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# 第一話 崩れ出した日常



 午前七時。


 目覚ましが鳴った。


 佐伯 恒一は手を伸ばしてアラームを止め、少し寝返りを打った。


 次に目を開けたとき、部屋はさっきより明るくなっていた。


「……ん?」


 枕元のスマートフォンを見る。


「やば」


 思っていたより時間が経っている。


 身体を起こして洗面所へ向かい、冷たい水で顔を洗った。


 ようやく目が覚めてくる。


 歯を磨きながらスマートフォンを確認する。


 特に変わった通知はない。


 部屋ではテレビがついたままになっていて、朝の天気予報が流れていた。


『午後からは雨となるでしょう。お出かけの際は傘を――』


 佐伯は歯ブラシをくわえたままテレビを見る。


「傘、持ってくか」


 歯磨きを済ませ、もう一度スマートフォンで時間を確認する。


 すぐにシャツに袖を通し、鏡の前でネクタイを締める。


 髪を軽く整え、鞄を持って玄関へ向かった。


 靴を履き、時間を確認する。


「間に合うか」


 そのまま家を出た。


 傘は玄関の傘立てに残ったままだった。


     ◆


 会社に着いたのは八時四十分。


 始業まで二十分。


「おはようございます」


 何人かに挨拶し、自分の席に着く。


 パソコンを起動すると、昨日処理しきれなかったメールが十二件並んでいた。


 一番上を開いて三行ほど読んだところで、小さく息を吐く。


「……めんどくさ」


「聞こえてるぞ」


 背後から声がした。


 振り返ると黒崎が立っていた。


「独り言です」


「独り言でも聞こえる」


「気をつけます」


「昨日も聞いた気がするな」


「昨日は言ってませんよ」


「じゃあ一昨日だ」


「適当じゃないですか」


 黒崎はそのまま自分の席へ向かう。


 佐伯もモニターへ向き直った。


 黒崎とは、だいたいいつもこんな感じだった。


     ◆


 午前十一時過ぎ。


「佐伯」


「はい」


「昨日の見積もり」


「ああ、できてます」


 佐伯は書類を黒崎へ渡した。


 黒崎は立ったまま目を通す。


 数秒後、一か所を指で叩いた。


「ここ」


「はい?」


「数字違うぞ」


 佐伯が覗き込む。


「……合ってません?」


「桁」


「あ」


「危なかったな」


「まだ出してないんだからセーフですよ」


「俺が見つけたからな」


「恩着せがましいなあ」


「じゃあ、このまま出すか?」


「直します」


「そうしろ」


 黒崎が書類を返す。


 少し歩いたところで足を止めた。


「そういえば、先週の書類は?」


「それはもういいじゃないですか」


「まだ見つかってないのか」


「コピーあるからいいんですよ」


「俺が持ってたやつな」


「だから恩着せがましいんですよ」


 黒崎がわずかに笑う。


「なくすなよ」


「はい」


 愛想がいい人ではない。


 仕事以外の話をすることもほとんどない。


 それでも、嫌な上司ではなかった。


     ◆


 午後三時過ぎ。


 佐伯はコピー機の前に立っていた。


 一定の音を立てながら紙が吐き出されていく。


 カタ。


 小さな音がした。


 佐伯は顔を上げる。


 窓際のブラインドが、わずかに前後へ揺れていた。


 窓は閉まっている。


「……?」


 風でも入ったのだろうか。


 何となく近づこうとしたところで、


「佐伯」


 後ろから黒崎に呼ばれた。


「はい?」


「午前中の見積もり、直したか?」


「あ、直しましたよ」


「確認した?」


「しました」


「本当に?」


「しましたって」


「ならいい」


「信用ないなあ」


 佐伯はコピーされた紙を取り出して揃える。


「机に置いとけばいいですか?」


「ああ」


「分かりました」


 黒崎はそのまま自分の席へ戻っていった。


 佐伯も後を追うようにコピー機を離れる。


 数歩進んだところで、何気なく振り返った。


 ブラインドはもう止まっていた。


     ◆


 仕事が終わったのは午後七時半頃だった。


