原初の雪の思い出(前)
【旧暦998年】
――これから伝えるのは、今の君はまだ思い出していない、僕達の大切な思い出についての話なんだ。心を落ち着かせて聞いていて欲しい。
こんなにも、君の心も体も傷付けた……その原因は。あの雪の中で、僕がその選択をしたせいだ。
確かに、あの雪を溶かしたのは君なのだけど。僕がそう願って、君は応えてくれたからで、君には何の責任もない。
そう遠くない未来、僕は消えてしまうだろう。それも、僕が自らもたらした因果でしかないのだから……どうか、自分を責めないで。
……それでも、僕はね。あの日、雪を溶かして。この星を生命溢れる世界にしたことまでを、後悔したくはないんだよ。
生まれてくるだけで大地を、大気を害し。何ものをも傷つけずに一生を終えることの叶わない、罪深い存在だとしても。生みださなければ知ることの出来ない幸せな営みだって、確かにあるはずだから――
【新暦100年台の出来事】
脆弱な肉体。恵まれない境遇。そういう立ち位置に生まれてしまった者にとって、この世界は悪夢のようなものだ。まさしくそのように生まれついたものだから、吾は常々そう感じていた。
吾ときょうだいの生物学上の実両親は、堕胎できる伝手も金も持たず、惰性で吾らを生み落した。生んだ以上は死なせてしまうと犯罪と咎められるから、物心つくほんの少し前までは養育して、結局はそれに飽きたのかこの街を捨てて姿を消した。唯一の血縁であるきょうだいも救いようのない性根の犯罪者気質で、関わり合っても百害あって一利なし。
あらゆる者に門戸を開く、神の家。そこで分配される僅かな施しによって生き延びた。成長期に必要な栄養を摂りきれなかったこの体は、男子の平均的な体型に育たなかった。身丈も肉付きも。
吾の生まれた時代、故郷の港町ミラトリスは治安も民度も劣悪だった。成人した吾は無難に海運商の下働きになった。海には出ない、港での運搬作業をするばかりの雑用夫だ。成人男子としては遥かに頼りないこの体躯、その限界を超えているであろう重量の荷物を運ぶ。延々と。いつ、力尽き、倒れても不思議ではない。
ある日、吾は帰宅途中の路地裏で膝を着いていた。この街で、そのような隙を見せたら最後……そう間もなく、悪臭を放ついくつもの薦被りが物影から這い出して、取り囲んでいく。
ミラトリスの水夫は伝統として、首元に結べば臍まで垂れる長い布を巻いている。それは街で暴漢に襲われた際、その布を解いて相手の首を絞めて抵抗するためだという。しかし、元より非力ですでに力尽きている吾には無意味な装備でしかない。たとえ万全であろうが、これを活用して立ち向かい、逃れられたものなどいるのだろうか……。
「それ以上近寄るな。彼に触れた手は、この刃で躊躇わず切り落とす」
眼前にまで伸びてきていた、枯れ枝のような指先がぴたりと静止する。
次の瞬間には周囲に集っていた布の固まりが蜘蛛の子を散らすように退き、吾の眼前には刃物の先端があった。宣言して一拍の間もなく進み出て、指のあった場所に刃を持ってきた。こけおどしではない、と、いうことなのだろう。
下賤の群れが追い払われたとはいえ、自分の眼前に刃を見せつけられたようなもので、吾はこの闖入者が敵か味方か、判断がつけられない。ただひとつ、わかるのは。
眼前にある刃物が真紅に染まっていること。それはこの世界では唯一無二の秘宝……「太陽竜の操る神器」ということ。
跪いた姿勢のまま、かろうじて、首だけを動かして見上げる。宵闇の中でも眩しく煌めくような純白の長髪を髷にして、同じく白い着物をまとっている。しかし、深い海の底のような青い瞳は対照的にくすんでいて、……悲哀を湛えた眼差しだった。
「……間に合って、良かった。僕は長らく、君を探していたんだ」
愛器とはいえ眼前に刃を突きつけた非礼を詫びながら、彼は赤い神器を鞘に納めて左手に持ち替える。そして、右手を吾に差し出した。……されたところで、吾にそれを受け取る余力はなかったが。
溜息をつく間もなく事態を察したらしい。白い男は手早く屈んで肩に手を回して強引に立ち上がると、吾の足を引きずるように歩き出した。背後の連中への警戒を怠らず、ちらちらと牽制の目線を送りながら。
「わけあって君にあの頃を思い出すのは不可能だが、君はかつて、この星の生命を誕生させた九の神の一体。生命の知と秩序を司る神、パーシェルだ」
そう吾に教えた白い男は、自分は太陽竜であると告げた。同時に、ソウジュという名前を名乗る。吾の伝え聞いた太陽竜の名前とは違うし、ソウジュというのはすでに消滅したと記録されている雪の神、白銀竜の名前のはずだが……。
「……聡明な君のことだから、気付いて思うところもあるのだろうが。知っている事実に関わらず、名乗った通りに呼んでもらえたら嬉しい」
珍妙な事態ではあるがそう頼む顔が切実に過ぎるので、事情を訊かず望まれた通りにしてやることにした。
