生まれてくる「証」
その朝、わたくしは定刻通りに起床することが出来なくて、「レナ様、お支度の時間ですよ」と女中に起こされてしまいました。
この数日、どこか食欲が衰えて昨夜は夕食をあまり口に出来ず。しかし、食欲がないのに空腹を感じていないわけではなかったため、夜になかなか寝付かれず。結果としてこのような粗相をしてしまったわけです。
シホが二十歳になるまで、あと三か月。エリシア様との鍛錬は日々、続いています。本日は予選会の試合がないので、わたくしもそれを見守るつもりだったのですが……。
「ほわぁ~……あら、レナぁ? あんたがあたし達より遅いって珍し~」
エリシア様、だけではなくイルヒラ様も、朝には少々弱い体質みたいです。普段はわたくしが「ごちそうさま」と手を合わせた頃にようやく、食堂にお越しになります。本日は椅子にかけて大あくびをしていたエリシア様が、目尻の水滴を拭いながら不思議そうにわたくしを見やります。目の前のお皿はすでに綺麗になっているので、朝食は済まされた後なのでしょう。
「今日はなんだか顔色も悪くな~い?」
「申し訳ありません。昨夜、少々、不摂生がちで。寝つきが悪かったみたいです」
「あんたも十分、働き者だし。たまにはすっきりするまで寝足したら?」
「……いいえ。お気持ちだけ、ありがたく頂戴します。わたくしにとっても彼との一日一日が、大切な時期になっていると思いますので……」
「……ふふっ」
エリシア様が含み笑いをしたのち、立ち上がってわたくしの頭をほんの軽い力で二度、手のひらで叩きました。
「あの、エリシア様。どうかされましたか?」
「ほら、あたしって一応、感情を司る神ってことになってるじゃない? でもなんでか今のところ、そっち方面の感情にぜ~んぜん無縁でさあ。憧れてるとかそういうのもま~ったくないからいいっちゃいいんだけど。レナみたいに、ちっこい頃から育ってくところを見て来た相手にそういう感情があるとこを見てると、なんとなく浮き立つのよね」
ま、あんたとあいつの場合は単純に浮かれて見てるだけってわけにゃいかないんだけどね。そうおっしゃるエリシア様は、本当に僅かながら、済まなそうなお顔をしています。いついかなる時も豪胆無比なエリシア様が、このような表情をされるのは本当に珍しいことでした。
季節は秋も深まっており、少々肌寒くなりつつあります。わたくしはシホとエリシア様が鍛錬している姿を少し離れた場所で、邪魔にならないように、薄布を肩に被って寒さを凌ぎながら眺めていました。熱があるわけでもないのに、思考は少し、ぼやけていました。
「でりゃあッ!」
十文字槍の穂先を地面すれすれからすくい上げるように振り上げたシホは、的確にエリシア様の手首をとらえました。グラディウスを両手に握りしめたままのエリシア様の手首は空高く飛び上がり、くるくる回転しながら彼らの左方面に落ちていこうとしています。
「やったぜ!」
吹き上がる血しぶきを顔にも胴体にも浴びながら、思わずシホは歓喜の声を上げていました。凄惨な光景でありながらこの反応は、エリシア様から特別に鍛錬していただけるようになって九か月目にしてようやく、彼女の提示した慈悲深き目標をついに果たしたからです。もちろん、エリシア様が手加減してのことではありますが。
「ぐえっ!」
エリシア様は、痛みを全く感じさせない極めて冷静な表情で、シホの腹を蹴り飛ばしました。あまりの威力にシホは、それなりに離れていたわたくしの膝元まで地面をこすりながら辿り着きます。
「愚か者~! 手首ごと得物を飛ばしたからって、そこで太陽竜との戦いが終わるわけじゃないでしょ! 油断してんじゃないっつーの!」
「げえぇ~……危うく、吐く寸前だったぜ。そいつは確かに、エリシアの言う通りだわなぁ」
恐ろしいことにエリシア様は、両手首の断面からぼたぼたと大雨よりも激しく血を垂れ流しながら、遠くへいったグラディウスのところへ歩いていきます。痛覚はあるはずなのに、平然として。
「しまった、あたしのこの状態じゃ、柄をしっかり握りしめた手を外せないじゃない。シホ~、ちょっとこっち来て、手を貸して~」
「あいよ~、……レナ、どうした?」
「うっ……」
わたくしは急な吐き気に襲われて前のめりになり、口元を手のひらで押さえました。こらえきれず、手を汚すよりいいかと判断して、地面に手を着いて吐き戻します。昨夜も今朝も、そんなに食べられなかったため、出て来たものは液体ばかりでした。
