最弱の神は、生きた証を残したかった。
【新暦700年台の物語】
我が国、グランティスの誇る剣闘場はもうじき百周年を迎えます。
剣闘場は成人済みの戦士が自己責任において自らの腕前を披露し、互いに切磋琢磨することでお互いの技量も高めていく場です。勝ち抜け戦で優勝したからといって、観客の前で勝利を讃えたりといった儀式めいた催しは行われません。そして、試合によって命を落としたとしても、これもまた自己責任。正当な試合運びの結果であるならば、生き残った対戦相手が咎められることも、亡くなった選手が殊更に哀悼されるわけでもありません。
「え~……あたしの自慢の剣闘場を愛してくれてる諸君。いつもありがとう」
そういう事情で、わたくし達を七百年に渡って導いてくださっている女王にして世界最強の闘神……「巨神竜」である、エリシア様が。本日の試合開始を前に特別に時間をとられて、観客の皆様の前にお立ちになっているというのは、前代未聞の出来事なのです。
「今日の未明、グランティスの街を出て南東に五百歩ほどの位置で剣闘士のシホ・イガラシの亡骸を発見。その場で埋葬したわ」
シホ様はこの数年、剣闘場で活躍された、知名度のある選手でした。彼にとっては残念な事実かもしれませんが、それはシホ様の単純な「剣闘士としての強さ」ゆえにそうなったのではなくて……。
「諸君も知っての通り、あいつは傀儡竜。二十歳を迎えると神罰を受けて、人間として生きてさえいられない運命だった」
彼は最弱の神、傀儡竜として生まれました。傀儡竜とは神話時代に「神殺しの罪」を犯された神様が、その罪を転生する度に新しい命で償うための存在。生まれてから二十年は執行が猶予されて人間として生きますが、言いかえれば二十年しか「罪なき人間として生きられない」ということです。
二十歳を迎えると神罰が発動し、筆舌に尽くしがたい肉体的苦痛に蝕まれて、まともに生きることが出来なくなる。
ゆえに、傀儡竜は今生の人々に「最弱の神である」と伝えられています。
「運命を覆すことは出来なくても、このグランティスを最期の地として選んで、最後まで全身全霊で戦った。戦士として生き抜いた。そんなあいつを、あたしは心から誇りに思う」
シホ様が剣闘場で生きる道を選ばれたのは、エリシア様に憧れて、彼女と戦うためでした。そんなエリシア様が公の場で称賛し、哀悼を示し、その御心を民に共有しようとされている。彼がこの事実を知ることが出来るのなら、きっと誇りに思ってくださったでしょう。
エリシア様のお言葉を主賓室から拝聴していたわたくしは、本来であれば起立しているべき場面でありながら、情けなくも椅子にかけさせていただいていました。シホ様は発見され次第手早く埋葬されてしまったため、最期の姿をわたくしはお目にかけることも出来ませんでした。
そんな現実がただただ悲しくて、わたくしはずっと、涙が止まりませんでした。彼がわたくしに残してくださったものが宿るお腹を手のひらでそっと押さえて、吐き気を必死でこらえながらここにいます。恥ずかしながらいつ、吐き戻してしまうかわからないため、普段は剣闘場では側仕えさせていない女中が桶を持って後ろに控えています。
まだ知らぬ人の訃報などという悲しい話から始めてしまって、申し訳ありません。ですが、わたくしは彼の、たった二十年の命をどうか、語り継ぎたいのです。彼は「最弱の神の器」という恵まれぬ運命に生まれながらも……。
自分の生きた証を、自分の亡き後のこの世界に残す。何よりも、それを希望として生き抜いたのですから。
シホ様とエリシア様の……僭越ながら、わたくし、レナ・グランティスと。三者の出会いの場面とは、国内外から剣闘士を志願する方々との面接会でした。
剣闘場は戦えさえすれば誰でも参加可能ですので、面接をしたところでよほどの事情がなければ参加資格を得られます。大抵はエリシア様と、現在の剣闘大臣を務めているわたくしのふたりで、志願者の皆様とお会いしています。
「ふわぁ~あ……」
志願者の皆様をお呼びする前、エリシア様はだらしなく、大あくびを溢されました。苦言を呈したいところではありますが、皆様の面前で同じことをされては失礼ですので、今のうちに済ませていただける方がまだマシでしょう。わたくしは口を噤んで辛抱しました。
「最近、見どころのありそうな新人、ぜ~んぜんいないのよね~……今回も似たり寄ったりかしら。ねえ、レナ?」