「このような言葉を選ぶのは申し訳なくはあるが……生まれ変わった僕達の中で君だけは、不完全な神となってしまった」
そうなってしまった理由。「秩序の神」である断罪竜は生命の罪を裁量する役目を持っていた。いくら神であろうと他者を裁くという務めには精神の負担が伴うもので、吾の先代は役目を果たすために足枷となりそうな感情を切り捨てた。その結果、発生した例外が吾である、と。なんとも迷惑な話ではないか。
「断罪竜の能力は今でも半神のミリアンナが持っていて、パーシェルにはない。君が身を守るためには、僕が持つ神器のように、断罪竜の神器をこの世界のいずこかから探し出さなければならない」
吾のための神器がどこにあるのか、ソウジュも未だ手がかりは掴めていない。ゼロの地点から探らなければならない、長き捜索の旅はこうして始まった。
半世紀近くを費やしてようやく、神器のありかに辿り着いた。それまでも不確定な情報に躍らされて出向いた場所は数あれど、どこも不発だったのだが、今度こそは間違いない。
「しかし、よりにもよってノーイル山脈の奥深くとは、過酷な……」
R大陸を南北に両断する、険しき雪の連峰。後の時代には人力で移動をし易くする交通網も築かれたが、吾の生まれた時代にはそれは望めず。徒歩で挑むほかなかった。
「それだけ、怖れられていたということだよ。断罪竜の神器は、人という種族を直接に滅するものだから」
罪のある生き物が手に触れた瞬間、全身を焼失させるという我が神器。幼子といえど小さな嘘をついたことくらいはあるはずで、必然、その神器に手で触れて無事である者など生まれたての赤ん坊くらいのものだろう。
吾とソウジュは神の体で、凍てつく雪の中で食事を摂れなくても死にはしない。逆に言えば、どれだけ過酷であろうが自然に死ぬことは叶わない。ゆえに、そうした準備は重視せず、我々は愚直に雪に包まれたノーイル山脈に踏み入った。空腹はなるべくなら勘弁願いたいところではあるが、生憎、この体は幼い頃から空腹には慣れている。
「……少し、休もうか」
山道で遅れ始めていた吾を振り返り、ソウジュは十数歩以上は離れていたこちらまで戻ってくる。我々の旅が始まってからというもの、幾度も繰り返された、情けないやり取り。吾と行動を共にするようになるまでは戦士として生きてきたソウジュは、吾と体の鍛え方が違う。踏み出した一歩は同じでも、長い時間を歩いているうち、吾の足が追い付けなくなる……。
「まったく……来る日も来る日も見渡す限り、雪、雪、雪……なんともはや、忌まわしい」
手頃な洞窟などがあれば良かったが残念ながら見つからず、雪山でありながら葉を茂らせた木の下に腰を下ろすことにした。ここ数日は風がなかったから、根元の地面は雪もなく乾いていて座り心地には恵まれていた。
「君にとって、雪は忌まわしいものなのか」
「当然であろう。現にこうして、雪の中を行動するだけで吾の体力を奪い続けている。雪のない山道であれば今よりよほど楽な旅路であっただろうに」
幼い頃、吾が生きていた貧民街では、突然の降雪は力尽きそうになっている人間にとっては命取りだった。普段は屋外で寝起きしていてもかろうじて耐えられる、夜の冷気。雪の夜、吾は命からがら神の家に辿り着き、暖を取れた。同じような者達が来ることを想定して、神父は眠らずに門戸を開放して待ち構えていなければならなかった。夜が明けて雪がやんでいたならすぐに外へ出て、亡くなった者がいないか捜し歩き。力尽きた者を見つけては祈りを捧げて、しかるべき処置をしてもらうための通報も同時に行っていた。
「容赦なく降る雪は、弱った命を容易く奪う。だから忌まわしいものだと、吾は思うのだよ」
「……そうだろうね。かつて、この世界を覆っていた氷雪は、その下に『命が生まれてくる可能性』を封じ込めていたんだよ。かつての僕がその雪を溶かさなければ、命は生まれてくることさえなかった。
……何度も、考えた。もし、僕が雪を溶かさなかったら。世界はあの頃の……僕達の思い出のまま、穢れなき雪の星のまま、在り続けたんじゃないかって」
「……考えて、それで? 悔やんでいるとでもいうのか?」
「いや……僕がひとりで悔やんだところで、ソウジュはそれを悔やみたくないと言うから」
「……うん?」
元より彼は太陽竜でありながら、白銀竜の名であるソウジュを自称してきた。それを踏まえてなお、その言い回しは理解が難しい。
「あの頃の僕達は気付けなかったけれど……この星の全てを覆う雪を溶かし尽くすということは。この星そのものでもある白銀竜も、いつかは溶けるようにその存在を消してしまう。そういう末路を選ぶということでもあったんだ。
そうして彼は消えていった。けれど……僕は、彼の全てを、何もかもをこの星から失わせたくはなかった。だから、彼の持っていた思い出を回収して、僕が持ち続けることにした」
【捕捉説明】
冒頭の旧暦998年は青草日記1話のソウジュとツバサが部屋でしていた密談の一部です。