第三章 秘密と抗毒
その日、蒼は学校に少し早く着いた。空は灰色で、六月の朝特有の湿った風が頬を撫でていく。正門の向こうから聞こえる工事の音と鳥の声が、静かな不協和音を奏でていた。
蒼は誰もいない図書室の扉を開けると、自然と一番奥の薬理学コーナーへ向かった。棚の並ぶ小さな迷路を抜けたその先に、彼女はいた。
白崎ひすい。制服の襟元をきちんと整え、昨日と同じように静かに本を開いていた。
「……来ると思った」
ひすいは顔を上げずに言った。まるで彼の来訪を予知していたかのように、自然な口調だった。
蒼はため息をついて、彼女の向かいに座った。
「訊きたいことがあるんだ。正直に答えてほしい」
ひすいは本から目を上げる。瞳の奥が、微かに揺れた。
「君は毒に詳しすぎる」
「……」
「いや、興味があるだけならわかる。でもアトロピンの匂いを判別できて、含有植物を言い当てて、その分解方法まで知っているなんて、普通の高校生じゃない」
沈黙が落ちた。図書室の天井灯が微かに唸る音が、まるで心臓の鼓動のように響く。
ひすいはゆっくりと本を閉じ、その角を指先でなぞった。しばらくして、ぽつりと口を開いた。
「私の母は、漢方医だったの」
その言葉は、まるで劇薬のように蒼の心に落ちた。
「小さな診療室をやってた。患者さんも多かったし、評判も悪くなかった。でも……ある日突然、逮捕されたの。患者に毒を盛ったって」
「……本当に?」
「ニュースにもなった。ネットに名前が載った瞬間から、うちの家には投石があった。玄関に“人殺し”って書かれた紙が貼られてた。近所の人は誰も声をかけなくなった」
蒼は絶句した。言葉を探す間もなく、ひすいは続けた。
「証拠は曖昧だった。でもね、記録のミスがあったの。使用した薬草の一部が、帳簿に記載されてなかったの。警察はそれを“故意”と判断した」
「……有罪に?」
「執行猶予付きの有罪判決。母は診療を辞めて、今も地方の工場で働いてる。医者だったのに、もう誰も診られない。私は転校してきた先でいつも言われた。“毒の娘”だって」
彼女の声は平静だったが、その奥には小さく震えるものがあった。悔しさと怒り、そして問い。
「私は毒を知りたかったの。本当に人を殺すものなのか。母のしたことが、罪だったのか、それとも誤解だったのか。確かめたかった」
蒼は机の上で手を握りしめた。ひすいの目を、正面から見つめる。
「君は……この学校で、誰かに毒を?」
ひすいは少しだけ眉を上げて、首を横に振った。
「違う。私は何もしていない。でも……誰かがやってる。私と同じように“毒”を知っていて、知識を使って人を傷つけてる」
「でもなぜ今、この学校で?」
「わからない。でも、この前の事件秋山先輩あれは、ただの悪戯じゃない。誰かが明確に“実験”している。しかも、毒を選んで使ってる。しかも薬効とリスクを知ってる者じゃないとできないやり方で」
蒼は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「僕たち、調べよう」
「……え?」
「君の母のことも、今起きてることも。毒は使い方で薬にもなる。だったら、真実を確かめるために使おう」
蒼は言い切った。そして目の前の少女の手に、自分のノートを差し出した。
中には彼が作っていた「毒性化合物早見表」や「毒物ごとの症状一覧」、過去の中毒事件の新聞記事の切り抜きが綴られていた。
ひすいは静かにページをめくり、やがてひとつの記事で指を止めた。
「これ……母の事件の時の記者だわ。名前、覚えてる。確か、“東條”って……」
「その記者が他にも似た事件を取材していたら、そこに何かつながりがあるかも」
二人はそのまま、図書室の奥で夜まで資料をあさった。
閉館時間が近づいたとき、図書室の司書である志村先生、中年の、温厚そうな男性が彼らに近づいてきた。
「君たち、薬学に興味があるのかい?」
「……はい」
「昔、私の弟が製薬会社にいたんだ。毒物や中毒事件の研究に携わっててね。何か調べ物なら、古い論文が保管庫にある。鍵を貸してあげようか」
その一言に、蒼とひすいは顔を見合わせた。
「ぜひ、お願いします」
その夜、保管庫から出てきた黄ばんだ書類の中に、一通の匿名報告書があった。
「某高校にて不審な薬草使用者あり。意図的な摂取計画の兆候……実行者は複数の可能性」
手書きの筆跡。日付は三年前、そして学校名は「白鷺学園」ひすいの母が事件を起こしたとされる場所だった。
蒼は息をのんだ。ひすいは無言で目を細めた。
そのとき、図書室の奥で、風もないのに棚の端の本が一冊、すっと落ちた。
その表紙にはこう記されていた『自然毒の迷宮:薬草と殺意の交差点』
ふたりの中に、ひとつの仮説が浮かび上がる。誰かが長い時間をかけて“毒”で語られざる真実を暴こうとしている。そして、それはもう一度、繰り返されようとしている。