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最終章 毒を超えて

六月の終わり、陽射しはすでに夏の匂いを運んでいた。事件から数週間が経ち、学校は何事もなかったかのように静けさを取り戻していた。ただ、生物部は一時活動停止となり、理科準備室は施錠されたままだ。廊下の掲示板には「安全管理に関する注意事項」と記されたポスターが増え、誰もが無意識のうちに薬品棚を気にするようになっていた。

だが、神沢蒼にとって、すべてが“元通り”になったわけではない。

教室では、蒼に話しかけるクラスメイトが少しずつ増え始めていた。ひすいと一緒に行動していたことで「何かすごいことに関わったらしい」と噂されることもあったが、彼は特に否定も肯定もしなかった。ただ一人、ひすいだけが、その全ての経緯を真正面から知っている。

放課後、蒼はいつものように図書室の奥へと足を運んだ。あの薬理学の棚。その最も奥にある、木製の机と擦り切れた椅子。


「……やっぱり、いたんだ」


その声に振り向くと、ひすいが立っていた。制服の上着を脱ぎ、白いシャツの袖を肘まで折り返している。どこか自然体の笑みを浮かべていた。


「君こそ。図書室なんて、もう飽きたんじゃないか」


「ううん。ここは、私にとって出発点みたいな場所だから」


彼女は蒼の隣に座った。机の上には、彼が借りていた専門書が数冊積まれていた。『神経毒の作用機序』『薬と毒の臨界点』『法医学と中毒診断』いずれも、あの事件を乗り越えた二人にとって、“過去の記録”であると同時に“未来の教科書”だった。


「冬川先生……正式に辞表を出したらしいよ」


蒼が言った。


「知ってる。母にも、弁護士を通して謝罪文を送ってきた。……母は、あっさりと“もういい”って言ってた」


「そっか」


ひすいは窓の外を見た。そこには紫陽花の花が、淡く色を褪せ始めながらも、まだ咲き残っていた。


「私は、まだ“毒の娘”かもしれない。でも、あの言葉に怯えなくなった。君が一緒にいてくれたから」


「……そんな格好いいもんじゃないよ。僕はずっと震えてた。怖くて、でも放っておけなくて……ただ、それだけだよ」


「それが、たぶん“薬”だったのかもしれないね」


蒼は彼女の言葉に少しだけ頬を赤らめた。


「薬って、不思議だ。どんな猛毒だって、使い方を間違えなければ人を救う。……人の感情も、そうなのかもしれないね」


「うん。怒りも、悲しみも、誤解も扱い方を知っていれば、誰かを理解するための力になる」


静かに、ページをめくる音だけが図書室に響いた。ふたりの間に言葉はいらなかった。ただ、穏やかな時間と、少しだけ先を見つめる瞳があった。


「蒼くん」


「ん?」


「いつか、薬剤師になるんでしょ?」


「……そのつもり。まだまだ勉強しなきゃだけどね」


「私、君と一緒に学びたい。もっと“毒”のことを知りたいし、母のように、誰かの役に立ちたい」


「じゃあ……」


蒼は照れくさそうに笑って、そっと彼女の机の上に一冊のノートを置いた。


「これは、僕の“研究ノート”。君の“毒の記憶”と、一緒にしてみたらどうかな。薬と毒、両方があるから、人は救えると思うから」


ひすいは、そのノートを手に取って開いた。ページにはびっしりと書き込まれた成分式、症例、蒼の筆跡。そして、最後のページにはこう記されていた。


「毒で始まったこの物語が、薬のように誰かを癒す未来に続きますように」


ひすいはそっとノートを閉じた。


「……ありがとう、蒼くん」


その声は小さかったが、確かに蒼の心に届いた。

図書室の窓から、夕陽が射し込み、積まれた本の影がゆっくりと伸びていた。扉の外では、生徒たちの笑い声が響き、明日への

時間が静かに動き出している。

毒を知ったからこそ、見える世界がある。

毒を乗り越えたからこそ、手を伸ばせる未来がある。

蒼とひすいは、今日も図書室の片隅で、それぞれの“毒と薬”を静かに読み解いていた。

それは、終わりと始まりの音。六月の、雨上がりの午後だった。

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