その言葉は、費やした全てに報いる。
「姫様ぁ~、もういい加減お目覚めになってくださいよおぉ~~っ」
「う~……あと五分だけ……おかわり……」
「そのおかわりがもう三回目なんですよっ! 予定の時間から十五分過ぎてるんですってばぁっ!」
「ごめんなさい、コーリィ。私があなたを頼ったばっかりに、手間をかけてしまって……」
「いえいえ、メイさんは何っにも悪くないですっ」
女中のメイが何度呼んでもわたしが起きないからと、扉の外で待っていた護衛のコーリィに「どうしよう」と相談して、起こし役を交代したのかな。コーリィがわーわー騒いでいる声が鼓膜にぐさぐさ当たるのに、わたしのまぶたはまた、とろーんって落っこちてきちゃう。
そうはいきませんよっ、と、そのまぶたをえいやっと、二本の人差し指で押さえられちゃった。だんだん目が乾いてきて、目の縁からしずくがぽろっと落っこちる。
「わぁっ! すいません!」
「悲しくて泣いたわけじゃないもん……ふわ~~……っ。おはようございまぁす……」
「よかった、起きてくださいました。お疲れ様です、コーリィ。姫様のお召し物を変えますので」
「あ、ハイっ。廊下に戻りますっ。姫様の足ではもう、試合開始に間に合わないかもしれないですから。お着替えになったら俺が背負って走っていきますので!」
「はぁーい。おねがいしまーす」
「はぁ……まぁ~たコレになっちゃった。俺は護衛であって、人力車夫じゃないんだけどなぁ」
わたしの身支度を整えながら、メイは廊下にいるコーリィに聞こえないように、小さな声でこう言った。
「姫様ってば、もしかしたら。コーリィにおんぶされて走らせるのが好きで、わざとこうやって寝坊してます?」
「だって、コーリィの困った顔を見るの、楽しいんだもん」
「わかりますけどねぇ。ほどほどにしてあげてくださいね」
わたしがお寝坊さんなのはわざとやってるわけじゃなくて、元からそういう体質なんだもん。エリシア様とイルヒラ様とおそろいなの。
王宮の廊下を全力疾走するのは禁止なので、庭に出るまではコーリィに手を引っ張られて早歩き。庭の芝生の上でコーリィがしゃがんで、ハイ、どうぞ! の合図で、わたしはコーリィの背中に乗っかった。
「ぜぇ……はぁ……ぜぇ……やっ……っと、着いたぁ」
「あ、オーデンのおじさんだ。コーリィ、あっちまで行って」
「もう剣闘場に着いたんだから下りて歩いて大丈夫なんですけど!?」
文句を言いながらも、コーリィはそのまま、わたしが指さした方向へ向かってくれた。
「おう。小姫様か。おはようございます」
オーデンのおじさんはわたしが生まれるより前から剣闘士をしている大ベテランなんだけど、なんと、わたしの初等教育学校の同級生なの。オーデンのおじさんはグランティスではない国で生まれて、そこで初等教育を受けられなかった。大人になった今からでも勉強をし直したいからって、剣闘士をする合間に学校に通う事になったの。
普通の大人で、オーデンのおじさんくらいに背の高い人はそんなにいない。休み時間には校庭で子供の遊びに付き合ってくれるから、学校の子供達の人気者だった。
わたしはシホ・グランティス。王族で生まれた子供は王宮で家庭教師に勉強を教わるんだけど、お母さんの方針で、普通の子供と同じ学校に通って教育を受けることになった。
わたしは恥ずかしがり屋で、お母さんと一緒に王宮の晩さん会に出た時、大人だけじゃなく貴族の子供を相手でもなかなかお話が出来なかった。「こんばんは」って一言だけの挨拶はちゃんと出来るんだけど。
王宮に閉じこもってお世話をしてくれる使用人達だけを相手にしていたら、人見知りが改善しないかもしれない。お母さんが言うには、「恥ずかしがり屋」だけならいいけど、「人見知り、人を避けようとする」のは良くないから。同じ年頃の子供がたくさんいる普通の学校に通って、そういう経験を積んだ方がいいんだって。
そのおかげで、もっと小さな頃のわたしと比べたらわたしは人と話したり一緒に遊んだりするのが、人並みに楽しく思えるようになってきた。だからお母さんの決めたのは間違ってなかったと思う。今のわたしには街のあちこちに友達がいる。子供の頃から王宮で育ったお母さんにはあんまりそういう人がいないみたいだから、お母さんはわたしがちょっとだけ羨ましいとも言ってた。
「オーデンのおじさん、抱っこして。また一緒に試合が見たいよ」
「今日だけは、ダメだな。今日は姫様が剣闘士になって、最初の試合だ。小姫は一番近いところから、姫様の晴れの舞台を見てあげないといけない」
「そっか。そうだよね」
「また今度な」
「うん。やくそくね」
「なんか、オーデンと話してる時はやけに素直じゃないですかね、姫様」
「気のせいだよ。ねー?」
「う、う~ん」
「オーデンがこう言うってことは、やっぱ気のせいじゃないんですよね? ね??」
わたしのお母さん、レナ・グランティスは、剣闘場が始まって以来初めての「女性剣闘士」の資格を得た。今日は剣闘士になってからは、初めての試合。
王族に生まれたわたしは、乳離れをするまではお母さんと同じ部屋で寝起きしたけど、それ以外は女中のみんなが育ててくれた。お母さんはわたしと違って早起きさんだし、公務と剣闘場の試合と、強くなるための鍛錬もしていてずっとずっと忙しい。
