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『裁く席から、降りて』──みんなの正義に、私は立たない

作者: 月白ふゆ

現代の学園にも、「断罪劇」みたいな瞬間があると思う。

壇上も判決もないのに、空気だけで誰かが“悪者”になっていく瞬間が。


「みんなが困ってる」

「空気が悪くなる」

「被害者ぶってる」


そういう曖昧な言葉は、証拠がいらない。

だからこそ強いし、言い返そうとすると、いつの間にか“反論する側=面倒な人”にされてしまう。


この短編は、そんな現代的な断罪に対して、正しさで殴り返さない話です。

証拠も理屈も持ち出さず、相手を論破もしない。

ただ一言で、“裁く席”から降ろす。


勝つためじゃない。

もう二度と、同じ形では裁けないようにするために。


これは、現代の教室で起こるかもしれない、静かな断罪と、静かな断罪返しの物語です。

『裁く席から、降りて』


 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る少し前、教室の空気はいつもより乾いていた。窓の外の冬空は薄い青で、運動場の白いラインだけがやけに鮮明に見える。


 私の机の上には、配られたプリントがきっちり揃っている。角は揃えたまま、触れられていない。触れられていないこと自体が、ここでは意思表示になる。


 教室の前方、黒板の横に立つ委員長の長谷川さんは、普段から背筋がまっすぐで、声もよく通った。今日も同じ。なのに、今日だけは声が少しだけ高い。緊張というより、昂りに近い。


「……じゃあ、みんな揃ってるよね」


 言葉の“みんな”から、私は滑り落ちる。最初から数に入っていないみたいに。


 長谷川さんの左右に、仲のいい子たちが自然に並ぶ。誰かが計ったわけじゃない。計らなくても、こうなる。教室ってそういう場所だ。


「これ、今から話していい? 時間取らせたくないし」


 頷きが連鎖する。私は頷かない。頷かない私だけが、浮く。でもその浮き方は、もう慣れたはずなのに、今日は喉の奥が少し痛む。


 長谷川さんの視線が、私の席に引っかかった。引っかかっただけで、止まらない。止まらないのが、彼女の“公平さ”なのだと思う。


「最近さ、クラスの雰囲気、ちょっと……良くないよね」


 誰かが「うん」と言って、それが合図みたいにざわめきが広がる。机の脚が床を擦る音、椅子が小さく軋む音。いつもは気にならない音が、今日は全部、言葉の代わりに聞こえる。


