花がお好きなのですか」

「え?」

「ああ、これは失礼。驚かせてしまいましたね」


 私が振り返ると、穏やかな微笑みをたたえている男性と、ばっちり目が合った。


 背が高く優美な男性で、鳶色(とびいろ)の髪を後ろでひとつに纏めている。年齢は、二十代前半だろうか。物腰も表情も柔らかいが、アイスブルーの瞳は油断なく私を観察している。


「私はこの屋敷の執事、トリスタンと申します。先程はお出迎えに伺えず、申し訳ございませんでした」

「い、いえ。私、ジゼルと申します。トリスタン様ですね。これからよろしくお願いします」


 私は慌ててスカートの裾を摘まみ、一礼しようとした。しかし、私が膝を曲げる前に、彼はそれを手で制する。


「私のような一使用人に、敬語も敬称も不要でございますよ、ジゼルお嬢様」

「は、はい、分かりま……分かったわ、トリスタン」

「それで結構」


 トリスタンは目を細めて綺麗に微笑むと、後ろに控えていたメイドに「そろそろお支度を」と伝え、私に向けて優雅に一礼し去って行く。

 その所作は、とても洗練されたものだった。伯爵家の執事だから覚えた、というわけではなく、彼自身、どこかの貴族家出身なのだろう。


*


 部屋に戻って身を清め着替えを済ませると、時間まで、アーティからもらった手紙を開封し読むことにした。

 とても分厚い手紙だ。何日もかけて、ゆっくりしたためたのだろう。


『ジゼル、愛しい僕のお姫様。無事にオルコット伯爵家に到着したかな。君と直接言葉を交わすことは、もう、できないかもしれない。だから、君との思い出を手紙に残すことにした』


 手紙には、あんなことがあったね、こんなこともあったね、と。

 私との思い出を懐かしむように辿り、大切に綴られていた。


「……アーティ……」


 まなじりに、じわじわと涙がたまっていく。私は涙を我慢しながら、ゆっくり手紙を読み進めていったが、結局、溢れる涙を止めることはできなかった。


 ――愛しい人との決別。

 この手紙は、まさにそれだった。


 文章にすることで、自分の気持ちを整理する。そして、それを美しい過去へと転化する。そんな手紙だった。


 私はハンカチをそっと目元に当てる。

 滲む視界の中、まばたきを繰り返して、私は続きを読み進める。


『君との思い出の中で、一番大切なもの――あの日の約束だけは、僕の胸の中にだけ、しっかり刻んでおきたい。言葉にしてしまうのは、もったいない気がするんだ』


 シロツメクサの咲く野原で交わした、あの日の約束。初めてのキス。

 その日のことは、手紙には記されていなかった。けれど、私の胸にも、確かに美しく刻まれたままだ。


『これからはどうか、文通友達(ペンフレンド)として、君と手紙を交わすことを許してほしい。お返事を、待っています』


 手紙はそんな風に締めくくられていた。最初から最後まで、彼らしい几帳面な文字だ。

 読んでいると、心にずきずきと鋭い痛みが走る。けれど、血が通ったその痛みさえも愛おしくて、私は手紙を胸に掻き抱き、瞼を閉じた。



 しばらくして、私は瞼を開く。

 もう涙が溢れてこないことを確認して、私が大きく息をついたところで、部屋がノックされ開かれた。トリスタンだ。


「お嬢様、お時間です」

「今、行くわ」


 私は急いで文机の引き出しに封筒をしまうと、そのまま彼に付き従って、伯爵夫妻の待つダイニングへと向かったのだった。


*


 伯爵夫妻は、噂通りの人格者で、私をあたたかく迎えてくれた。

 そして、手を尽くして男爵領の支援を行うから、心配するなと励ましてくれた。

 クロフォード男爵領の主食は芋類だが、オルコット伯爵領の主食は麦類である。そのためもあって、この地域では疫病の影響を受けておらず、食糧は充分に確保できているようだ。