 会社を出ると、雨が降っていた。


「あ」


 そこでようやく朝の天気予報を思い出した。


「傘、忘れた」


 少し先では、黒崎が傘を差して歩いている。


 ちゃんと持ってきたらしい。


 佐伯は鞄を頭の上にかざし、駅へ向かった。


 途中のコンビニへ駆け込み、弁当と缶ビールを買う。


 レジの横にはビニール傘が並んでいた。


 一本買おうか迷ったが、ここから駅まではそれほど遠くない。


「まあ、いいか」


 そのまま会計を済ませ、店を出た。


 雨はさっきより強くなっていた。


 佐伯は鞄を頭の上にかざし、足早に駅へ向かう。


 交差点へ差しかかったところで、ふと前方に目がいった。


 歩道を一台の自転車が走ってくる。


 雨具を着た男が乗っていた。


 横断歩道の信号は青。


 自転車はそのまま横断歩道へ入っていく。


 同時に、一台の車が交差点を曲がってきた。


 佐伯は足を止めた。


 車の運転手が、自転車を見ていない。


「危な――」


 ぶつかる。


 そう思った。


 次の瞬間。


 自転車が止まった。


 ブレーキをかけたわけではない。


 男が足をついたわけでもない。


 自転車も、乗っている男も。


 完全に動きを止めていた。


 雨は降り続けている。


 車も動いている。


 歩道の人間も歩いている。


 自転車と男だけが、そこから切り取られたように動かない。


 一秒。


 二秒。


 車が自転車のすぐ前を通り過ぎた。


 次の瞬間、自転車が再び動き出す。


「うわっ!」


 男は突然バランスを崩し、自転車ごと横へ倒れた。


 佐伯は駆け寄る。


「大丈夫ですか?」


「あ……はい」


 男は地面に手をつき、ゆっくり身体を起こした。


「怪我してません?」


「大丈夫だと思います」


 少し先で車も停まった。


 運転手が慌ててこちらへ走ってくる。


「すみません! 大丈夫ですか!」


 佐伯は男が立てるのを確認しながら、さっきの光景を思い返していた。


 止まった。


 確かに止まっていた。


「大丈夫か?」


 聞き覚えのある声がした。


 見ると、傘を差した黒崎がこちらへ歩いてくるところだった。


「黒崎さん」


「怪我は?」


「俺じゃないですよ」


「見れば分かる」


「じゃあ聞かないでくださいよ」


 黒崎は倒れた男へ目を向ける。


「立てるか?」


「はい。大丈夫です」


 黒崎は道路に倒れた自転車を起こした。


 佐伯はその横顔を見ながら、ふと思った。


 黒崎も見ていたんじゃないか。


「黒崎さん」


「なんだ」


「今の、見てました?」


「ああ」


「自転車、止まって見えませんでした?」


 黒崎の手が一瞬止まった。


「……何が?」


「車とぶつかりそうになったときです。急に止まったっていうか」


 黒崎は自転車を歩道の端へ寄せた。


「事故みたいな場面を見ると、時間がゆっくり流れているように感じることがある」


「スローモーションみたいに?」


「ああ」


「でも雨とか車は普通に動いてたんですよ」


「突然のことで、そう見えたんだろ」


「そうなのかな……」


 佐伯はもう一度交差点を見る。


 今は何も変わったところはない。


 信号が変わり、車が走り、人が歩いている。


 いつもの交差点だった。


 少しして警察へ連絡することになった。


 黒崎が佐伯を見る。


「お前、ずぶ濡れだろ。ここはいいから帰れ」


「でも俺も見てましたよ」


「何かあれば明日聞く」


 佐伯は少し迷った。


「……じゃあ、お願いします」


「ああ」


 佐伯は駅へ向かって歩き出した。


 十数メートル進んだところで、一度だけ振り返る。


 黒崎は自転車の男でも、車の運転手でもなく、交差点を見ていた。


 雨の降る道路を、じっと。


 何かを探すように。


 やがて信号が変わった。


 人々が横断歩道を渡り始める。


 いつもの街。


 いつもの帰宅時間。


 いつもの雨の日。


 何もおかしなところはない。


 ――そのはずだった。

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