魔法剣のトイトイ
直していただいたグラディウスも無事に受け取り、明日はシホ様の剣闘士としての初戦です。
「今夜は早くお休みにならなくて良かったのですか? 明日に備えて……」
その前夜は満月だったので、わたくしはいつも通りにグランティスの街を出ました。さすがに今夜はお会いできないかと思っていたので早々に魔法剣を現し、素振りをしていたのですが。シホ様はいつも通りにお越しになりました。
「しがない下民の、それも賤職と呼ばれる剣闘士風情が、一国のお姫様と夜な夜な密会してるんだぜ? こうしてるだけで日々の疲れも癒えるってものよ」
「他国でどのように扱われているかは存じませんが、我がグランティスでは、剣闘士の皆様は国の誇りです。二度とそのような言葉をお使いにならないでくださいね」
「そいつぁすまなかったな。……しかし、なんだな。オレが予選会を抜ける前に、お姫様と一戦やれなくて残念だったなぁ」
「……シホ様は、わたくしのようなごく平凡な体躯の女に、剣闘士が務まるとお考えなのですか?」
グランティスの剣闘場の参加資格に、性別による制限はありません。年齢は、成人してから。つまり十五歳以上という下限はありますが上限はなく、高齢の男性であっても実力さえあれば引退せず何歳までも活躍されます。
しかし、エリシア様の方針として、例えば「女性だけが参加できる試合を開催する」というような、性別によって区別することを許されないのです。参加するのなら、屈強な男性を相手にしても臆さず戦えることを求めています。
「『女に剣闘士が務まるか否か』なんざ、オレにゃあわからねえけどよ。お姫様が魔法剣を振ってる姿勢や動きは、なんだかこなれて見えるんだよな。まるで、戦場での実戦経験でもあるんじゃねえかと思わされるような……。そういやその魔法剣自体、どっから手に入れたものなんだよ」
わたくしは以前、シホ様へお話ししています。わたくしが魔法剣を所持していることも、こうして夜にひとりで鍛錬していたことも、誰も知らない。わたくしは、それを誰にも打ち明けておりませんから……偶然知られてしまった、シホ様以外には。
「ご存じですか? 魔法剣というのは、グランティスの隣国……砂漠の国、クラシニアの伝統的な武器なのだと」
「詳しくは知らねえが、グランティスに来てから、剣闘士界隈の世間話でちらりとは聞いたな」
わたくしは光の剣を宝石の中へ戻し、手甲から外してシホ様に手渡します。そして、宝石に刻まれた文字を指でなぞります。その動きを目で追ったシホ様が、文字を読み上げました。
「トイトイ?」
「この魔法剣の持ち主だった方の名前だと思います。これは、数年前。わたくしがまだ幼子……十歳になったばかりの頃でしたか。グランティスが定期的に行っている、砂漠の視察の際に見つけて、拾ったものです」
現在、グランティスとクラシニアの関係は良好になりつつあるのですが。エリシア様とイルヒラ様がお生まれになった当時、七百年ほど前は戦争状態にありました。関係が改善されたきっかけは、四百年前にG大陸を襲った「精霊族の襲撃」により、それぞれ大国であったグランティスとクラシニアは協力して精霊族を打倒しなければならなくなったからです。
精霊族はその戦争から間もなく自滅の道を辿ったのですが、まるで置き土産のように、砂漠に「砂精霊」を遺しました。砂精霊は生まれたままの状態では、自我も知能も持ちません。砂漠を歩く人を襲い、喰らうことで、その人の思考を吸収するのです。
「統一軍との戦争で亡くなった方の遺品としてはこの宝石はまだ真新しく、綺麗すぎます。おそらくこの百年から十数年の間に、砂精霊に襲われて命を落とした方のものではないでしょうか」
「砂精霊に食われた人間の身に着けてたもんは、そのまま砂漠に散らばるのか」
肉でないものは消化しないで、吐き出すのだそうです。シホ様のご想像の通りだと思いますので、わたくしは肯きました。
「せいぜい百年前後の遺品で、名前も、出自がクラシニアにあることもわかっている。遺族の誰かがご存命かもしれません。でしたらこのような拾得物は、速やかにクラシニアへお返しするべきでしょう。……ですが、わたくしは。どうしても、この魔法剣……『トイトイ』を手放せなかったのです」
一国の王族の姫ともあろうわたくしが、ひと様の落とし物を盗むような真似をして、後ろめたくてなりませんでした。当然、誰にも見られたくないと、必死で隠し続けました。