「私、ずっと気になってたんだけど……」


 長谷川さんは、言い淀むフリをした。言い淀むフリができるくらい、もう言うことは決まっているのだろう。


「一部の人が、協調性なくてさ。みんなが気を遣ってるのに、平気で空気悪くしてるっていうか」


 “空気”という言葉が出た瞬間、私の背中の皮膚がひやりとした。空気は形がない。形がないから、誰のせいにもできる。誰のせいにもできるから、誰か一人にまとめられる。


 隣の列の子が、目だけで私を見た。顔は前を向いたまま。見たことがバレないように。バレないようにする動作が、もう結論になっている。


「……奈々」


 長谷川さんが、とうとう私の名前を呼ぶ。呼び捨てじゃないのに、刺さる。ここで名前を呼ぶのは、裁判の被告を指名するみたいで。


「最近、みんな困ってるんだよ」


 困っている、という言葉の主語が“みんな”になる瞬間、私は一人になる。困っている理由を説明される前に、私はもう悪い側に立たされる。


「先生にもさ、相談が行ってるって聞いたし」


 それは本当かもしれないし、本当じゃないかもしれない。確かめようがない。確かめたところで、ここでは意味がない。先生が言った、という噂は、噂そのものが権威になる。


 長谷川さんの後ろで、取り巻きの一人が小さく鼻で笑った。笑いを笑いとして認めない程度の音。私はそれを聞いた。聞いたこと自体が、また彼女たちにとって“面倒”になる。


「みんなさ、言い方はしたくないんだけど、正直……」


 言い方はしたくない。けれどする。するけれど“私は悪くない”と言い添える。優しさの皮を被った刃は、いつもそうだ。


「奈々って、被害者ぶってない?」


 教室が一瞬だけ静かになる。静かになったのは、驚いたからではない。言っていいラインがここだ、と全員が確認したからだ。


「なんかさ、誰も何もしてないのに、勝手に傷ついてるみたいな」 「そうそう。話しかけても返事薄いし」 「グループワークでもさ、絶対輪に入ってこないじゃん」


 輪。輪に入らない。輪に入れない、じゃなく。入ってこない。主語が私の意思になる。私の意思が悪になる。


 私は机の上のプリントの端を、指でなぞった。角を揃える癖が、今だけは自分をここに繋ぎ止める鎖になる。


 顔を上げると、長谷川さんが“ちゃんと見てるよ”という目をしていた。裁く側は、裁く瞬間にだけ、相手を真正面から見る。普段は見ないくせに。


「私たち、仲良くしたいんだよ?」


 その言葉が一番、苦い。仲良くしたい、という願いは、拒否された瞬間に相手を悪者にできる。願いは正義になる。拒否は罪になる。


 私は深呼吸をした。息を吸うと、教室の匂いがした。暖房の乾いた埃っぽさ、消しゴムのカス、柔軟剤の匂いが混ざった甘さ。普通の匂い。普通の場所。その普通が、今は刃物みたいに薄く光って見える。


 ここで私は、反論をしようと思えばできる。


 “誰も何もしてない”わけじゃない、と言える。  “相談が行ってる”のは誰が言ったのか、と問える。  “返事が薄い”のは、話しかけ方がどうだったのか、と詰めることもできる。


 でも、それをやったら、この場はさらに“話し合い”になる。  この場での話し合いは、勝ち負けじゃない。数が勝つだけだ。


 だから私は、別の場所を選ぶ。


「……長谷川さん」


 自分の声が、思ったより落ち着いて聞こえた。落ち着いていると、それだけで“余裕ぶってる”と言われるのがこの場所だ。でも、今はそれでいい。


「うん。なに?」


 彼女は、優しい顔をした。優しい顔をできる自分を、きっと誇っている。優しい顔のまま、人を裁けるのが、委員長の才能なのだ。


 私はプリントから手を離して、両手を膝の上に置いた。逃げない、という姿勢。ここで目を逸らしたら、“やましい”になる。目を逸らさなくても、やましいことにされるなら、せめて目は逸らさない。


「みんなが困ってるって言ったよね」


「うん。困ってる」


「空気が悪いって」


「うん」


 短い肯定が続く。肯定が続くほど、彼女は“正しい側”になる。私はそのレールに乗らない。


「ねえ、長谷川さん。ひとつだけ、聞いてもいい?」


 彼女の目がわずかに細くなる。質問は嫌いだ。質問は、構造に触れる可能性があるから。彼女が守っているのは空気で、空気は問われると形になる。


「……なに?」


 私は言葉を選ばなかった。選ぶと、ここでは負ける。ここで必要なのは、相手の正しさを壊すことじゃない。正しさの椅子から降ろすことだ。


「あなた、安心したかっただけでしょう」


 教室の音が一つ、消えた気がした。消えたのは、誰かの咳払いか、椅子の軋みか。分からない。でも確かに、空気の厚みが変わる。


「……は?」


 長谷川さんが、初めて表情を崩した。崩れたのは怒りじゃない。戸惑いだ。想定していない方向から殴られたときの顔。


「安心って、なに……」


 私は続けた。止めたら、彼女はまた正義に戻る。正義に戻らせない。私は今、議論をしていない。心の位置を指差している。


「私が輪に入らないとか、返事が薄いとか、そういう話じゃないんだよね」 「……」


「あなたが怖かっただけ。クラスが揺れるのが。誰かが違うままそこにいるのが」 「そんなこと……」


 取り巻きが「何言ってんの」と言いかけて止まった。止まったのは、言葉が見つからなかったからだ。ここで“怖い”を否定する言葉は、案外難しい。怖い、は理由じゃない。状態だから。