 私は深く頭を下げ、凶作の終息を祈った。



 ただ。

 伯爵夫妻は優しかったが、私に『貴族令嬢』であることを強く求めた。


 マナーや勉強、楽器、絵――部屋にこもって座りっぱなしは、どうにも私の性に合わない。

 ダンスの練習は身体を動かせるからまだ良いのだが、慣れないヒールを履いて踊るのは難しく、足が痛くなってしまう。

 刺繍もそうだ。繕い物をしていたので針仕事は得意だったが、刺繍はまた別物。繊細な図面とずっと向き合っていると、目がチカチカしてくる。


 伯爵家では、とても良くしてもらえる。

 美味しいご飯だけでなくおやつまで出るし、ベッドはふかふかだし、綺麗なドレスを着られるし。


 けれど、馬を駆って遠くへ行くことも、野を走り回ることも。

 庭に出て土いじりをすることも、厩にいる馬たちのお世話をすることも、厨房で簡単な料理を作ることすらも。

 今まで当たり前だったことは、何一つ許してもらえない。


 ――なんだか、ドレスの下のコルセットみたい。

 外見は綺麗だけれど、ぎゅうぎゅうに締め付けられて、身動きが取れないのだ。

 そして、苦しくても、着飾らせてもらっている以上、私は笑っていなくてはならないのである。


*


 そんな中、アーティとの文通は、私の心の支えになっていた。

 というより、私は手紙のやり取りに、かなり強く依存していた。


 最初にもらった手紙ほど分厚い封筒は届かなかったが、月に三、四通ほどの頻度で、必ず手紙を交わしていた。

 郵便配達には、秘匿された特別な方法があるらしく、馬車で二週間かかるような場所でも、三、四日で配送できるのだ。


 アーティからの手紙は、彼の生活や男爵領の現状が伺える、近況報告と雑談のような内容が主だ。その文字の端々に、彼が私を今も大切に想ってくれていることが感じられた。

 私もアーティに手紙の返事を送り、彼もそれを楽しみにしているようだった。


「トリスタン、お手紙届いてる?」

「ええ。今お持ちしようとしていたところです」

「ありがとう!」


 私は手紙が届く頃になると、自分からトリスタンのところへ行き、手紙を催促した。

 届いていないと落胆し、届いていればこうして大喜びで受け取る。

 迷惑かもしれないとは思うが、どうしても待ちきれないのだ。


「お嬢様は、ご友人からのお手紙が本当に楽しみなのですね」

「うん! だって、男爵領は遠すぎて、情報が全然入ってこないでしょう? アーティからの手紙だけが、故郷と私を繋いでくれてるんだよ」


 新しい生活――伯爵夫妻にも使用人たちにも良くしてもらっているけれど、外には出せない、満たされない気持ちを抱えている自覚が、私にはある。

 私は手紙を大事に胸に抱き、そっと瞼を閉じた。


「アーティの手紙を読むとね、思い出すの。お日様の暖かさを。草花を揺らす風の柔らかさを。雨が濡らす土の匂いを」


 シロツメクサの野原が。お父様やお母様、領民たちの笑顔が。アーティの、とろけるような甘い微笑みが。


 瞼の裏に、今もありありと浮かび上がる。


「……お寂しいですよね」


 目を開ければ、トリスタンが眉尻を下げて、案じるように私を見つめていた。


「でも、お義父様もお義母様も、皆様も、とても良くして下さるわ。不満なんて……ないよ」


 私はそう言って微笑むが、トリスタンには分かっているようだ。彼は、さらに心配そうな表情をしたのだった。


*


 私がオルコット伯爵家に引き取られて、半年ほどが経過した冬。

 アーティからの手紙が、ある日を境に一切届かなくなってしまった。


「こんなに長い間手紙が届かないなんて、初めてだわ。何かあったのかしら」

「大雪が降って、道が閉ざされてしまったようですよ。それで郵便が遅れているのではないでしょうか」


 いつまで経っても届かない郵便に、私がそわそわしているのを見て、トリスタンがそう教えてくれた。


「大雪?」

「ええ。寒波が続き、馬車道の除雪もままならないようです」

「でも、郵便って、特別な方法で届けているのでしょう?」

「ですが、各家から郵便屋、郵便屋から各家へは、人力で届けています。郵便屋の間では手紙がやり取りできても、配送の方がままならないのでしょう」

「そう、なのね……」


 雪が原因ならば、春になって雪が解ければ、手紙は届くだろう。

 私は返事が来たら出そうと思いながら手紙をしたためつつ、待つことにした。




 だが。



 雪が解けて春を迎えても、アーティから手紙が届くことは、なかった。


 アーティ、もしくは男爵領に何かあったのだろうか。

 そう訝しんだ私は、義父に尋ねてみようと、執務室に向かった。


 義父の執務室の扉をノックしようとしたところで、私の手は止まる。

 中で、誰かが義父と話しているようだ。声からして、トリスタンだろう。

 仕事の邪魔をしてはいけないので、どのくらいで話が終わるか見計らおうと、扉に耳をつけて聞き耳を立てた。