「そうでしょうか……わたくしの目には、皆様、じゅうぶんに努力されているように映りますが……」
剣闘場は、世界最強の闘神であるエリシア様が「自分と対等に戦える者を見つけること」を目的に始まった活動でした。とはいえ、なにしろ彼女は「闘いの神」であるわけなので、いくら人間の最大限界の強者を見つけたとしてもエリシア様を満足させることは出来ないのです。開場から間もなかった百年前、当時のエリシア様は剣闘場にまだ期待を抱いていたそうですが、今やすっかり退屈をごまかせなくなっていました。
衛兵が面接会場の扉を開けて、そろそろ志願者を中へ入れますと報告に来ました。どうぞ、お通し下さいとわたくしは答えます。衛兵は廊下に戻り、五人の志願者を連れてやってきました。
最後尾についていた「五人目の志願者」の出で立ちに驚き、わたくしは目を疑いました。目のところだけが長方形にくりぬかれた真っ白な頭巾で顔を覆い隠していたからです。
一方、エリシア様は「お?」と言いたげに、目を輝かせていました。面接会の場では、腕に覚えのある者が、わたくしのような王族と、エリシア様という女王と間近で接する都合上、危害を加えようと思えば容易い距離感なのです。顔を極限まで隠した怪しい様相に、「もしかしてこいつ、賊なのかしら」と闘志に火をつけたのでしょうね。
大変申し訳ないのですが、わたくしもエリシア様も五人目のその人に気を取られすぎて、先に所信表明を述べられている志願者の皆様のお言葉が少しも記憶に残りませんでした。
わたくしの横に立つ衛兵が、五人目に立つように指示します。頭巾を外さないまま、彼は声を出しました。
「オレの目標は百勝して予選会を卒業して、本戦に出場してあんたと戦うことだ。エリシア・グランティス。それを踏まえて今日、この場で頼みたいことがある」
その人はいたって男性的な低い声質で、しかしよく通る済んだ響きでした。耳の奥深くにすんなりと入ってくる聞き取りやすい音色でした。
「それを受けるかはともかくとして、言うのは構わないわよ」
エリシア様のお言葉に「ありがてぇ」とくだけたお礼を述べて、少しだけ頭を下げながら、彼は頭巾を外しました。
「こいつが何を意味するか、あんたにはわかるだろ? 巨神竜」
彼の髪の毛は真っ赤に染まっていました。この世界では「赤い髪」は悲劇と畏敬の象徴とされていて、普通の人は自ら選んで染髪したりはしません。
「傀儡竜なのね、あんた。えーと……シホ・イガラシ?」
先ほどまでの高揚はすっかり失われて、エリシア様は冷えた眼差しで彼を見据えて、流れるように自身の膝元の資料に目を落とします。シホ様の提出された、志願にあたって必要な書類です。
傀儡竜は赤い髪を持って生まれます。その赤い色は、神罰を封印されている証です。二十歳になると赤い髪は彼が本来生まれ持った地毛の色へ戻り、その瞬間から神罰が下されるのです。
「そういうこった。オレは傀儡竜だから、あと五年しか戦えない。予選会の通常の決まり通りに一日一試合ずつやってたんじゃ、五年以内にあんたとの対戦資格を得るのに間に合わないかもしれない。特例で、その日オレが負けるまで試合を連戦させてくれ」
事情は重々承知なのですが、決まりそのものを変えて欲しい、ではなく「自分だけを特例として認めてくれ」とは、かなり図々しい願い出です。当然、このような前例はありません。わたくしは唖然としてしまいましたが、
「いいわよ、面白そうだから認めてあげる」
エリシア様は一寸の躊躇いも思考の暇すら感じさせぬ即答で、シホ様の特例を認めてしまいました。
シホ様といえば、一国の女王が情けをかけたというのにそれを「当然」と言わんばかりの表情で一礼し、着席しました。わたくしはあらためて、彼のお顔をまじまじと見てしまいます。
驚きのあまり思考停止していましたが、シホ様は声質はいたって男性的だというのに、お顔立ちはかなり女性寄りの美しい造作をされていました。剣闘士として志願されるくらいですから体を鍛えておられるので、お顔と体がちぐはぐな印象を受けます。……けれど。
二十年しか生きられない傀儡竜という運命を背負うゆえの儚さを内包しながら、それを一切憂いていないのが伝わってくる、自己肯定と自信に満ち溢れた輝かしい表情。その上での、女性的で美しいお顔でもありますので……はしたなくも、わたくしはだんだん、胸に動悸を感じ始めてしまいました。後になって振り返れば、おそらくそれは、いわゆる「一目ぼれ」……そういうことだったのでしょう。