「だから、私を悪者にしたんでしょう」


 声を張らない。怒鳴らない。静かに言う。静かに言うほうが、教室の壁に反射して広がる。怒鳴り声はただの騒音になるけれど、静かな言葉は、聞いてしまった人の中に残る。


「……悪者って。そんなつもりない」 「つもりがないなら、なおさらだよ」


 私は少しだけ笑った。笑うことで相手を煽らないための笑いではない。ここまできて、やっと息ができたからの笑いだ。


「あなた、自分が正しい側に立ってるって、信じてるよね」 「委員長だし、みんなのこと考えて……」


「考えてる。だからこそ、怖いんだよ」


 長谷川さんの唇が動いて、でも言葉にならなかった。委員長の役割、クラスのため、みんなのため。そういう“役”の鎧を脱がされるのは、痛い。痛いけれど、それは私が与えた痛みじゃない。彼女が自分で背負って、守ってきたものの重さだ。


「あなたは私を裁いたんじゃない」 「……」


「自分が揺れないために、私を使っただけ」


 教室が、さっきよりも静かになった。静かになったのは、私に味方したからじゃない。誰もが、自分の中にある小さな“怖さ”に触れてしまったからだと思う。


 誰だって、違うものがそこにいると落ち着かない。自分の位置が曖昧になる。曖昧になるのが怖い。怖いから、線を引く。線を引くと、自分がここにいる理由ができる。


 私はそこを責めているわけじゃない。責めたら、また“対立”になる。


 ただ、言う。


「ねえ、長谷川さん。あなた、今日ここで私の名前を呼んで、みんなの前でこういうこと言って……楽になる?」 「……」


「楽になるなら、よかったね」


 その瞬間、誰かが息を呑む音がした。たぶん、長谷川さんの取り巻きの一人。自分の中で“正義”に乗っかっていたことに気づいて、怖くなった音。


「ちょっと、奈々……言い過ぎじゃない?」 「言い過ぎ、って思うなら、そう思っていいよ」


 私は取り巻きの方を見ない。見たら、またそこに議論が生まれる。私は議論をしに来たんじゃない。私は、私の席を取り戻しに来ただけだ。


「でも、これだけは言うね」


 長谷川さんを見た。彼女も私を見ている。今だけは、真正面に人がいる。


「私はあなたを恨まない」


 長谷川さんの眉が、ぴくりと動いた。恨むと言えば分かりやすい。恨まないと言うのは、もっと怖い。恨みは関係を繋ぐ。恨まないは、関係を終わらせる。


「恨まない。だけど」


 私は、言葉を落とした。


「あなたが、自分を許すために、私を悪者にしたことは……忘れないで」


 言い終えた瞬間、予鈴が鳴った。救いのように。残酷なように。予鈴はいつも通りで、いつも通りの音だった。なのに教室の中の空気は、さっきまでの“当然”を失って、少しだけ重くなった。


 長谷川さんは何か言おうとして、口を開いたまま閉じた。委員長としての言葉が見つからない。委員長の言葉は、“みんな”の言葉だから。今、彼女の前にいるのは“みんな”じゃない。一人の人間だ。


 私は立ち上がり、椅子を引いた。床を擦る音が教室に響いた。みんながその音に反応した。私の動作は小さいのに、今は大きな音になる。


「座って。先生来る」


 誰かが言った。命令じゃない。習慣だ。授業前に座る、という習慣。それに従えば、この場は“なかったこと”になる。なかったことにするのが、学園の優しさだ。優しさという名の、なかったことにする暴力。