「……それで、リモーネの街は一夜にして滅びたそうだ。住民の生存は絶望的とか……」

「……お嬢様には……」

「……今は伝えない。何にせよ正確な情報を……」


 私は口から心臓が飛び出そうになった。慌てて口を押さえて、物音を立てないように静かに執務室から離れ、自室に向かう。

 私は自室に戻ると、「体調が優れないから」とメイドに伝え、ベッドの中で丸まって、震えて過ごした。


*


 それからというもの、私は憔悴し、食事も喉を通らなくなった。

 当然、勉強もままならなくなり、家庭教師を呼ぶのも中止している。

 庭に出る元気もなく、一日中部屋にこもって、遠くの空を眺めて過ごす。


「お嬢様、少しでいいですから、何か召し上がってください」


「お庭に出てみるのはどうでしょう。とっても良い天気ですよ」


 メイドに何を言われても反応しない私を見かねて、トリスタンが部屋を訪れた。

 故郷が滅びた件を私が聞いてしまったことは、彼らも知らないはず。ただのホームシックだと思っていることだろう。


「お嬢様、ゼラニウムの花が咲きました。とても綺麗ですよ。見に行きませんか?」

「……ゼラニウム」


 私は、ゼラニウムの花壇の奥に控えめに咲いていた、シロツメクサを思い出す。


「さあ、参りましょう。失礼いたします」


 わずかに目に光が戻ったことに気がついたのだろう。トリスタンは私の背中に手を添え、支えた。私の肩にショールをかけ、エスコートして庭へと連れ出す。


 久々に浴びた陽の光は暖かく、春めいていた。茶色く寂しげだった庭は、いつの間にか、色とりどりの花と緑に彩られている。


 ゼラニウムの花壇の奥には、今年もちゃんと、シロツメクサが咲いていた。


*


 その翌日。私宛てに、手紙が届いた。

 差出人はアーティとなっているが――、


「……違う」


 彼の筆跡によく似せてはいるが、これは全くの別物だ。おそらく、トリスタンあたりの差し金だろう。


『怪我をして、筆が執れなかった。手紙を送れなくてごめん。その影響でまだ上手く書けないから、頻度も減ると思う』


 ――筆跡を誤魔化すための嘘だろう。

 それでも、あのとき執務室での会話を聞いていなかったら、信じてしまっていたと思う。


「……卑怯よ」


 トリスタンの優しさなのだろう。

 私に元気を出してほしくて、よかれと思ってやったのだろう。


 それは分かるし、心配してくれる気持ちは嬉しい。

 だが、こんな手を使って、言いづらいことを先延ばしにするのは、相手の傷を深くするだけだ。


 私は、ため息をつきながらも、すぐに返事をしたためる。そして、アーティへ宛てたその手紙を、トリスタンに渡した。


「お手紙、承りました」


 トリスタンは少しほっとしたように微笑み、手紙を受け取ったのだった。



『アーティへ。かつて約束を交わしたあの花が、庭で綺麗に咲いていたの。今も大好きな花よ。そちらでは、どんな色のお花が咲きましたか? 怪我、お大事にね』


 ピンクゼラニウムの花言葉に、『約束』というものがある。トリスタンだったら、間違いなく、ゼラニウムのことだと勘違いして返事をするだろう。

 私は、返事を待った。


*


 それから二週間ほど経った頃。

 私の気持ちも落ち着き、少しずつ元通りのジゼル・オルコットとして振る舞うことができるようになってきた。

 心はまだ全く晴れていないけれど、義父母に心配をかけ続けていたら、いつまでも真実を教えてもらえないだろう。

 だからこそ、辛くても表面上は元気そうに振る舞うことにしたのだ。


「お嬢様、お手紙です」


 そんな折、トリスタンから、差出人がアーティとなっている手紙を渡された。


『ジゼルへ。こちらは、残念ながら花が咲かなかったんだ。来年は、見られたらいいな』


 シロツメクサは、余程の荒地でもなければ、どこにでも咲く花だ。私は、落胆した。


 私は手紙を折りたたみ、文机の引き出しにしまう。

 そうして、何気ない風を装って、今日もまた退屈なレッスンを受けるのだ。


*


 そんなある日。

 私はお義父様の執務室に呼ばれた。

 ――男爵領のことを話してくれる気になったのだろうか。


 しかし、私の期待は、すぐさま打ち砕かれることとなった。


「ジゼル。突然なのだが、婚約を結んでもらえないだろうか。相手は、トリスタンだ」

「……私が、トリスタンと、婚約?」


 トリスタンは、眉尻を下げ、申し訳なさそうにこちらを見ている。


「知っての通り、トリスタンは私の右腕として、尽くしてくれている。伯爵領を継がせても良いと思えるほどに。ジゼルも、彼を頼りにしているだろう?」


 トリスタンは、優雅に一礼してから、話を引き取る。


「お返事は、急がなくて結構です。お嬢様が十六歳になるときに、改めて婚約を申し入れさせていただこうと思います」

「ジゼル。突然のことで混乱していると思うが、まだ時間はある。ゆっくり考えてみてほしい」

「……承知いたしましたわ」


