第一章 翡翠色の転校生
六月の雨が、しとしとと古びた校舎の屋根を打ち続けていた。湿気を帯びた風が窓の隙間を抜け、廊下にうっすらとカビ臭さを運ぶ。薄曇りの空の下、校庭の紫陽花は青と紫の鮮やかなグラデーションを見せているが、その色彩もどこか冷たく、どんよりとした空気をまとっているようだった。
教室の中は一見いつも通りだった。窓際に並べられた机、壁に貼られた文化祭のポスター、教科書の匂い。だが、どこか張り詰めた緊張が漂っているのを、神沢蒼は感じていた。彼は窓の外をぼんやり見つめながら、目の前の文庫本に目を落とすふりをしていたが、実際はクラスメイトたちのさりげない視線の動きを観察していた。
「今日から皆さんのクラスに入ります。白崎ひすいさんです」
担任教師の声が教室の空気を一変させた。重く鈍い金属音が遠くで響くように、ざわめきが静かに起こった。扉の向こうから、白いシャツの襟元にそっと手を添えた少女が一礼しながら入ってきた。黒く艶やかな髪は丁寧に束ねられ、肌は陶器のように滑らかで、ひときわその存在感を放っている。しかし、その瞳だけは翡翠の宝石のように澄んでいて、異様なまでに鋭い光を宿していた。
「白崎です。よろしくお願いします」
彼女の声は静かで冷たい。だが、その芯の強さが周囲に不思議な圧力を与えた。まるでこの教室という空間の空気を掌握しようとしているかのようだった。
「じゃあ、空いてる席……神沢の隣に座ってもらおうかな。神沢、よろしく頼むよ」
突然名前を呼ばれて、蒼は小さく肩を震わせた。彼は慌てて本を閉じ、椅子を引いた。教室の中には小さなざわめきが続き、誰かが小声で囁くのが聞こえた。
「翡翠色の目って、本当にいるんだな」
「なんだか怖そう……」
蒼はそんな声を聞き流しながら、転校生のために椅子を少しずらす。ひすいは静かに席に座り、横顔が青白い光に浮かび上がった。その表情はどこか影を落としていて、美しいだけではない何かを秘めているようだった。
神沢蒼は高校二年生。医者だった父の影響で薬に並々ならぬ興味を持ち、放課後は部活にも入らず、もっぱら図書室の医学書や薬学雑誌に没頭している。クラスの中で浮いた存在ではあったが、その知識は誰にも負けない自負があった。そんな彼にとって、ひすいはまるで未知の化学物質のようであり、反応が起きることはないと信じていた。
しかし、その日の放課後、図書室の薄暗い奥の棚の前で、彼は彼女を見つけた。
「……あ」
「君も、この棚を使ってるんだね」
彼女はページを開いたまま、蒼の方を見上げた。手にしていたのは『毒と薬の境界』という専門書。普通の高校生には重すぎる内容だった。
「君、その本……」
「ああ、面白いの。毒ってただ恐ろしいだけかと思ったら、実は“救い”になることもあるのね。量と使い方次第で、薬にもなるってことが」
「それはパラケルススの言葉だ。『すべては毒であり、毒でないものなど存在しない。ただ、量が毒か否かを決める』」
ひすいは薄く微笑んだ。その笑みは、まるで秘密を共有する者同士だけが交わせる合言葉のようだった。
「蒼くん、だったよね」
「うん。神沢蒼」
「ひすいって呼んでいいよ」
それから二人の距離は一気に縮まった。しかし同時に、蒼の周囲では次第に不穏な影が忍び寄っていた。
数日後、三年の生徒が保健室で倒れた。高熱、嘔吐、幻覚のような症状。検査では、通常なら体内に存在しない薬物反応が見つかった。アトロピン誘導体ベラドンナというナス科の植物に含まれる神経毒の一種。致死量には達していなかったが、意図的なものは明白だった。
蒼は疑問を胸に、ひそかに養護教諭に尋ねる。
「倒れた生徒、同じクラスだったの?」
「そうよ。倒れる直前、薬草のような匂いがしたって証言もあるわ」
「アトロピンって、ベラドンナに含まれてるよな……」
蒼の心はざわついた。ひすいのカバンからかすかに漂っていた乾いた草の香り。彼女の瞳が揺れた瞬間を思い出す。彼女は一体何を知っているのか? 何を隠しているのか?
その夜、駅前の古びたカフェで、蒼はひすいと向かい合った。雨は上がり、路面はまだ濡れていた。彼女の瞳が冷たく光る。
「私の母は漢方医だった。でもある日、患者に毒を盛った罪で逮捕された。証拠は曖昧だったけど、薬の管理に不備があったのは事実。以来、私は『毒の娘』と呼ばれてきた」
蒼は息を呑む。
「君は、この学校で毒を使ってるのか?」
「違う。私は何もしていない。でも……誰かが、私と同じように“毒”を知って、使っている」
彼らは肩を寄せ合い、謎を解く決意を固めた。薬を知る蒼、毒を知るひすい。二人の化学反応が、ゆっくりと物語の闇を溶かし始めるのだった。