 私は座らなかった。


「保健室、行ってくる」


 嘘でも本当でもいい。体調が悪いと言えば、ここではそれ以上追いかけられない。追いかけると“悪者”になる。悪者はもう、私じゃなくなる。


 教室の扉に手をかけると、背中に視線が刺さった。刺さったけれど、もう痛くない。さっきまでの痛みとは種類が違う。これは、“見られている”という事実だけだ。


 廊下に出ると、外の空気は冷たかった。冷たさが、肺の奥を洗う。教室の中で乾いていた喉が、少しだけ湿った気がした。


 靴音を響かせながら階段を下りる。保健室の方向とは逆に、私は中庭へ向かった。今は、誰にも説明したくない。説明は、また構造に戻る。私は構造を持ち出さないと決めた。持ち出さないことでしか、守れないものがある。


 中庭のベンチには霜が薄く残っていて、座ると制服越しでも冷たかった。私は小さく息を吐いた。白い息が、すぐに消えた。


 しばらくすると、後ろから足音がした。軽い足音。走ってきたのが分かる。


「奈々!」


 振り返ると、同じクラスの佐伯くんが立っていた。彼は目立つタイプじゃない。いつも教室の端で、静かに笑っている。だからこそ、こうして追いかけてきたことが意外だった。


「……どうしたの」


「どうしたの、じゃないって。大丈夫?」


 大丈夫、と聞かれると困る。大丈夫かどうかは、外側からは測れない。測れないものを測ろうとする言葉は、優しさにも刃にもなる。


「大丈夫だよ」


 私は笑った。さっきの笑いとは違う。これは、人を安心させるための笑いだ。


「……あれ、すごかった」


 佐伯くんは少し息を切らしていた。彼は息を整えながら、ベンチの前に立ったまま、私を見た。


「すごいって、何が」 「長谷川さんに言ったこと。……ああいうの、言えるんだって」


 言える、という言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。言えた。確かに言えた。言えたから何が変わるのかは分からない。でも、言えたことが、私の中に小さな柱を立てた。


「言っただけだよ」


「言っただけ、じゃないよ。みんな、固まってた」


 私は、空を見た。灰色に近い雲が流れている。雲は形がない。形がないけれど、そこにある。空気みたいに。


「……固まるの、分かる」


「え?」


「怖い、って言われたらさ。みんな、自分の中にあるやつに触っちゃうから」


 佐伯くんは黙った。黙ったのは、否定できないからかもしれない。否定したくないからかもしれない。分からない。でも、黙ったことが少し嬉しかった。黙る、は逃げじゃなくて、受け止めることにもなる。


「長谷川さん、泣きそうだった」


「そう」


 泣きそうだった。泣けば“可哀想”になる。可哀想になれば、また私が悪者になる。その流れは簡単に想像できる。学園の空気は、いつも弱い方に寄り添う。弱い方を、分かりやすく弱く見せた方に寄り添う。


「……奈々、戻る? 教室」


「戻らない」


 即答した。即答することで、迷いを見せない。迷いを見せると、周りはまた“説得”を始める。説得は、善意の顔をした矯正だ。


「しばらく、無理」


「そっか」


 佐伯くんは、何か言いたそうにして、でも言わなかった。言わなかったことが、ありがたい。私は今、アドバイスも慰めもいらない。必要なのは、私の選んだ位置を、誰かが勝手に動かさないことだ。


「……あのさ」


 佐伯くんが少しだけ声を落とした。


「奈々って、前からこういうの……我慢してたんだよね」


 私は、答えなかった。答えたら、過去の説明になる。過去の説明は、また誰かの“正義”を生む。誰かが“かわいそう”を作る。かわいそうは、また別の檻になる。


「我慢、っていうか」


 それでも、少しだけ言葉を出した。佐伯くんの目が真剣だったから。


「合わせてただけ。空気に」


「合わせるの、疲れた?」


「うん。疲れた」


 簡単な肯定なのに、胸の奥が少し熱くなった。疲れた、と言うことは弱さを認めることだ。弱さを認めると、“守られる側”に押し込まれるのが怖かった。でも今は、違う。私は“守られる側”になりたいんじゃない。私は、私のままでいたい。


