全てを青に染める人
【新暦600年台の物語】
億劫な心と体を引きずるようにしながら、彼は街を離れて数刻歩き、荒涼とした草原へやって来た。
身を倒すと体を埋めてしまう、雑多な草が生い茂る。誰の土地でもないのだから、誰も手入れなどしていない。
自然のままの若草色や稲穂の黄金が、鮮やかに光を跳ねている。ああ、自然の色彩とは素晴らしい。誰もがそう思うだろうな。
温かな色と草露の仄かな冷たさに包まれながら、男はどこか諦めたような心地で目を閉じた。
「……ふぁ、あ~……」
目覚めて一番、大あくびをして身を伸ばす。目尻に浮いた涙を拭ってようやく目を開けると、飛び込んできたその光景に、男は思った。
なんだろう、もしかして、僕はもう死んでしまったのか?
先ほどまでごく当たり前に自然の色をしていた草原が、一面、真っ青に染まっていた。
その荘厳な光景が畏れ多くて、男はこわごわと立ち上がる。すっかり腰が引けているが、そんな低姿勢でも少し離れた場所にいた女性の姿は目に留まった。青一面の景色の中で、彼女の輝かしい金色の髪はよく映えて、浮かび上がるように目立っていた。
「あの~、こちらはもしかして、死後の世界なんでしょうか?」
「わっ……すみません、こちらに人がいらっしゃるとは思わなかったもので。驚かせてしまいましたね」
女性は立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。腰までの長さの髪が反動で揺れる。膝丈よりほんの少し長い、青い旅装のローブに、右側頭部の青いリボン、青い瞳。髪色以外の全てが青で統一され、ともすれば青い草原に溶け込んでしまいそうだ。
「私はイリサと申します。実は私がいる場所はこのように青く染まってしまうもので。街中にいると皆さんにご迷惑をおかけしてしまうと思って、こちらにいさせていただいてたんです」
死後の世界ではございませんので、どうかご安心ください。彼女の笑みは実に静謐で、男の目にはまるで天使のように映る。こんなにも理想のままの世界なら、いっそ死後の世界であっても構わなかったのに。
「迷惑だなんて、とんでもない! それがもし本当なら是非、この僕を染めていただけないでしょうか!?」
「はい? と、おっしゃいますと?」
「是非にも染まりたいんです! あなたの色に!」
「はぁ。変わった方でいらっしゃいますねぇ」
本当によろしいのでしたら、とイリサが確認すると、男は必死の動きで頷いてみせる。
そうは言われても、一体どちらを触ればいいのでしょう。こんなことを頼まれたのは初めてですし……。とりあえず、無難に。イリサは両手を伸ばして、自分より少し背の高い、男の肩に触れてみた。
男の身に着けていた衣服の全てと後ろで縛っていた髪、眼鏡とそのレンズの全てが、塗り広げるように端から青に染まっていく。
「おお……! 素晴らしい! こんな色に染まった自分に、長年憧れていたんです! ありがとうございます!」
「そうなんですか? 喜んでいただけたなら何よりです~」
触れたものの全てが、自分のいる周囲が、青く染まっていく性質。迷惑と思われこそすれ、まさか誰かに喜ばれる日が来るなどと今まで夢想だにしなかったイリサは、謙遜などせず素直に喜びを伝えた。
「よろしければ、一緒に僕の生まれ育った街へ来ていただけませんか!?」
「ええ~!? 街の人に怒られてしまいますよ!」
「決してあなたに嫌な思いはさせません、全ての責任は僕が取ります! どうか……どうか、お願いします!」
いくらなんでもこれは断るべきだろう……それがイリサの正直な気持ちだった。しかしながら、男の様子があまりに必死で、切実なもので……。
「も~……しょうがないですねぇ~……」
元より、人に頼られたら断り難い質でもあって、男の希望を叶えることにする。男の足取りはご機嫌で、影のように後をついてくイリサの足は渋々とした体であった。
「こちらの道が、普段僕のいる部屋から眺めている場所なんですよ!」
気分高揚し、生き生きと男は路地裏を示す。馬車等の行き交う町の本通りから建物一列を挟んだすぐ裏手にある、静かな通りだ。人通りは常にまばらである。
彼につき従う、のんびりした足取りのイリサがここへ至るまでに通った石畳の歩道は、一本線を引くように青く染まってきていた。それを見るだけで男は興奮を抑えられなかったが、「この街で、青く染まった姿」を見るのは慣れ親しんだこの一画でありたい。そう思ってここまで堪えてきた。
良かったら僕の後ろをついて歩いてみてください、と告げてから、男は未舗装の土の道を右へ左へ、隙間を埋めるように折れながら歩く。イリサが大人しくその後に続くと、地面は群青に染まる。