エリシア様の流した大量の血液の匂いが、屋外とはいえ周囲に漂っています。その匂いにあてられて……それだけでは、ないような気がしました。
わたくしの側にシホが留まっているのに気付いたエリシア様は彼の手助けを諦めて、なんとグラディウスの刃を足ですくいあげてほいっと蹴り上げると、器用に腕と腋で挟んでこちらに走ってきました。
立ち止まらずにわたくしの状況を横目で見たエリシア様は、「宮廷医呼んできてやるから、あんたらはそこでじっとしてなさ~い!」と言いながら去っていきました。この場にいる誰よりも重傷なエリシア様が医者を呼びに行くという状況に、わたくしとシホは思わず目を合わせて笑ってしまいました。
とりあえず、エリシア様の血痕とわたくしが嘔吐したものから離れようと、シホはわたくしをゆっくり立たせて、肩を支えながら少し歩きました。
わたくしはすっかり、身を起こしているのも重怠い有様でした。シホは自分が先に地面に腰を下ろし、胸にわたくしの背をもたれかからせてくれました。わたくしの肩越しに、お腹のあたりを覗き込みます。
「大丈夫か?」
「ええ……、いえ、今はやっぱり、気持ち悪い……辛い、けど。……想像の通り、だったら……嬉しいから」
「……だよな。だったら、いいよなぁ」
シホは左手でわたくしの肩を支えて、右手をお腹まで伸ばして、微かに撫でました。その右手を見下ろしていて、思い出します。右手の甲には、鍛錬の際にエリシア様が不意打ちで出した無詠唱魔法の直撃を受けた火傷の痕が消えずに残っています。
「シホ……以前から、あなたに言おうと思っていたことがあるの」
「なんだ?」
「この子……トイトイを、あなたの戦いに連れて行って欲しいの。わたくしの代わりに」
わたくしは常に、右手にトイトイを着けています。その右手をシホの火傷痕に重ねます。
「わたくしはしばらく、予選会には出ない。今だけは、わたくしだけの体ではないから、大事にしたい。魔法剣はね、普通の武器と違って、多少なら魔法を斬撃出来るの。太陽竜の火球にどこまで通用するかなんてわからないけれど、きっと、あなたのことを守ってくれるはずだから……」
「だったら、このトイトイを返すためにも。どんな風になっていようが、オレはレナのところへ戻ってこないといけねえな」
「ええ……お願いね」
宮廷医に診ていただいて、ふたりの宝が確かにこの身に宿ったのだと、認められました。
残念なことに、わたくしが懐妊したことにより、最後の三か月はシホと一緒に過ごせる時間が激減してしまいました。わたくしの悪阻の症状はさして軽くはなく、頻繁に吐き戻してしまいます。シホの暮らす宿泊所の個室には水回りがありませんし、あったとしても宿の方にもご迷惑ですから。
「それなら逆に、シホが王宮に泊まったら? 部屋は有り余ってるし、何ならレナちゃんの寝台だって余裕でふたりで寝られるんだし」
イルヒラ様はそうご提案くださいましたが、わたくしからそれはお断りしました。シホは相変わらず、剣闘場での試合とエリシア様との鍛錬で忙しい体です。夜はわたくしの体調を気にせず、ぐっすり眠って休んで欲しいと思いました。
シホの、剣闘場での最後の試合は、なんとも惜しい結果でした。準決勝まで勝ち進みながら、対戦相手に剣闘士歴三十年超えの大ベテランである、「ハルベルトのカヤ」とあたってしまったのです。
カヤはあのエリシア様も一目を置く、現在の剣闘場では「最強の剣闘士のひとりである」と広く認知されています。ハルベルトは斧と槍の良いとこ取りといった形の長柄武器です。同じ長柄の使い手であるシホとの死力を尽くした打ち合いは見ものでしたが、激戦の末、シホは敗北しました。エリシア様との公的な模擬試合の挑戦権を獲得できる、最後の機会を逃してしまいました。
「対戦相手の組み合わせ運に、最後の最後で見放されちまったなぁ。ま、太陽竜と戦う前に、運を温存出来たと思うとするかな」
そう言って笑っていましたが、人生の大半を費やして追った夢が叶わずに終わってしまい、落胆が隠しきれていません。わたくしは、気付かぬ振りに努めることにしました。
【捕捉解説】
エリシアがこのページの冒頭、「済まなそうな顔をしている」のは、レナやシホに「傀儡竜のウイシャ様(エリシアの妹)」の存在を隠しているからです(青草シリーズ既存作品に登場)。グランティスという国そのものの機密なので、いくらシホと仲良くしていてもおいそれと話せません。レナも王族ですが、もう少し年を重ねて要職に就いてからようやく知ることが出来る情報です。