消えた王子と濡れナイフ
初ホラーです。
前半はどう考えても学園物語ですが、ホラーです。
「イリス、君が好きだ。僕が愛しているのは君だけだよ」
――それは、わたくしの婚約者の声に違いありませんでした。
◇ ◇ ◇
「セレナ公爵令嬢」
わたくしは、聞き慣れた声に顔を上げます。
そこには、予想した通りわたくしの担当教官の顔がありました。
わたくしにはなにもやましいことなどありませんが、少し身構えました。
彼女は普段は優しいのですが、怒ると怖いことで有名なのです。
「本当に申し訳ないのですが、この資料を教官室へ持っていってほしいのです」
話の内容に、わたくしは安心しました。
危惧していたような内容ではなかったので。
手渡された紙束を持ち、わたくしは教官室への長い廊下を走り抜けます。
本当なら廊下は歩くべきなのでしょうが、次の授業が差し迫っている今、そんなことは言っていられないのです。
次の授業は礼儀作法です。
わたくしは頭の中で現在地から教官室、講義室までの道のりを計算しました。
間に合いそうにありませんでした。
わたくしは仕事を押し付けた教官への怒りがふつふつと湧き上がるのを感じながら、今度は諦めてまだ先の見えない廊下を歩きました。
結局、教官室の前についたのはそれから5分後のことでした。
ノックをし、返事を確認して中に入ります。
扉を開けて、驚きました。
「お義母様……」
そこにいたのは、王妃であるお義母様でした。
正式にはわたくしと王子――レオナールは結婚していません。
それでも婚約者ではありますし、なにより王妃にそう呼べと言われて、断れるわたくしではありませんでした。
「セレナ、ごきげんよう。教官の手伝いをしているなど感心ですわね」
「なぜ、ここへ……」
「セレナは、私がここにいてはいけないというの?」
「いえ、そのようなことはございません。しかし、これまで学園にいるところをみたところがなくて不思議に思ったというか……」
お義母様の顔が悲しげになったので、わたくしはあわてて訂正しました。
「そうだと思うわ。私が学園に来るのなど、通っていた時以来ですもの」
「あの、こちら、わたくしの担当教官が教官室へと――」
話が途切れたので、あのクソ教官――担当教官様から預かっていた資料を渡します。
でも、今となっては預けられたのも良かったかもしれないと少し思ってました。
お義母様とお話しできるのですから。
「まぁ、ありがとう。ところで、進級試験は大丈夫かしら?」
そうでした。進級試験が1ヶ月後に迫っているのです。
「それに関しては、それなりに努力しておりますので大丈夫かと……」
「そう。セレナ、何かあったらわたくしにいつでも言ってちょうだいね」
幸せな気分になっていたわたくしに、鉄槌が下ります。
それこそが、婚約者の浮気現場でした。
◇ ◇ ◇
教官室からでたわたくしは、真っ先に時計を確認しました。
すでに授業時間になっており、走っていっても出席確認には間に合わないでしょう。
どうせなら、とわたくしはいつもは通らない回り道で向かうことにしました。
すでに授業時間になっているからでしょう。
誰一人としていない廃校舎からは、話し声一つしませんでした。
いえ、違います。そのことが一歩一歩歩むたび、わかりました。
話し声がするのです。
低い声と、高い声。男女でしょうか。
吐き気がするような甘ったるい声です。
眉間にシワを寄せながら、進みます。
話し声のする教室の前で、その声に聞き覚えがあることにやっと気が付きました。
片方は婚約者、もう片方はイリス侯爵令嬢に違いありません。
そして、王子が言いました。
「イリス、君が好きだ。僕が愛しているのは君だけだよ」
――その瞬間、わたくしは踵を返し走り出していました。
この場から逃げ出したい、その一心です。
しかし廃校舎から出たときに足元の石に躓き、体が宙に舞いました。