「じゃあ、今日はさ」


 佐伯くんが、ポケットから小さな紙袋を出した。コンビニのロゴがついている。


「これ、授業で使うやつ。プリントとか、先生に言われたら困るかなと思って」 「……え」


「俺、さっき途中で抜けたの気づかれてないと思う。戻ったら渡しとく。奈々は、今日はここにいていい」


 “ここにいていい”という言葉が、胸の奥に落ちた。許可じゃない。命令でもない。ただ、居場所を提示された感じがした。


「ありがとう」


 私がそう言うと、佐伯くんは照れくさそうに笑って、すぐに背を向けた。


「じゃ、行く。先生にバレるとめんどいし」 「うん」


 彼が去っていく足音を聞きながら、私はベンチの冷たさをもう一度感じた。冷たい。でも、その冷たさは確かで、確かだからこそ私は呼吸できる。


 しばらくして、チャイムが鳴った。授業開始の音。教室の中では今も誰かが“正しさ”を探しているだろう。誰かが“落としどころ”を探しているだろう。落としどころを作るために、私の言葉を丸めようとするだろう。


 でも、丸めない。


 私はあの場で、構造を持ち出さなかった。証拠も、手続きも、誰が何をしたかも言わなかった。言ったのは、ただ一つ。


 あなたは怖かっただけだ、と。


 怖さは、誰の中にもある。否定しにくい。否定すると、自分に嘘をつくことになる。自分に嘘をつくと、空気はまた薄くなる。薄くなると、誰かがまた落ちる。


 私がしたのは、誰かを落とすことじゃない。裁く席から降ろすことだ。裁く席に座り続ける限り、人は誰かを被告にし続ける。被告がいないと、自分の正しさが保てないから。


 私は、被告の席から立った。


 それだけでいい。


 午後の授業が進む間、私は中庭でノートを開いた。文字を書きながら、時々、教室の方を見た。窓の向こうに人影が動く。人影の中に長谷川さんがいるのかは分からない。分からないままでいい。


 夕方、日が傾いて、校舎の影が中庭に伸びた頃、スマホが震えた。画面に表示された名前は、長谷川さんだった。


 胸が少しだけ跳ねる。怖い、と思った。でも、その怖さはさっきと違う。私は今、誰かに裁かれるのが怖いんじゃない。誰かの“弱さ”に巻き込まれるのが怖い。


 深呼吸をして、通知を開いた。


『さっきは、ごめん』 『私、たぶん、怖かったんだと思う』 『奈々のこと、ちゃんと見てるつもりで、見てなかった』


 短い文。絵文字もない。飾り気がないのが、逆に重い。彼女は今、委員長の言葉じゃなく、自分の言葉を探している。たぶん、初めて。


 私はすぐに返信しなかった。返信した瞬間、また関係が始まる。始まるなら、私は自分の位置を守ったまま始めたい。


 画面を閉じて、夕焼けを見た。校舎の窓が橙に光っている。光はきれいだ。でも、きれいだからこそ、影も濃い。影はなくならない。なくならないなら、影の扱い方を覚えるしかない。


 私はスマホをもう一度開いた。短く打って、送信した。


『恨んでないよ』 『でも、私のことを悪者にして楽になろうとしたなら、それはもうしないで』


 送ったあと、少しだけ手が震えた。怖い。でも、言える。言えた。


 私は立ち上がり、ベンチの霜が溶けて湿った跡を見下ろした。そこに座っていた痕跡。痕跡は、消える。でも、座った事実は残る。誰にも証明できなくても、私の中には残る。


 校舎に戻る途中、廊下の端で、取り巻きの子たちとすれ違った。目が合う。合って、すぐ逸らされる。逸らされた視線の先に、私は追いかけない。追いかけたら、また“勝ち負け”になる。