体のあちこちに古い傷痕があるし、試合でケガしちゃった瞬間をわたしも何回も見た。「痛くないの? 体中が傷だらけになるって、怖くないの?」って、訊いてしまったことがある。
「もちろん、傷を受けるのは怖いし、痛いよ? でもね。わたくしはあなたのお父さんと出会ったから、剣闘士になりたいって思ったの。だから、剣闘場で負った傷のひとつひとつはね、お父さんとの思い出みたいなものなのよ」
わたしのお父さんの名前はシホ。わたしとお揃いの名前。っていうより、わたしがお父さんとお揃いの名前、なんだよね。お父さんはわたしが生まれるちょっと前に、「寿命で死んじゃった」って聞かされてる。普通の人よりも、生きていられる時間がうんと短い体だったんだって。
お母さんのいる主賓室に行ったら、もう試合の準備はバッチリ出来てて、後は出るだけみたいになっていた。
「お母さん、ごめんなさい。またお寝坊して、時間がギリギリになっちゃった」
「いいのよ、ギリギリでも間に合ったのだし。あなたが見ていてくれるだけで、わたくしは頑張れるから」
「わたしも大きくなったら、お母さんみたいな強くて素敵なひとになる」
「わたくしに出来ることなら、何でも手伝うからね。……ここで、わたくしを見ていてね。シホ」
「うん。シホはずっと、お母さんを見てる」
お母さんは「ありがとう」って言いながら、わたしをぎゅっと抱きしめた。お母さんは試合のための鎧を胴体につけているから、そうされるとわたしはちょっと痛かったり冷たかったりする。
お母さんの右手にはいつも、お母さんの宝物で一緒に戦う相棒でもある、魔法剣のトイトイがくっついてる。トイトイを撫でて話しかけながら、お母さんは試合場に出て行った。
お母さんはグランティスの剣闘場で初の、女性剣闘士。その初めての試合になる今日は、この国の歴史的な一日。その瞬間に立ち会いたいからって、今日はいつも以上にお客さんがいっぱいだ。お母さんが出てきた姿を見て、剣闘場は拍手喝采だった。
こんなにたくさんの人が、お母さんの夢が叶ったことをお祝いしてくれる。だから、わたしは思うの。大人になったら、わたしもお母さんみたいな人になりたいなって。誰かが「応援したい」って思ってくれるような、一生懸命、夢を目指して。傷だらけになっても諦めないで、頑張れる人に。
わたしのお母さんは色々なことを頑張っていて忙しすぎて、わたしと一緒にいられる時間はとっても少ない。でもね、一年に三日だけ、一日中わたしと一緒にいてくれる日があるの。
わたしと、お母さんの誕生日。それと今日、二月二十日。亡くなったわたしのお父さんの誕生日。
その三日間だけは、わたしとお母さんは王宮じゃなくて、お父さんが生きていた頃に借りていた宿のお部屋で寝泊まりするって決まってるの。宿のおじいちゃんはこの三日間だけはその部屋に、他のお客さんを絶対に泊めないで、わたし達のために空けておいてくれる。
お父さんが大好きだった食堂のご飯を食べて、街をお散歩する。
そして……宿に帰る前に、街の入口に行って、門から外へ出る。ちょっとだけ歩くと、お父さんの眠る石碑がある。
わたしとお母さんは一緒に並んで、お父さんの石碑の前で目を閉じて手を合わせた。わたしはこの後やらなきゃいけないことがあるので、たいていいっつもお母さんより先に目を開けて、お母さんのお祈りが終わるのを待ってるの。
今日もいつもと同じそんな感じだったから、目を開けたお母さんがわたしの顔を見て、にっこり笑う。
「それじゃあ、今日もお父さんとお話ししようか」
「うん」
わたしは頷いて、お父さんの石碑を見ながら、話し始める。
「お父さん。今日はお誕生日、おめでとう。
こんなこと言ったらお父さんは嫌だなって思うかもしれないけど、わたしね。お父さんがそばにいなくて、会えなくて寂しいなって、あんまり思わないんだ。
グランティスの街でお父さんを知ってる人達に会うと、いっつも言われるの。
『シホちゃんはお父さんの分も、幸せになってね』って。
これってお父さんが生きている間に、いっぱいい~っぱい頑張ったからだよね。お父さんに会えなくなって十年も経っても、お父さんを忘れてない人やお父さんのことが好きな人達がこんなにいるなんて、すごいって思う。
お父さんのおかげで、わたしに幸せになって欲しいって応援してくれる人が、この街にはた~くさんいるんだよ。
だからシホはね、お父さんに会いたいっていうよりも、いっつもこう思ってるの。
お父さん、大好き。って」
大切にしたい人に本当に伝えたいことは、心の中で思ってるだけじゃなくて、ちゃんと言葉にして言ってあげて。お母さんはいつもそう言うから、わたしはお父さんの眠る場所に来る時、お祈りするだけじゃなくてちゃんと声に出してお話しするの。
「シホの言う通りね……わたくしの気持ちも、十年経ってもあの頃と何も変わらない。お父さんを愛しているし、シホのことが大好きよ」
ここにいる時だけはシホとしか言われないと、お父さんとわたしのどっちなのかがわかりにくくて困っちゃうなぁ。これだけはお母さんには絶対に言っちゃダメだよねって思うから、心の中だけでこっそり伝えてる。
お父さんとわたしだけの秘密だよ?