夢へ向かって第一歩
「赤首が剣闘場で優勝した時のみ」しか模擬試合は開催されないので、その機会は一年に数度しかありません。ゆえに模擬試合が開催される日はそちらに集中するため、他の試合は行われないことになっています。
観客がお帰りになってから、剣闘場の事務室では今後の試合の対戦表の作成などの雑事を行いました。わたくしも一応、剣闘大臣の役職に就いておりますので参加します。雑事に煩わされたくないエリシア様はすでに、イルヒラ様に姿を変えていました。
「はー、終わった終わった」
「本日はお疲れ様でした。イルヒラ様も、エリシア様も」
「レナちゃんこそ。じゃあ、帰ろうか」
「はい」
イルヒラ様も、エリシア様と同じように神器の斧頭を肩にのせて歩き出し、わたくしはその後についていきます。剣闘場を出ると時刻はすでに夕暮れで、空が赤くなっていました。
グランティスという国は人工芝を全体に育てていて、剣闘場の周囲でも例外なく。その芝生の上に、胡坐をかいて座り込むシホ様がいました。試合は午前中でしたし、十文字槍は分解して手提げ鞄に納めてあり、剣闘士の身なりから私服にも着替えています。とっくに帰宅の準備を整えているのが明らかなのに、何時間もここにいた様子。
気の抜けたような表情でぼんやりと空を見つめているので……もしかして、いわゆる燃え尽き症候群にでもなってしまわれたのだろうかと、わたくしは言い難い感情に蝕まれます。わたくしは、シホ様の生涯を捧げた夢が「叶わない可能性が高い」のを知りながら、今日まで何の助言もせず口を噤んできましたから。何と言ったら良いのかわからなかったというのもありますが、自分の行動が無責任に思えてしまうのです。
「よお、お疲れ。あの長い槍、そうやって小さくして運んでたんだな。便利そうでいいな」
イルヒラ様は一寸の憐れみすらなく、常と変らぬ態度でシホ様に話しかけました。本当は俺達の神器も「姿かたちを変えることに特化してる」から、やろうと思えば小さく出来るんだけど、エリシアが絶対に許してくれないんだよな、とぼやいています。
気まぐれに声掛けしただけで、長話しようという気はなかったのでしょう。イルヒラ様は立ったままで、座り込むシホ様を見下ろします。シホ様は少しすねたような、鳥のように唇を尖らせたままで口を開きます。
「イルヒラさんよぉ。あんたが話してたのと大分違うんじゃないか?」
「ん? 何が?」
「エリシア様のおまけみたいに扱われるのが不服っていうから、あんたを倒せればあっちともそれなりに良い勝負が出来るのかと思ったのに。あんたとあいつの実力、天地ほどの落差があるじゃないか」
「誰がそんな言い方したっつーの。俺は剣闘士と戦えるくらいには鍛えてあるって言っただけで、戦いに関してエリシアと対等なんて言ってない。おまえが勝手に勘違いしただけだろ?」
言っちゃ悪いけど、戦闘馬鹿のエリシアには俺みたいに頭を使った仕事はこなせないし、お互いの長所で不足を補ってる、対等の関係。それが巨神竜としての自分達の在り方なんだよ。イルヒラ様はそうおっしゃいますが、この場での会話はエリシア様にも筒抜けです。このような言葉選びをして、エリシア様の不興を買うのではと冷や冷やしてしまいます。
「……そんな簡単に果たせると思ってたわけじゃないつもりだったが、心の奥底じゃあ見積もりが甘かったんだろうな。オレに出せる全てを捧げて取り組んできたんだから、きっと報われるはずだ……ってな」
「……わかってると思うけど、使える時間の限りがあるとか努力の内容とかそれぞれ違っても、自分に出せる全てをかけて挑んでるってのは皆同じだからな」
「わかってんよー。その上で、『とにかく最速で望みを果たしたい』って、オレの頭ん中の空論が通用しなかった。今回わかったのはそういうことだな」
シホ様は座ったまま、指を組んで腕を上や前に伸ばして柔軟運動してから立ち上がりました。