「おお~……場所によって染まる色が違うんですね!」
「先ほどの草原とはまた違った色ですね。草原は空の色に似ていましたが、こちらは海の深みを思い出します」
「イリサさんは海を見たことがおありで?」
「見たというよりは、私にとってはなじみ深いと申しますか」
「羨ましいなぁ。僕はこの街を出たことがありませんので、死ぬまでに一度でもいいから海を見てみたかったのですよ」
男の故郷、王都フィラディノートは黄土色の煉瓦で四方を囲んだ内陸の街だ。経済的には大陸一豊かな、地方出身者にとっては憧れの街である。しかし、住居を確保することが優先で街は建造物で満ちて、必要最低限の道路を除けば土の地面さえ見えず、街を出なければ草花すら視界に入らない。男にとっては実につまらない街だった。
「青い色が好きだから、海が見たいのですか? 海に憧れているから、青い色が好きなのですか?」
「もちろん前者ですとも! 港町へ行き波止場へ立てば、視界いっぱいに海と空しかない景色が見られるのでしょう? なんとも素晴らしいのでしょうなぁ~……」
生まれてから何度も焦がれた夢想に浸りかけて、慌てて頭を振りその魅惑を払う。自分達の行動が住民に気付かれて、誰かに咎められるより早く、少しでも街を青く染めたい。
「試しに、この建物の壁に手をついてみましょうか」
「は~い」
最初は躊躇っていたというのに、イリサも男の奇妙なおねだりにすっかり慣れてしまい、言われるがまま赤茶色の煉瓦に手のひらをぺたりと押し当てる。
イリサの手の着いた場所から滲みが広がっていくように、煉瓦が青く染まっていく。
「青い煉瓦なんて初めて見ましたよ!」
「私もです。こんなこと試したりしませんでしたから」
浮足立った男は調子良く、通りの建物を次から次へと、青い色に染めて回る。なじみ深い裏通りが一軒残らず青く染まったその時。
「シアーズさん! 何をしているんですか!」
通報を受けた最寄りの駐在所の駐在員が駆けながら、男の名前を叫ぶ。
「いけません、イリサさん! あなたはどこかへ身を隠してくださ、い」
自分の終生の願いを叶えてくれた恩人をお縄に着かせるわけにはいかないと、男は慌ててそう促した。すぐ傍らにいた彼女を振り返ったその時。
気が付いた、彼女の、足元。そこにあるべきはずのものがないことに。
「シアーズさん、この青い髪、どこの理髪店で染められたんです? いったん駐在所へお出でいただきますよ。少しだけお話聞かせてもらえたらすぐ部屋へお帰りいただけるので、ご心配なさらず……」
事務的な駐在員の言葉も、右から左へと聞き流す。草原からここまで行動を共にし、今も彼の隣にいたイリサには目もくれず、青い地面に痕を残すほどの力で引きずっていく。ちょっとバツの悪そうな顔で、イリサは壁際に佇むばかりだった。
視界の全てが白い部屋。白い寝台の上で白い布団に包まれて、そこから頭だけを出してただ天井を見つめるだけの日々。今も青く染まったままの髪と、元はただの眼鏡だったがイリサに染められて「青い色眼鏡」と化したレンズを通して見える青みがかった視界が、彼にとって何よりの慰めだった。
イリサに染めてもらった、窓の外の裏通りは今も青く染まったままで、街を騒がせている。いつその色がなくなるかもわからないからと見物人も多く、かつては静かだったその通りは今は些か賑やかだ。ああ、いいなぁ。こんな喧噪も、僕はずっと恋しかった。
あの日、あんなに楽しげに自由に動かせたその体は、それこそあの日が最後の自由だったのだろうか。まるで嘘のように、診断通り、疲れ果て寝台から下りることさえ出来なくなった。それこそ、すぐ側の窓辺へ立ち、愛しい青い世界を眺める自由さえ……。
「よっこいしょ、っと」
シアーズに長年与えられた病室は一階で、開け放たれた窓からはその気になればこうして入り込むことは可能だが。そんなところからの見舞客は彼の人生で後にも先にもこれっきりだった。
イリサは膝より長いスカート丈に苦戦しながら、窓枠を乗り越えるのだった。
「黙っていてごめんなさい。私は普通の人には見えない体なんです。あなたの目に見えたのが何故なのかというのも私にはちょっと、心当たりがないんですけど……」
「そうですねぇ……もしかしたら、自分の力で、この足で……望みを叶えることさえ出来ない僕を憐れんで……神様があなたを遣わしてくださったのではないでしょうか」
あなたはまるで、僕の夢がそのまま形になったような、青い天使だったので。先行き短いシアーズにとって、そんな歯の浮くような賛辞も恥じ入る理由は何もない。ただ、目の前にいる彼女に感謝を伝えたかった。
