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第二章 不穏な吐息

放課後のチャイムが鳴った瞬間、校舎の空気が少しだけ軽くなる。蒼はその日、いつもより遅れて教室を出た。図書室に向かおうとしていたそのとき、階段下の廊下のざわめきに足を止めた。


「……担架? 誰か倒れたの?」


数人の生徒が保健室の前に集まり、顔を寄せ合って何かを囁き合っている。その中央に、ストレッチャーに乗せられた男子生徒が横たわっていた。制服の胸元は乱れ、顔は真っ青で、口元には薄い泡が浮かんでいた。全身が小刻みに震えている。


「三年の秋山先輩……さっきまで普通だったのに……」


「嘔吐して、すごい熱だって。幻覚? とか叫んでたらしいよ」


蒼は無意識に一歩踏み出していた。まるで自分の中の“研究者”が、好奇心と警戒心の両方で彼を突き動かしていた。

保健室の扉が開き、養護教諭の音成おとなり先生が出てきた。40代半ばの厳しめの女性で、無愛想な表情が印象的だが、蒼は何度か薬の話をきっかけに会話をしたことがある。


「……神沢くん?」


「先生、先輩の状態って……食中毒とかですか?」


音成は一瞬、視線を蒼に向けた。その目は、何かを図るように鋭い。


「保健の守秘義務って知ってるわよね。でも……あんたには話してもいいかもしれない」


そう言って、彼女は扉を閉めると声を潜めた。


「血液検査で、ちょっと普通じゃない反応が出たのよ。体内から、ごく微量だけど薬物が検出されたの」


「何の薬ですか?」


「アトロピン誘導体よ。正確な構造はまだ確認中だけど、自然由来の可能性が高い」


蒼は息を呑んだ。


「……ナス科の植物に含まれるやつ?」


「そう。例えばベラドンナ。昔から幻覚剤としても知られている毒草。致死量には届いていなかったけど、あの子があと少し摂っていたら、命に関わっていたかもしれない」


「偶然じゃないですよね?」


音成は首をかしげた。


「体格のわりに摂取量が多すぎた。不注意で口にするようなものじゃない。おそらく混入……もしくは、意図的に盛られた」


蒼の背筋に冷たいものが走った。保健室を出た彼は、そのまま図書室の奥へと足を向けた。

薬理学の棚の前に、彼女はいた。白崎ひすい。今日もまた、『毒と薬の境界』を手にしていた。


「……偶然だよね?」


ひすいが顔を上げた。相変わらずの冷静さだが、その目の奥にはかすかな翳りが見える。


「何が?」


「今日、三年の先輩が倒れたんだ。症状は……高熱、嘔吐、幻覚。検査ではアトロピン系の毒が……」


ひすいは目を伏せ、ページを閉じた。


「私、その人知ってる。隣の教室だったから。倒れる前、少しだけ話したの」


「何かおかしいと思った?」


「匂いが、したの。薬草みたいな、乾いた香り。強い香りじゃないけど、なんとなく記憶に残る」


「……アトロピンって、ベラドンナに含まれてるんだ。あの匂い、知ってるの?」


ひすいは一瞬だけ黙った後、小さくうなずいた。


「知ってるわ。子供の頃、母が庭に植えてた。ベラドンナの根は薬になるって。でも、使い方を間違えたら……」


そのとき、蒼はふと思い出した。数日前、ひすいが机に置いた布製のポーチから、かすかに似た香りが漂っていたことを。


「……ひすい」


「なに?」


「君は、本当に……何も知らないの?」


沈黙が流れた。図書室の空気が少し冷える。彼女は少しだけ口元を歪めた。


「私は毒を使っていない。でも、知ってる。人が毒に晒されたとき、どう苦しむか、どう助けるか。……私の母が、それで逮捕されたから」


蒼は目を見開いた。


「……え?」


「母は漢方医だった。自宅で治療もしてた。でもある日、常連の患者が体調を崩して亡くなった。処方にミスがあったとされて、逮捕されたの」


「証拠は……あったの?」


「曖昧だった。母は無罪を主張していた。でも、一部の薬草に使用履歴の記録が残っていなかった。それが命取りだった」


蒼は息を飲んだ。彼女の母の過去。それがひすいにどれだけ深い影を落としていたか、今ようやく分かり始めた。


「それ以来、私は“毒の娘”って呼ばれるようになった。でも、私は知りたかった。毒が本当に罪なのか、救いなのか。誰が、どうやって、それを決めるのか」


蒼は彼女の瞳を見た。そこには強い意志と、抑えきれない怒り、そして小さな怯えが潜んでいた。


「ひすい……もし今、誰かがこの学校で“毒”を使っているなら……一緒に止めよう」


「……え?」


「君の母の無実も、今起きてることも。毒を知る君と、薬を知る僕なら……きっと真実に辿り着ける」


ひすいはしばらく黙っていたが、やがて小さく微笑んだ。


「……ありがとう。蒼くん」


その微笑みは、どこか哀しみを孕んでいた。だがその瞬間、彼らの間に確かな“同盟”が生まれたのだった。

だがその頃、放課後の理科室では、生物準備室の鍵を開ける誰かの姿があった。

透明な瓶に移し替えられる液体。

誰にも知られず進行する“次の毒”。

事件は、まだ始まったばかりだった。

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