レノ・クラシニア
念願の本戦出場を果たし、剣闘士として最初の試合を迎えたシホ様の対戦相手となったのは。
「久しぶりだな、クトゥ。初戦の相手があんたで良かったぜ」
「……僕がこの半年、本戦で一勝もしてないからって?」
予選会での対戦経験のある、クトゥ様でした。予選会と本戦では、選手層がまるで違います。予選会で順調に百勝を重ねて剣闘士になっても、本戦ではなかなか勝ち星を得られない、伸び悩む選手はかなり多いのです。
「そりゃあ勘違いだぜ。あんたとやり合った時、こっちが様子見してる隙に瞬殺されただろう? あの時、こっちからさっさと動いてたらどうなってたかって、こっちは何度もひとり反省会してたんだ。想像じゃなく実際に試せるっていうのはありがたいことじゃないか」
この半年の伸び悩みで、クトゥ様はすっかり考え方が卑屈になってしまっているようです。シホ様のごく真っ当な言い分に、恥じ入るように口を噤みます。
……ですが、わたくしはシホ様から聞かせていただいたので、知っています。シホ様の言い分は嘘ではありませんが、クトゥ様の指摘も本当は正しいのです。勝ち抜け戦の試合表はすでに告示されていて、その組み合わせ表を見たシホ様はこう言いました。
「オレの対戦相手の並び、有力選手や赤首が全くいねぇ。幸先が良い。こんな都合の良い組み合わせは二度とねえだろうから、一試合も落とさず優勝して、イルヒラと戦いてぇところだな」
「剣闘士になって最初から、そんなに上手くいきますか? 失礼ですが、先達を侮り過ぎてはいませんか?」
「侮ってる? 逆だよ。今のオレは、小手先の計算で勝ち上がってるだけで、大した実力がねぇ。現役の剣闘士連中を相手に、勝つために使った小ズルいやり方は一度っきりしか通用しねえだろう」
小手先の計算というのは、オーデン様との対戦で使ったような、「真っ向勝負をせず、相手の意表を突く罠のようなやり方で勝つ」、ああいうやり方のことでしょうか。
「何度も出場してオレのやり方が剣闘士界隈に周知されていくほど、オレの勝率は落ちて伸び悩んでいくはずだ。最初だろうが無茶だろうが、一戦も落とさねえぞって気概でやっていくからな」
クトゥ様との前回の対戦では、様子見から入ったことを後悔していたというシホ様は、今回は開戦の銅鑼と同時に駆けだしました。グラディウスを脇構えの体勢で小走りに前進します。
予選会の選手だった頃は自分の身軽さに自信を持っていたクトゥ様は、いつでも試合開始を告げる銅鑼の音と共に風のように俊敏に飛び出していました。ですが、今はすっかり自信喪失してしまっていて、動き出すまでに躊躇いを見せています。精神の不調というものは、その人の本来の実力をこんなにも鈍らせてしまうものでしょうか。
そうしているうちに、シホ様はクトゥ様の目前に迫りました。そして、クトゥ様の持つ薄刃の短刀に全力でグラディウスの刃を叩きつけます。シホ様が小走りだったのは、「全力を出すのはあくまで、打ち合いになってから」という戦略だったからです。
さすがに、クトゥ様はこの動きには反応してきて、きちんとグラディウスを受け止めました。しかし、二度、三度。左右から何度も何度も、シホ様は全力でグラディウスの肉厚な刃を打ち込んできます。
「くぅ……ッ」
クトゥ様は、何かを覚悟したように、ぎゅっと目を瞑ります。その直後、彼の手からファルカタが抜け落ちて、剣闘場を羽のように舞い上がってから地に落ちました。
ファルカタは元々、繊細な短刀です。身のこなしに長けたクトゥ様が瞬発力で相手に接近し、急所に刃先を突きつけることで試合を終わらせてきました。
グラディウスをはじめ、肉厚な刀剣で力強く打ち込まれたら、剣闘士としては華奢で小柄なクトゥ様に受け止めることは出来るのか? 勝利条件のひとつである、「手持ちの武器を手放させる」ことが出来るのではないか? シホ様は以前からそう思案していて、今回はそれを試したのですね。
「あの頃はまるで鳥が羽ばたくように、自由に楽しげに動けてたっていうのに……自信喪失ってのは恐ろしいもんだね」
オレもよくよく、心折らないよう気を付けないといけないな。せっかく計画通りに勝利したというのに、シホ様には膝を着き途方に暮れるクトゥ様の姿が他人事には見えないようでした。