 オルコット伯爵が、二人いるお兄様のどちらでもなく、私を養子にしたのは、このためだったのだ。

 有能な執事、トリスタンを、自分の後継にするため。

 つまり、この婚約からは、逃げられない――。


*



『アーティへ。婚約が決まってしまいそうです。最後にもう一度、会いたかったわ』


 私は、トリスタンが読むのだと知っていて、アーティへの手紙を書き続けていた。


 もう、アーティはいない。

 今現在誰よりも近くにいて、私に優しく残酷な嘘をつき続けている、トリスタンが私の婚約者になる。


 トリスタンのことは、嫌いじゃない。

 彼が夫になったら、これから全てがうまく回っていくのだろうということも、容易に想像がつく。

 逃げられないことも、知っている。


 けれど。

 私の心には、まだアーティが住んでいる。

 誰かがはっきりと、「彼はもうこの世にいない」と告げてくれるまで――私の心は止まったままだ。



 アーティ……否、トリスタンからの返事が届いたのは、ひと月ほど後のことだった。

 トリスタンが、しばらく休暇を取っていたのである。

 やはりアーティの正体はトリスタンなのだと、私は確信した。


 しかし、私は、その返事を見て目を丸くすることになった。


『ジゼルへ。僕も、君に会いたい。二週間後の正午。たとえ返事がなくても、同封した地図の場所で、君を待ってる』


「待ってる、って……そんな軽々しく」


 きっと、その時間にその場所へ行っても、待っているのはトリスタンというオチだろう。

 そこで、男爵領で起こった悲劇の真実を、教えてくれるつもりだろうか。


「……それにしても、やっぱり悪趣味だわ」


 あのとき話を盗み聞きしていなかったら、私はきっと、大喜びで出かけただろう。

 楽しみにして、何日も寝られなくて。お洒落をして、何を話そうか考えて。

 ――そうして出かけた先で、トリスタンが待っていて、私を崖から突き落とすのだ。


「トリスタンと婚約なんて、私、やっぱり……。ううん、それより、待ち合わせ、どうしよう」


 手紙には、『たとえ返事がなくても』と書かれている。

 トリスタンがどういうつもりでこんな文言を入れたのかは知る由もないが、一応、行ってみるべきだろう。


 私は外出の許可を取り、二週間後に、約束の場所へ向かうことにしたのだった。


*


 そして迎えた約束の日。

 アーティには会えないのだと分かってはいたが、流石に少し緊張していた。

 トリスタンは、私と一緒の馬車に乗って、待ち合わせ場所についてくるようだ。

 どうするつもりだろうかと、ちらちら顔色を伺うが、彼は素知らぬ顔をしている。


 そうして、馬車は待ち合わせ場所の近くに停車した。


「到着いたしました。私は馬車で、きっちり一刻だけ、お待ちしております」

「えっ?」


 予想に反して、トリスタンは馬車の横に控えて、動くつもりはなさそうだった。私は思わず驚きの声を上げる。


「お嬢様が戻られても、戻られなくても。お一人でも、そうでなくても。一刻ののちに、この馬車はオルコット伯爵家に帰ります。そして、お嬢様がどのような選択をされても、私も伯爵も、受け入れると決めております」

「それは、どういう……」

「行ってらっしゃいませ」


 トリスタンは答えず、完璧に微笑んで一礼すると、私を見送った。



 待ち合わせの場所は、領都郊外の野原だ。

 大きな木が一本立っているから、そこを目印にしようと記されていた。

 ここだったら、春になればシロツメクサが咲くかもしれない。


 私は、懐かしい草花の匂いと、靴で踏む土の感触を感じながら、大木に近づいていく。


 そこには、すでに誰かが待っているようだった。

 マントを羽織った、旅姿の男性だ。ダークブラウンの髪が、柔らかく風に揺れている。

 彼は大木に背中を預け、片手で本を読んでいた。

 その本の間には、見覚えのある栞――。


「……アーティ……?」


 絞り出した私の声は、思った以上に掠れていた。

 しかし、その小さな声を、彼の耳はしっかり拾ったようだ。

 彼は本を片手で器用に閉じると、預けていた背中を離し、私の方を向いた。


「ジゼル」


 ヘーゼルの瞳が、私を見つめて揺れていた。

 もう片方の腕があったはずの袖を、風にたなびかせて――。


*


 一刻ののち。

 馬車は、オルコット伯爵家に向けて、ゆっくりと動き始める。

 カーテンが引かれ、中を覗き見ることは難しい。

 爽やかな風と陽光を浴び、馬車は軽やかに走りゆくのだった。



ジゼルが最後に誰を、何を選んだのか。

アーティたちに何があったのか。

作者の中には明確な答えがありますが、作中ではあえてその答えは明示しませんでした。

各々で想像してお楽しみいただけたら幸いです( *´艸`)


お読みくださり、ありがとうございました♪

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