――あっ。
そう思ったときには、体は水たまりへとダイブしていました。
――ああ、なんて運のない日なのでしょう。
わたくしには、その後の記憶がありません。
◇ ◇ ◇
わたくしが目を覚ますと、城の天蓋が目に入りました。
隣にいた側仕えが、お義母様を呼びにいきました。
お義母様はまもなくやってきました。
目に涙をためて。
彼女が言うには、わたくしは水たまりに突っ込んで泥まみれのまま教官室に飛び込み、そのまま気を失ったそうです。
わたくしは、見たありのままを話しました。
イリス侯爵令嬢は除籍になるだろう、とお義母様は保証してくださいました。
わたくしは安心して、目を閉じました。
とても疲れていて、なにか考えられるような状態ではなかったのです。
◇ ◇ ◇
騒動を知ったのは、早朝から側仕えが駆け込んできたときでした。
なんでも、王子が見つからないそうです。
心底どうでもいいです。
浮気王子なんて。
王子がいないのにそこまで混乱していないのには、理由がありました。
王子は何度か家出を繰り返していて、平民街に行くことも多々あったそうです。
今回も同じようなものだろうと思っているからこその余裕、でしょうか。
◇ ◇ ◇
王子がいなくなってから、2日が経ちました。
さすがにおかしいと思い始めたようで、捜索隊が朝から城の隅々、平民街、農村まで血眼になって捜しているそうです。
捜し始めるのが遅すぎなのですよ。
◇ ◇ ◇
あくる朝、王子が遺体で発見されました。
死因は溺死、胸のあたりにナイフで刺された跡がありました。
正直言って浮気王子にはもうなんの興味もなかったのですが、わたくしは少し周辺を探ってみることにしたのです。
それは、根拠のない違和感からでした。
「なにかがおかしいのに、なにがおかしいのかわからない――」
そんな違和感でした。
◇ ◇ ◇
王と王妃が国民に向けてメッセージを発表しました。
「我が子がなくなり、大きな喪失感がある。国民の皆にも、彼を偲んでほしい――」
そんな内容でした。
「誰が偲ぶもんか、あんなやつ」
わたくしは、感情が高ぶると声に出てしまうようです。
◇ ◇ ◇
それから、わたくしはこの一連の事件について調べました。
実際に発見者の方にお話を伺ったり。
イリスの動きを探ったり。
でも、少しの情報さえ掴めなかったのです。まるで、誰か大きな権力を持つものが隠蔽しているかのように――
心当たりは、ここを残すだけとなっていました。
王子の浮気現場である廃校舎です。
一種のトラウマとなっているこの校舎には入ろうとも思わなかったのですが、好奇心には勝てないのです。
わたくしはドアを開けると、足を踏み入れました。
カツン……カツン……
向こうから、誰かが近づいてきます。
でも、わたくしは安心していました。聞き慣れたリズムだったからです。
「お義母様、ここで会えるなんて奇遇ですね」
「あら、セレナ。どうしたのかしら?」
わたくしは、嬉々としてこれまでの捜査を語りました。
どれだけ調べても、情報一つ出てこないのです、と。
「そう」
お義母様はポケットを探りました。
わたくしは、いつものようにチョコレートでもくれるのかと思いました。
しかし、想像に反してお義母様が取り出したのは、重厚感のある輝きの――――ナイフでした。
お義母様は切っ先をわたくしにむけ、振り下ろしました。
「私の可愛い子どもたち、絶対に2人だけでいるのよ」
――わたくしは悟りました。
わたくしの違和感は、王子が刺されたことに対してだったのでしょう。
わたくしに浮気現場を見られるような迂闊な王子ですが、襲撃に対する防御は鉄壁なのです。
王子が刺されたのは、警戒する必要もないような身内だったからなのでしょう。
――あぁ、わたくしも水の住民になるのね。
川に放り込まれる寸前、わたくしが思ったのはそんなことでした。
お読みいただきありがとうございました。