「今後は相棒を隠す必要もないし、ひと試合ごとの勝敗にゃこだわらないで、どの剣闘士とあたっても『自分の技術を磨く目的』で打ち合うことにするわ。どんだけ策をこらしたところで、エリシアの常識はずれの動きの前じゃあ無意味だ。そういうことだったんだろ?」
「親善試合で負けた後で俺が言ったことについてなら、そういうことだよ」
シホ様はイルヒラ様に先入観を抱かせて意表を突く作戦で、計算通りに勝利を収めました。しかし、全く同じ動作をして先入観を抱かせることに成功したとしても、相手がエリシア様であれば難なくかわされます。同じ結果にはならないのです。
「明日は予選会で、本戦の試合はなし、か。一日くらいはゆっくり休んでみるかな。そんじゃ、おふたりさん。また剣闘場で」
ひらひらと手を振るシホ様が歩き出し、グランティスの街並みへ去っていくのを見送りました。
それからのシホ様は、かつてご自分でおっしゃっていたように、これまでの破竹の勢いではなくなって勝率が落ちていきました。これは悪い意味ばかりではなくて、ロンゴメリ様の時にそうしたように「策を弄して勝ちにこだわる必要がなくなり、正攻法で剣闘士らしく戦うようになった」ゆえのことでした。実際、ロンゴメリ様との再戦も何度かあり、正面から戦ったシホ様は技術で劣り敗北を重ねています。
それでも、機運に恵まれて優勝したことは数度あり、イルヒラ様との再戦もありました。しかしすでに手の内が明かされているため、イルヒラ様に勝利してエリシア様との再戦の権利を得てはおりません。
予選会の頃は特例、最初の本戦出場では姑息な手口で勝ち上がる姿を見せてきたシホ様は、決して剣闘場の選手や観客界隈から快い目で見られてはいませんでした。ですが、元からシホ様は社交的で人当たりの良い方です。真面目に剣闘士として取り組むようになってからは人々の見る目も変わって、試合前後に対戦相手と積極的に交流されるので、剣闘士の親しい仲間も増えてきたようでした。
本戦で十文字槍を隠す必要がなくなってからはシホ様も剣闘場へ移設の鍛錬場で、親しくなった剣闘士の皆様と打ち合い稽古をするようになり、人目を避けるため夜に町の外へ出る必要はなくなったはずです。わたくしも、拾得した魔法剣のことを打ち明けて使って良しと認められたのだから同様です。……なのですが、お互いに何らかの気持ちがあって、わたくし達は相変わらず月明かりに恵まれた晩にはこうして共に過ごしていました。
「エリシアから認められて、予選会への出場が決まったんだって? おめでとうさん」
シホ様がグランティスへ来て、二年。正式に剣闘士になってから一年が経過した頃。わたくしにも、新しい世界へ一歩踏み出す日が訪れたことをシホ様にご報告していました。
「あ、ありがとうございます。わたくしのような未熟者が恐縮なのですが」
「十五歳になってすぐ予選会に出る新人は誰でも最初は未熟者さ。ところで、エリシアからの鍛錬と予選会出場を認める条件ってのは何だったんだい」
「それはですねー……」
わたくしは一度立ち上がり、シホ様にもそうしていただけるよう促します。彼が立ち上がるのと入れ替わりに、今度は膝を抱えてしゃがみます。あくまでしゃがむのであって地面に膝を着けてはいけませんし、足裏は踵までしっかり土を踏みしめます。
「シホ様。わたくしの肩の上に膝を乗せていただけますか?」
自分より体格のある男性を、不安定な体勢で。ですが、わたくしとてエリシア様から予選会出場を認められているのです。それを「お墨付き」と判断されたのか、シホ様は「どれどれ」と言いながら、お願いした通りに行動してくださいます。
鍛え上げられた膝が、わたくしの肩に食い込みます。シホ様の膝裏に手を差し入れて落ちないように気を付けて、わたくしは立ちあがります。
「このような体勢で成人男性を担いで難なく立ち上がれるようになれば、必要な筋力は身に着けたと認めると、当初からエリシア様との約束だったんです。打ち合いの際に姿勢を保てないほどに未熟な足腰では話にならない。剣技に関しては最低限の動きが出来れば、後は実戦で『負けながらでも』培っていけばいいと」