月明かりの下で、魔法剣を現して。眺めたり、ひとりきりで手習いをしていると……なんだかとても、懐かしくて、あたたかな気持ちになるような気がしました。魔法剣も宝石も何も言葉を口にしないというのに、まるで……「トイトイ」とお話し出来ているかのような心地がしたのです……。
「そのトイトイってやつは生まれた国へ帰るより、お姫様のところへ帰りたかったのかもしれねえな」
「どうしてですか? わたくしには、何の心当たりもないのに……」
「記憶に残ってなくたって、あの魔法剣との動きを見てたらわかるさ。息がぴったりだもんな」
そう言いながら、シホ様はわたくしにトイトイを返すような動作をしました。わたくしが胸の高さに手のひらを上向けて寄り添わせると、シホ様はやはりそちらにトイトイを置いてくださいます。
(……もしも、あなたと直接にお話しすることが出来たなら。わたくしがどうするべきかわかるのにね)
左の手のひらにトイトイを移し、右手で宝石を撫でました。クラシニアへ帰りたいのか。わたくしと共にありたいのか、明確な答えをあなた自身から貰えたらいいのに。……なんて。自分の行いに対する責任を転嫁しているだけですよね。
でも、何の根拠もなくたって……シホ様の言う通り。わたくしにも、漠然と、心の奥底から訴えかけてくるような何かを感じるのです。
わたくしはいつか、トイトイと、約束した気がすると。「あなたと共に、魔法剣を振るって戦いたい」と。そんな風に語り合ったことがあるのではないかって……。
「ありがとうございます、シホ様。大事な日を控えた前夜だというのに、わたくしの話を聞いてくださって……」
「いんやぁ? オレは元々の習慣通りにここへ来るだけで、お姫様のために殊更何かしてやってるつもりはねえけどな」
「そうですか? でしたら、ひとつだけ。わたくしから、確かな『お願い』があるのですが。聞いていただけますか?」
「ん~……とりあえず、聞くだけなら」
わたくしの改まった物言いに、虫の知らせでもあったのでしょうか。シホ様は予防線を張ってしまわれました。
「わたくしのことは、レナとお呼びいただけませんか?」
「え~……人前でそいつぁ、末端の剣闘士にとっちゃ世間体がだなぁ」
「えぇ~……エリシア様やイルヒラ様から同じことを言われた時には、即座に了承していたじゃないですか! どうしてわたくしだとダメなんですかぁ?」
せっかく、精いっぱい勇気を振り絞ってお伝えしたと言うのに、困ったような顔をされてしまいました。ことのほかその反応が辛くて、涙が浮かんできてしまいそうです。
「あいつらはほら、王族であると同時に同族だからっつうか。……そうだ、いいこと思いついたぜ」
何事か閃いたのか、ちょっと意地悪な笑顔を浮かべながら、ぽんとわたくしの両肩を手のひらで押さえました。
「お姫様が予選会に出たら、オレ達ゃ同じ土台の身内になる。そしたら遠慮なく、エリシア達みたいに呼んでやれるな!」
そ、そこまでしないと、こんなささやかな希望が通らないなんて。なんだか、頬を手のひらで張り飛ばされたような衝撃を、体ではなく心の方に受けてしまいました。そういえば彼の手のひらは、今はわたくしの頼りない両肩にあったのです。今更ながら仄かな体温を感じ始めてしまって、なんだか胸がはしたない「期待感」のようなもので乱されて、思考が茹だってきてしまいます。すぐ目の前にあるシホ様のお顔が、蜃気楼のようにゆらめいてきました。
「もし、わたくしが予選会に出たとしたら……まちがいなく、全選手の中で最弱ですよね……」
予選会に出場される選手層の中には、どんなに頑張っても一勝も出来ないような方も、一定数おられます。そんな方々にだって、人前で堂々と相棒を披露し、鍛錬をしてきていないわたくしに敵うはずがありません。
「いいじゃねえか、最弱だって。誰だって最初から強くはねえ。何度も戦って、コツを掴んで勝てるようになってくもんだ。『女』で『最弱』が予選会で踏ん張って、いつか剣闘士になれたらよ。同じような立場で自分もやってみてえなって思ってる女にとっちゃ、あんたが目標になるかもしれないぜ?」
「……わかりました。ご自分から言いだしたのですから、忘れないでくださいね! 約束ですよ?」
「忘れませんよ~。心して、記憶に刻んでおきますよっと」
こうして、わたくしの新しい道は始まりました。前途多難、最弱、無謀。そんな言葉が相応しい、今まで漫然と佇んでいた場所とは比較にならない、過酷な道へと踏み出そうとしていました。
けれど……彼と過ごせた、たったの五年間。彼が剣闘士として我が国に在ったわずかな歳月は、わたくしだけに限らず、このように多くの人の生き方に影響を与えたのでした。