シホ様も今は本戦に参加する剣闘士ですので、エリシア様も主賓室から試合を観戦されています。同席していたわたくしは、試合の合間の選手の準備、待機時間を見計らってあの話をご相談しました。
「ゆくゆくは剣闘士目指したくて、予選会から参加したい? いいんじゃないの、別に」
お返事は、ある意味、わたくしの想像していた通りでした。王族と言えどわたくしが唯一無二の血筋というわけではありませんので、もしわたくしの身に何かあって子孫を残せなかったとしても、大局的な影響はないでしょう。
とはいえ、「反対はされない」というだけで、わたくしに対して「期待する」という感情は全くありません。いたって淡泊な反応です。エリシア様は「やってみたい!」という意気込みだけで人を評価する方ではありません。きちんと努力と鍛錬を重ねて、そのやる気に相応した実力を備えて初めて評価に値する。そういう判断基準を信条とされています。
「出るっていうなら今すぐじゃなくて、きちんと体を作ってからよ。あんたもグランティスの王族に生まれたんだからわかるわよね」
「はい。相応の鍛錬もせず、ただやってみたいからと試合に出るなんて、現役で戦っておられる選手の皆様に失礼ですから」
「あんまりにも弱っちいままで出られたら王家の恥だから、あたしも時間見つけて鍛えてあげる。ありがたく思いなさい」
「もちろんです。ありがとうございます」
世界で最強の闘神であられるエリシア様が、「血族だから」という理由ひとつで特別に時間を設けてくださるのですから、こんなにもありがたいことはないでしょう。わたくしは頭を下げました。
得物は何を用いるのかと訊ねられたので、わたくしは普段は服の内側にこっそり隠している魔法剣の宝石を差し出しました。あの夜、シホ様に話した事情も打ち明けます。砂漠で拾って、盗んでしまったものだと。
エリシア様は真剣な眼差しで宝石を隅々まで眺め、触って確かめて、刻印された「トイトイ」の文字を指でなぞります。
「この『トイトイ』に関しちゃ、クラシニアに返す必要ないわ。だからあんたが拾って使ってても問題なし。たぶん」
「問題なし? どうしてそのようにわかるのですか?」
「この魔法剣の持ち主だったトイトイってやつは、……百五十年前? くらいだったかしら。レノ・クラシニアっていう、あちらさんの末席の姫の従者だったのよ。天涯孤独だったそうだから遺族なんていないし、レノだってクラシニアの体制に不満があって出奔してる。それで一時期はあたし達、グランティスに身を寄せてたのよ」
グランティスでは数年おきの頻度で、砂漠に潜む砂精霊を少しでも減らすための討伐遠征を行います。レノ様は魔法剣の腕前で、是非それに貢献したいと申されて、エリシア様と共に砂漠で砂精霊と何度も戦ったのだそうです。
「トイトイは砂漠で行方不明になって、後に砂精霊に食われてたことがわかったの。だからレノは仇討ちのために砂精霊討伐にやっきになってたし、トイトイの遺品を回収したがってた。十年以上はその活動を続けたけど、グランティスからR大陸のフィラディノートへ移籍したのよね」
その理由は、グランティスでは魔法よりも武闘の研究に熱心で、魔法剣の技術の需要が低かったから。フィラディノートは世界有数の、魔法研究を重視した都市です。クラニシアの秘伝である魔法剣の技術を得たいと、レノ様を勧誘されたのでしょう。
「レノが去ってからも、グランティスは変わらず砂精霊の討伐は続けていくし。もし、トイトイの遺品を見つけたら預かってくれって頼まれてたのよ。レノが存命中に見つけられてたら送ってやるつもりだったけど、もう死んでるからね」
「そうでしたか……」
わたくしが拾ったものを勝手に所持していたという罪、そのものがなくなるわけではありません。けれど、今後もトイトイを手放さなくて済むらしいとわかって、わたくしは大いに安心いたしました。
「それにしても、エリシア様。もう百五十年も前のことなのに、よく詳細に覚えておられましたね。レノ様はまだしも、トイトイの名前や事情まで」
「なんでもかんでも覚えてられるわけじゃないわよ。レノみたいに、いっときでも戦友だった奴の頼みは果たせるまで忘れないようにしてるだけ」
やっと果たしたからこれで晴れて忘れられるわ、なんて嘯いておられますけれど。エリシア様は今後も、レノ様との思い出やトイトイの話を忘れたりはしないような気がします。