 私は、ただ歩く。私の速度で。


 教室の扉の前まで来て、少しだけ立ち止まった。中から、椅子の音と笑い声が聞こえる。いつもの放課後。いつものようで、いつもとは違う。


 扉を開ける前に、私は自分に言い聞かせた。


 私は、誰も裁かない。  でも、裁く席には座らせない。


 扉を開けると、いくつかの視線が私に向いた。長谷川さんもこちらを見た。彼女の目は、今までより少しだけ揺れていた。揺れは弱さじゃない。変わり始めた証拠だ。


 私は自分の席に向かい、鞄を持ち上げた。帰る準備をする。その動作が自然であるほど、私の位置は確かになる。


「……奈々」


 長谷川さんが、小さく呼んだ。さっきの裁く呼び方とは違う。声が低い。頼る声に近い。


 私は振り返った。振り返るだけで、返事はしない。返事を急がない。急ぐと、相手の都合に合わせることになる。


 長谷川さんは少しだけ唇を噛んで、それから、言った。


「……帰り、ちょっと、話せる?」


 取り巻きの子たちがこちらを見ている。見ているけれど、口を挟まない。挟めない。さっきまでの“正しさ”の席が、少しだけ不安定になったからだ。


 私は、少し考えてから言った。


「話すなら、二人で」 「……うん」


 それだけでいい。大げさな和解はいらない。みんなの前での謝罪もいらない。あれを“なかったこと”にしないためには、派手な儀式より、静かな継続が必要だ。


 私は教室を出た。廊下の窓から、夕暮れの校庭が見える。運動場の白いラインは、まだ鮮明だった。白は消えない。踏まれて汚れても、引き直せばまた白くなる。


 きっと、人の境界も同じだ。線を引いて、踏まれて、汚れて、それでも引き直す。引き直すたびに、少しずつ、自分の手で。


 私は歩きながら、胸の奥の痛みが薄くなっているのを感じた。消えたわけじゃない。ただ、痛みの輪郭が変わった。


 裁く席から降ろした。被告の席から立った。


 その事実だけが、今日の私を支えていた。

「現代の学園で“断罪劇”をやるなら、たぶんこうなるんじゃないか」――そんな仮説から書きました。


異世界の断罪って、形式があります。壇上、証拠、糾弾、判決。

でも現代の学園は、裁判所じゃなくて“空気”が法廷で、正義の根拠は証拠じゃなく「みんながそう思ってる」になりやすい。


だから断罪の武器も、論理じゃなく感情になります。

「迷惑」「空気悪い」「被害者ぶるな」みたいに、曖昧で、でも反論しにくい言葉が刃になる。


その場で構造(事実関係・手続き・証拠)に触れて戦うと、結局“多数決の議論”に巻き込まれて、負けやすい。

だから今回は逆に、構造を壊さず、相手の“裁く席”だけを外す方向に振りました。


「あなたは正しいかどうかじゃなく、怖かっただけでしょう」

この一言は、相手を悪人認定するためじゃなくて、正義の椅子を不安定にするための言葉です。

勝ち負けじゃなく、立ち位置の逆転。ざまぁじゃなく、“もう同じやり方では裁けない”状態を作る。


現代の断罪劇って、派手に燃えるというより、あとからじわじわ残る。

誰かが泣けば立場が簡単に変わるし、なかったことにもできる。だからこそ、静かな一言の重さが出る気がしました。


この短編は「断罪を返す」のではなく、「断罪という構造そのものを成立させない」方向の実験です。

もし続きを書くなら、すぐ仲直りせず、気まずさや距離感が“日常として続く”ところまで描くと、より現代っぽい後味になるかもしれません。

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