「僕は子供の頃から、青い色が大好きで……この街で見られる全てを、青い塗料だけで描き、表現してきました。来る日も、来る日も。大人になったら港町、ミラトリスへ移り住んで、毎日青い海を見て暮らすんだと夢見て……」
しかし、この世界で正式に成人と認められる十五歳を目前にしたところで、彼の体は病に侵された。長い時間を歩くことも出来ず、馬車などの長距離移動にも耐えられない。迫りくる死は別に、恐ろしくもない。ただ、ごく平凡な大人の体であればさしたる距離を移動さえすれば、誰でも目に入るものなのに……海を見ずに死ななければならないことが、ただただ無念でならなかった。
「でもね、イリサさん。私はずっと、決して現実にはありえない、どこを見ても青しかない街の風景を夢物語として、絵に描いてきたんですよ。そんな夢の風景を、あなたは叶えてくださいました。私よりずっと長く生きられる人だって、こんな形で、ありえない夢を叶えられる人なんて……そうそういらっしゃらないでしょう」
短い命だった。しかし、確かに自分は、描き続けた夢を叶えたのだ。
「人生の終わるまでに夢を叶えられて、僕は幸せでした。イリサさん、ありがとう、ございました……」
「シアーズさん……」
気付けば、イリサがこの部屋に入った効果か、部屋の壁も床も天井も、青い色に侵食されていた。イリサがそっと、布団に触れると、その場所もどんどん染まっていく。
シアーズは大好きな色に包まれながら、数日後、永き眠りに着いたのだった。
シアーズと別れ彼の部屋を後にして、イリサは徒にフィラディノートの街を練り歩き、無作為に街頭を青く染めて回った。単身では情報を得る手段を持たない彼女は、シアーズの死を知ることが出来ず、彼の夢を少しでも叶えたかったのだ。
そしてかねてからの約束だったその日を迎えると、街の入り口へ向かう。
「あっ、コウくーん!」
約束の人は先に、待ち合わせの場所に来ていた。
「やっぱり、青く染まった街っていうのはイリサの仕業だったんだな。この街の外までその噂で持ちきりになってる」
「ごめんなさい~。やっぱり、騒ぎになっちゃいましたよね」
赤い髪に黒い着物の成人男性が、腕に空色のテディベアを抱えている。おまけに、人の目には映らないイリサと場所を選ばず会話するので、傍目には独り言をぶつぶつと繰り返して見える。往来でこうして歩いているだけで奇異の目をばしばしと向けられるが、本人は人の目を一切気にしない性格だった。
イリサの長年のパートナーであるコウとは、別行動を取ることはめったにない。しかしこの度、どうしてもコウひとりで片付けたい用事があって、イリサだけでフィラディノートに残ることになった。
コウの側にいる時は、イリサの備え持つ魔力は制御出来るため、周囲を青く染めたりはしない。シアーズに初対面で説明した通り、人の迷惑にならないよう、フィラディノートから少し離れた草原でイリサはコウの帰りを待っていたのだ。
「まぁ、いいじゃないか。一度染まったからって消せないわけじゃないんだし」
「ええ。だからこそ、街の人に悪いな~とは思いましたけど、私も協力することにしたんです」
「どうする? さっそく消しにかかるか?」
「そのぉ……シアーズさんが亡くなるまでは」
「シアーズって名前の画家ならもう……新聞に載ってた。街を青く染めたのは自分だって、ろくに動かない病床から主張してた、狂気の画家……って」
「狂気とはまた、あんまりではないでしょうか……」
この時点でのイリサはその表現に、シアーズを憐れんだものだが。後年、彼が遺した「全てが青い色だけで描かれた絵画作品」と、一時的にフィラディノートの街のところどころを青く染めた現象が都市伝説と化し。生前は無名画家だった彼の作品がカルト的な人気を博し評価されるようになった。
「せっかくしばらくぶりにお会い出来たのに申し訳ないんですが、ひとりで行動して少々疲れてしまいまして……コウ君の中でひと休みさせていただけないでしょうか」
「ああ。どうぞ」
「ありがとうございます!」
そう断るや、イリサはコウの背中に伸びていた影の上に立つ。その中に吸い込まれて姿を消した。
あの時、シアーズが見たのは、イリサの足元に「影が存在しない」という事実だった。
コウの影の中に入ったとたん、イリサが青く染めた草原も町の風景も、全てが元の色に戻ってしまった。
私の魔力はこうやって、コウ君のところへ帰るだけで、跡形もなく消えてしまいます。でも、シアーズさんが描き続けた青い色の絵画はこれからもずっと、この世界に残り続けます。
生命と海を司る神たる私よりも、僅かな時間を精いっぱい生きた彼の方が、ずっとずっと凄くて尊いと……私はそう思うのです。