「なるほどねぇ。勝てる算段がついてから出場なんてやってたら、お姫様がお婆様になるまで出られねぇもんな」
「あっ、シホ様! あの約束、忘れてないですよね? わたくしが予選会に出場したら、名前で呼んでくださるって!」
「忘れてねえよ。レナ」
「……はいっ!?!」
「そうしろって言っておいて、その通りにしたら何をそんなに驚くんだよ」
「だって、あんなに……二年にも渡って渋っておられたのに、いざとなったらあっさりしてるから」
「オレの方から言い出したことだからなぁ」
「……シホ様は、どうせわたくしは試合になど出られないと、約束を叶えられない前提で言ったのではなくて。わたくしが一歩踏み出せるように、目指すべき動機をひとつ増やしてくださったのですよね」
一年も前のことなんて覚えてねえ、なんて嘯いておられますが、わたくしはそう確信していました。
「レナこそ、いつまでもオレをシホ様って呼んでるじゃねえか」
「それはシホ様に限らず、剣闘士の皆様、全員に対してそうしていますので」
わたくしは剣闘大臣。予選会出場にあたってその役職は他の王族に譲ることにしましたが、剣闘士の皆様が戦ってくださり、剣闘場という場が成立するからこそ成り立つ役職に就いていました。王族であっても、目上の方々と思って尊敬を持って接するのは当然と考えておりました。
「今まではそれで構わなかったが、今後は予選会に出る以上は改めた方が良い。『誰々様、本日の対戦では宜しくお願い致します』なんてやってたら、相手はレナを王族、姫として意識して打ち合いにも遠慮が入るぜ」
「それは……確かに、あなたのおっしゃる通りです」
「つまり?」
「……わかりました。わたくしも、剣闘士の皆さんに対等に思っていただけるよう、接し方に気を付けようと思います。ですよね、……シ、……シホ……、あうぅ」
自分からは求めておいて、いざ同じことをしようとするとこそばゆくて、目が回ってしまいそうに緊張しました。
「対等」というもののなんたるかということを、わたくしは理解が及んでいなかったみたいです。エリシア様とイルヒラ様は、エリシア様の方が圧倒的な強者でありながら、イルヒラ様を対等と認めておられます。それは、イルヒラ様の精神的な強さをきちんと認めておられて、自分の不得手な部分を安心して任せられるからです。いわば、お互いの背中を委ねられる関係ということ。
剣闘士を目指すというのは、皆様と同じ立場になるのだということ。剣闘場の中にいる時分、わたくしは自分が王族であることを忘れるべきなのだとようやく思い至りました。
「普通に名前を呼ぶだけでそんな気合が必要なんて、王族ってのも難儀なもんだねぇ」
「あ、ありがとうございます。シホのおかげで、予選会の初戦を迎えるまでに認識を改めることが出来ました」
「お役に立てて良かったよ。明日の試合、オレも楽しみに見させてもらうからな」
「はい! 精いっぱい、頑張りますっ」
……最初に申しあげておきたいのですが、我がグランティスの剣闘場では、対戦相手の組み合わせを恣意的に行うことは一切ありません。厳正なる抽選の結果によって選ばれています。
わたくしの予選会最初の対戦相手は、「予選会に参加してから二年間、一度も勝利したことのない、最弱選手」と呼ばれている方でした。……ええ、シホの剣闘士になって初大会の組み合わせが彼にとって都合の良すぎるものであったことと、今回。二度も同じようなことがあって疑うなと言う方が難しいかもしれません。でも、誓って本当に、八百長などではないのです。
剣闘場運営側よりも、もっと大きな何か。いわば、これも「運命」というものの采配なのかもしれません。
最弱の現役選手と、最弱の新人選手。勝つのはいったいどちらでしょうか。明日の対戦が皆様にお楽しみいただけるよう、わたくしも全力で頑張りたいと思います。